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死に様データベース
《事故死》 《1405年》 《5月》 《某日》 《享年不明》


室町時代の大名大内盛見の嫡男。
父盛見は、
大内氏が世襲した周防・長門守護に加えて、
筑前・豊前守護にも任じられて、室町幕府の九州支配を担い、
中国地方と九州北部に大きな勢力を築いた。


応永12年(1405)5月、
大内氏の本拠周防山口(現・山口市)は、長雨に見舞われたらしい。
某日、
山口盆地の中央を流れる椹野川が、仁保川などと合流する鰐石付近で決壊。
濁流は、山口盆地の田畠や人家を押し流し、
多くの人々を飲み込んだだろう。
大内氏当主盛見の嫡男豊久丸も、
その濁流に飲まれ、命を落とした。

父盛見はこのとき29歳だったというから、
豊久丸は、長じても10歳前後だったろう。

豊久丸の遺骸は、
10㎞ほど下流の小郡下郷で発見されたとされる。
同地の妙湛寺(現・同市)には豊久丸の墓と伝わる墓石があり、
現在でも豊久丸の供養が行われている。
山口新聞 2020年6月22日


ところが、
この豊久丸の水死については、不思議な伝承も伝わっている。

かつて、大内氏の先代当主義弘が、幕府に叛乱を起こして滅亡したあと、
その弟たちの間で壮絶な家督争いが起こり、
それを制して実力で大内家を継承したのが、盛見だった。
自分の死後、再び一族で同じような争いが起こることを危ぶんだ盛見は、
兄義弘の子持世・持盛兄弟を、あらかじめ後継ぎに定め、
自ら息子の豊久丸を水害に乗じて葬り去ることで、
将来への禍根を断った、というのだ。

少々できすぎた話であり、信じるに足るほどのものではないが、
盛見の憂いが事実だとすれば、
盛見の没後、
持世・持盛兄弟の間で熾烈な家督争いが勃発しており、
盛見の不安は的中した、ということになる。



〔参考文献〕
藤井崇「盛見期の分国支配」(『室町期大名権力論』同成社、2013年)
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《病死》 《1383年》 《3月》 《11日》 《享年45歳》


藤原氏北家閑院流の三条家の傍流正親町三条家出身。
三条西家の祖。
従二位、権大納言。

長患いをしていた権中納言正親町三条公時の容態は、
永徳3年(1383)2月18日ごろから一層悪くなり、余命いくばくもないものとなっていた。
将軍足利義満に頼んで、3月3日、権大納言に任じられ、
11日暁、卒去。
死に臨んだ公時は、「南無阿弥陀仏」を数百遍唱え、正念に住し、
眠るように息を引き取ったという。
享年は45とも46とも。
「虚損の所労」(『後愚昧記』)と言われている。


最期を看取ったのは、すでに71歳に達していた父の実継だった。
前内大臣実継は、たいした病気もなく健在だったが、
子に先立たれて、世間の同情を集めている。

公時は、将軍義満のおぼえもよく、
所領の面でも厚遇されるなど、
一門の富裕さは他を抜きんでていたが、
働き盛りの公時の死去により「彼一流衰微」(『後愚昧記』)と噂されている。


公時の亡骸は、
弟が住持をつとめる嵯峨の浄金剛院に運ばれた。

公時の跡目については、
後小松天皇から足利義満へ、混乱なく取りはからうよう命じられ、
11歳の嫡男実清が継いだ。


〔参考〕
『大日本古記録 後愚昧記 3』(岩波書店、1988年)
《誅殺》 《1318年》 《11月》 《24日》 《享年35歳》


前参議、従三位。
綾小路家は、宇多源氏の一流で、
代々、郢曲(宮廷音楽のうちの歌いもの)を家業とした。

さて、今回の一件は、渡辺あゆみ氏の専論に詳しいので、
それに拠りつつ見てゆこう。


綾小路家の当主信有の嫡男であった有時は、
文保2年(1318)11月24日に行われる、
後醍醐天皇の清暑堂御遊の拍子役を命じられていた。
清暑堂御遊とは、天皇の代始に行われる音楽行事であり、
雅楽を家業とする家の者にとって、最重要の儀式であった。
30代半ばの有時は、
楽家の跡取りとして、これまでのキャリアもじゅうぶんであり、
満を持しての大役、ということであったようだ。


御遊当日の24日の夜、
有時が、会場となる内野(大内裏の跡地)に到着したとき、
事件はおこった。
鎌倉時代の歴史物語『増鏡』には次のように書かれている。
(仮名は適宜漢字に改めた。)

 清暑堂の御神楽の拍子の為に、綾小路宰相有時と言ふ人、
 大内(大内裏)へ参り侍るとて、車より降りられける程に、
 いとすくよかなる田舎侍めく物、太刀を抜きて走り寄る侭に、
 あや無く討ちてけり。
 さばかり立ちこみたる人の中にて、いと珍かにあさまし。
 さて拍子俄に異人承る。
 大事共果てて後、尋ね沙汰ある程に、
 紙屋川三位顕香と言ふ人の、
 此の拍子をいどみて、我こそつとむべけれと思ひければ、
 かかる事をせさせけり。
 道に好ける程はやさしけれども、いとむくつけし。(『増鏡』)

内野に入ったところで、牛車を下りようとしたところ、
屈強な田舎侍らしき人物が、太刀を抜いて走ってきて、
あっという間に有時をうち殺してしまった。
場所は、待賢門内とも郁芳門内とも、
有時は35歳とも36歳ともいわれている。


不慮の事件により、突如空席となってしまった拍子役に、
無慈悲な後醍醐天皇は、有時の弟で24歳になる有頼を当てようとしたが、
有頼は「悲歎」(『御遊抄』)により辞退し、
代わって参議中御門冬定がつとめることとなった。


その後、捜査が進められた結果、
従三位の紙屋川顕香という公卿が、
刺客を放った犯人である、とのことがわかった。
紙屋川顕香が有時の命を狙ったのは、拍子役を争ったため、
と、『増鏡』や『尊卑分脈』などは伝えているが、
顕香と有時とでは、雅楽界における経歴が比べものにならず、
とうていライバルにはなりえない、ともいう。
特に顕香は、公家のなかでも傍流の傍流に属する人物で、
故実に通じず、儀式での所作を間違えるなど、
公家社会では問題を起こす人物であったらしい。
有時とも、この直前に何らかのトラブルをおこしていたのではないか、
と推測されている。


捕えられた顕香は、武家に引き渡されて関東に護送され、
元亨元年(1321)8月付けで流罪となった。



〔参考文献〕
渡辺あゆみ「文保二年の綾小路有時殺害事件について」(『創価大学大学院紀要』32 2010年)
東京大学史料編纂所データベース
《事故死》 《1461年》 《5月》 《25日》 《享年19歳》


鶴岡八幡宮安楽院の若党。


寛正2年(1461)5月25日、
鎌倉鶴岡八幡宮の院家安楽院に仕える若党飯沼又太郎は、
何の用があったのか、由比ガ浜へ下りたところ、
海が荒れていたようで、波がしきりに押し寄せ、
再び岸に上がることができなかった。
溺死。19歳。
「哀しむものなり。」(『香蔵院珎祐記録』)

同僚や親類たちは、ふた時ほど小舟で捜索したが、
見つからなかったようで、
その後、法華経を書写して、安楽院で供養を行ったという。



〔参考〕
『戸田市史 資料編1 原始・古代・中世』(戸田市 1981年)
《誅殺》 《1412年》 《5月》 《2日》 《享年不明》


大名山名時煕の中間。


応永19年(1412)5月2日、
日野資教の被官大宮某の宿所にて、
右衛門三郎が大宮氏の若党と、
「博奕銭」(『山科家礼記』)のことで口論となり、
殺害。

右衛門三郎もその場で討たれた。


賭け事は、いつの時代ももめ事を起こす。



〔参考〕
『史料纂集 山科家礼記 1』(続群書類従完成会 1967年)
書陵部所蔵資料目録・画像公開システム 山科家礼記
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