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死に様データベース
《戦死》 《1441年》 《7月》 《28日》 《享年48歳》


周防・長門・豊前・筑前守護。

前代の叔父盛見の横死後、
弟持盛との家督争いに勝利した大内持世は、
盛見が苦戦した九州の大友・少弐氏との戦いも有利に進め、
九州北部にも勢力を拡大させた。

そうして、九州や本国周防・長門での活動をメインにし、
いっこうに上洛せず、室町幕府に出仕しなかったことで、
一時、将軍足利義教の不信を買う。

永享12年(1440)、ようやく上洛。
京都政界での立ち回りも巧みにこなし、
義教との関係も修復に成功した。
火災で焼失してしまっていた京都の宿所も、
義教のはからいで、花山院南八丁町に新たに屋敷地を得、
宿所を新造したという。


嘉吉元年(1441)6月24日、
持世は、将軍義教に供奉して、管領細川持之や正親町三条実雅らとともに、
赤松教康亭での結城合戦戦勝祝いに参席。
その酒宴のさなか、
赤松の手の者たちが一斉に飛び出し、
将軍義教を殺害した。
宴席はたちまちに血に染まり、乱闘の場と化した。
管領細川持之らが逃げ帰るなか、
持世と京極高数は、抜刀して防戦、
重傷を負った。

持世のその後の容態は詳らかでない。
ひと月あまり経た7月28日、
未完の新造宿所にて絶命。48歳。

遺言に曰く、

 その(事件の)時、(義教に)御供〈自殺〉奉るべきといえども、
 大敵を亡ぼさんがため、おろかにも逃げ去りおわんぬ。
 しかるに、存命せず。無念のことなり。
 死骸においては、葬礼に及ばず。
 早く掘り埋め、髪をもって九州の寺家に送るべし。
 家僕においては、一人のこらず急ぎ播州に発向し、
 赤松(満祐・教康)父子を誅戮すべし。
 これ第一の芳志たるべし。 (『建内記』)


在国していた養嗣子教弘は、すでに播磨赤松討伐のため、
隣国備前まで進軍していた。


赤松の目標は、おそらく義教ひとりであり、
持世は完全に巻き添えであろう。
それゆえにか、恨み節はすさまじい。


大内氏は、
応永の乱を起こして討死した先々代の父義弘といい、
九州での合戦で戦死した先代の叔父盛見といい、
3代続けてまともな死に方をしていない。



〈参考〉
『大日本古記録 建内記 3』 (岩波書店 1968年)
藤井崇「持世期の分国支配」 (『室町期大名権力論』同成社 2013年)
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《病死》 《1466年》 《閏2月》 《6日》 《享年57歳》


関東管領。
山内上杉氏当主。


応永17年(1410)、
越後守護上杉房方の三男として生まれた上杉憲実は、
若くして没した関東管領山内上杉憲基の養子となり、
応永25年(1418)、
9歳で越後から鎌倉に入った。


おりしも関東は、
上杉禅秀の乱が終息した直後であり、
鎌倉公方足利持氏による同乱の残党狩りが、
新たな戦乱の種を生みつつあった。
さらに、
そうした公方持氏の強硬姿勢が、室町幕府の不信を買い、
やがて京都・鎌倉の対立へと進んでゆく。
その難局に、幼い憲実は放り込まれたこととなる。

若き憲実は、主君持氏の命にしたがい、
反鎌倉公方派の討伐に発向するなどしたが、
長じるにつれて、
公方持氏と幕府の和睦を斡旋したり、
示威行動である将軍義教の富士下向を、延期するよう要請したりするなど、
幕府と鎌倉府の調整役という関東管領の本分を、発揮するようになる。
こうした憲実の活動は、
主君持氏の活動を抑止するものとなり、
主従の政治的関係を、微妙なものにしていった。


永享9年(1437)、
持氏憲実の対立はついに決定的となり、
翌10年(1438)、
憲実討伐の兵を挙げた持氏に対して、
憲実は幕府と謀って、これと戦うこととなった。
幕府と上杉の軍勢を前に、ほどなく持氏は降じて、
蟄居、剃髪。
憲実は、持氏の助命を願ったが、
結局、将軍義教に押し切られ、持氏を自害させた。

主君を死に追いやった憲実は、
一時は、自害を図ったりもして、
翌永享11年(1439)、伊豆国清寺に退き、
剃髪。
時に30歳。
後事を弟清方に託し、政界から引退した。


しかし、時節はそれを許さなかった。
永享12年(1440)、
下総の結城氏朝らが持氏の遺児を担いで挙兵。
これを鎮圧することとなった幕府は、
憲実へ帰参を命令。
憲実はこれに服して、
8月、下野小山に赴き、
弟清方とともに結城城攻めにあたった。
翌嘉吉元年(1441)4月、結城城陥落。
結城氏朝以下は討死し、
持氏遺児の幼い安王丸・春王丸兄弟は、
護送途中に美濃で誅殺された。

二度までも主家を死へ至らしめた憲実は、
再び隠遁を強く望んだ。

それも束の間、
同年6月、将軍義教は嘉吉の変で斃れた。
東西の混乱期に、
東国の重鎮憲実への期待は弥増したのである。


そうしたなかで、
憲実は、隠退への準備や子供たちの行く末について、
着々とことを進めている。
関東のことは清方に任せて、
長男竜忠は、僧籍に入れて、
万一還俗した場合には、義絶するとし、
また、
次男竜春には、越後・西国の所領を譲って京都奉公させることとした。
自分の子らが、関東政界にかかわることを拒絶したのである。


しかし、
再び時節が憲実の復帰を要することとなる。
ほどなく清方が没し、
関東管領が空席となってしまい、
さらに、
持氏遺児をして鎌倉府を再建させることとなり、
東国情勢に通じた補佐役の存在が不可欠となったのである。

文安4年(1447)、幕府は、
後花園天皇の綸旨まで出して、憲実の帰参を強請。
だが、
2度目とあって、
憲実は頑なに復任を辞した。
このとき、
すでに伊豆狩野に退いている。

憲実の辞意が固いと見るや、
幕府は、
すでに家臣に担がれて還俗していた、憲実の長男竜忠(憲忠)を、
関東管領とすることとした。
憲実に、父として関東管領憲忠を補佐させることで、
関東政界にかかわらせることとしたのだが、
憲実は、憲忠はすでに義絶しているとして、これも拒否。


僧となり、政治の世界に決別を告げた憲実(号長棟)は、
主家を討った罪報の全国行脚に出る。
文安5年(1448)には京都を経て、さらに西へ西へ、
享徳元年(1452)には、
関東から遠く離れた本州の西の端、長門国に至り、
深川の大寧寺に入ったとされる。
ここで、大寧寺住持竹居正猷の弟子となり、
槎留軒に住して、儒と禅に没頭した。
長棟43歳。

この間、
幕府は東国情勢安定のため、
なおも憲実帰参のことを繰り返していた。
しかし、享徳3年(1454)末、
新たな鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉憲忠のもとでは、
安定を見なかった東国情勢は、
公方成氏による管領憲忠の謀殺という、最悪の結果を招き、
享徳の乱を勃発させた。
さらに、
憲忠の跡には、
憲実が京都奉公を命じた次男房顕(竜春)が擁せられ、
公方成氏に対抗する上杉方の大将に立てられたが、
寛正7年(1466)2月、武蔵五十子での陣中で病没。


その次男の死を聞いたかどうか、
翌閏2月の6日、
長棟は大寧寺槎留軒でその生涯を閉じた。
享年57歳。

画僧小栗宗湛は、次のように評している。

 人皆その風を望む。
 敬せざるなし。
 忽ち逝去を聞き、
 感ずべき慕うべきなり。(『蔭涼軒日録』)


幕府の命とはいえ、主家を二度までも死に至らしめ、
さらには、
子息を世俗の争いの犠牲として喪った。
俗世の身分を捨て、復帰を頑なに拒み、
仏道にのめり込むには十分であろう。

大寧寺境内に、
憲実の墓と伝えられる石塔が、ひっそりと立っている。
大寧寺は、中国地方の戦国大名大内義隆自害の地としても知られている。





〔参考〕
田辺久子『上杉憲顕(人物叢書)』 (吉川弘文館 1999年)
小国浩寿『鎌倉府と室町幕府』 (吉川弘文館 2013年)
則竹雄一『古河公方と伊勢宗瑞』 (吉川弘文館 2012年)
《誅殺》 《1469年》 《10月》 《17日》 《享年24歳》


従二位、権大納言。
前関白一条教房の子、兼良の孫。


応仁元年(1467)に始まった応仁・文明の乱は、
西国の大内政弘の上洛、足利義視の西軍合流を経て、
泥沼化の様相を呈していた。

連日の合戦で、京都は焦土と化し、
公家や僧侶たちは、戦乱を避けて、
所縁のある土地や所領へ下って行った。
前関白一条教房は、
いったん奈良に避けたのち、土佐へ、
その息一条政房も、
同じくいったん奈良へ下ったのち、
応仁2年(1468)11月には、
家領の摂津福原荘(兵庫荘とも)に下った。
兵庫福厳寺を住まいと定めたという。

荘内に所在した瀬戸内水運の要衝兵庫湊は、
当時、西軍の主力大内政弘勢の兵站基地となっており、
その家臣問田弘綱が守っていた。
この問田が、政房の安全を引き受けた。
政房も、問田らを信頼していたようである。


しかし、そこは戦乱のさなか。
西軍大内勢の兵站基地を抜かんとして、
文明元年(1469)10月16日、
東軍の山名是豊や赤松政則の軍勢が、兵庫を急襲。
守将問田弘綱と激突した。
初戦は大内方が優勢であったが、
山名・赤松勢の大軍が到着するにつれ、形勢は逆転していった。

そして、
翌17日未の刻(午後2時頃)、
兵庫を焼き払い、殲滅戦を敢行する山名勢や赤松・宇野・小寺・明石勢は、
福厳寺に乱入。
そこにいた政房を弑逆した。

18日、
大内方は、奈良方面に没落し、
守将問田も、いずこへ落ちていった。

軍記物『応仁記』や『応仁別記』は、以下のように描く。

 新御所様(政房)は、本領の兵庫にいる折も、
 いつものとおりのご装束にて、直衣狩衣を着し、
 それは優美なるお姿であった。
 どんな荒夷であっても、
 このような高貴なお姿を見知っておくべきだが、
 一人の武士が走ってきて、
 そんなことは思いもわかず、
 敵とみなして、長鑓を新御所の胸元へ突き通した。
 新御所は少しも姿勢を崩すことなく、
 「南無四方極楽世界阿弥陀仏」と唱えて、
 そのまま朝の露と消えた。
 孫の死を聞いた兼良はたいそう悲しみ、次の歌を詠んだ。
 
  とても死ぬる命をいかで武士の家にむまれぬ事ぞくやしき


遺体は、東光寺において荼毘にふされた。
24歳とされている。
大納言局や御所侍新次郎等、身辺の者たちが出家した。
辞世の歌があったというが、今日には伝わらない。


奈良興福寺の大乗院尋尊(兼良の子)は、
兵庫の情報が入ってきた21日以降、甥政房の身を案じていたが、
11月6日になっても確報がつかめず、
やきもきした様子を、日記『大乗院寺社雑事記』に記している。
情報が入ってきたのは、
20日以上経った、11月11日以降のことであった。
18日には、入道した御所侍新次郎が尋尊のところへ来て、
政房最期のさまを語った。
12月初旬には、土佐にいる父教房のもとへも、
息子の横死が伝わっている。

尋尊は、
保元の乱の際に、流れ矢で命を落とした藤原頼長を引き合いに出し、
次のように述べている。
「摂家においては、保元御乱に、
 宇治左府(藤原頼長)、流れ矢により薨じ給う。
 これは両帝の御競いなり。
 臣下の身、無力の事なり。
 只今の儀、一向悪党の沙汰、
 末代至極の事なり。
 かつがつ当社(春日社)大明神の神慮如何。
 但し、事の様を思案するのところ、
 公家のありさま、皆もってかくの如し。
 前後遅速の階級ばかりなり。
 命を失うべきものなり。
 歎くべし歎くべし。」 (『大乗院寺社雑事記』)



〔参考〕
『増補続史料大成(普及版) 大乗院寺社雑事記 4』 (臨川書店 2001年)
『増補続史料大成(普及版) 大乗院寺社雑事記 5』 (臨川書店 2001年)
『大日本史料 第8編之3』 (東京大学出版会 1969年)
石田晴男『応仁・文明の乱 (戦争の日本史 9)』 (吉川弘文館 2008年)
藤井崇『大内義興―西国の「覇者」の誕生 (中世武士選書)』 (戎光祥出版 2014年)
東京大学史料編纂所データベース
《誅殺》 《1448年》 《8月》 《8日》 《享年49歳》


室町幕府奉公衆。
播磨・備前・美作守護赤松満祐の弟。


嘉吉元年(1441)6月24日、
兄満祐と甥教康が、
将軍足利義教を自邸に招いて謀殺した。
主を欠いた幕府は、
混乱の末、ようやく赤松討伐軍を派遣し、
播磨国境各所で、激しい戦闘が行われた。

赤松則繁も、
兄弟とともに幕府軍と戦い、
8月26日の播磨蟹坂合戦で、敗れて退却する折、
加古川渡河に失敗し、溺死。
とされたが、
実際には生き延び、
赤松方最後の拠点、城山城の籠城戦にも参加、
落城の際には、甥教康とともに城を脱出した。


その後のしぶとさが興味深い。


行方知れずとなっていた則繁の足取りがつかめるのは、
翌々年の嘉吉3年(1443)のこと。
九州の菊池氏を頼ったのち、
朝鮮半島に渡り、散々に暴れ回っていた。
「一ヶ国を打ち取り」(『建内記』)というほどの、
広範な暴れぶりだったらしい。
その年の6月、
朝鮮王朝が、使者を室町幕府に遣わし、
則繁の討伐を訴えたのであった。


則繁は、その後再び九州に出没する。
当時、九州北部では、
幕府の支持を得つつ勢力を伸張させていた大内氏と、
対馬より筑前の奪回を狙っていた少弐氏が争っていた。
則繁はこの争いに首をつっこみ、
文安5年(1448)正月、
少弐嘉頼に与して、大内教弘と戦い、敗退している。
傭兵の頭目のような存在だったのだろうか。


しぶとい則繁であったが、
幕切れは意外にあっさりとしている。

同じ文安5年(1448)の8月、則繁は、
河内当麻にて、甥の赤松則尚に討たれた。
赤松氏は、一族の再興を目指して共闘していたが、
阿波守護細川持常から赤松則尚へ、
則繁の討伐と赦免等を引き換えとする誘引があり、
その結果、裏切られたという。

8月8日、
則繁と郎党大西某・魚住某の首が、京都に到着し、
18日未の刻(午後2時頃)、
将軍足利義成以下、管領細川勝元・畠山持国らによる首実検が行われ、
六条河原に晒された。


倭寇の時代、
国内外での広範な活動は珍しくないが、
こと大名家の親類というのは、
稀有な例ではなかろうか。



〔参考〕
『大日本古記録 建内記 5』 (岩波書店 1972年)
『大日本古記録 建内記 6』 (岩波書店 1974年)
『増補史料大成 康富記 2』 (臨川書店 1965年)
高坂好『赤松円心・満祐(人物叢書)』 (吉川弘文館 1970年)
東京大学史料編纂所データベース
《事故死》 《1502年》 《3月》 《22日》 《享年38歳》


室町幕府奉公衆。
南北朝期に、信濃の小笠原氏から分かれた家で、
在京して、室町将軍家に仕え、
武家故実の相承や弓馬師範にあたった。
礼儀作法で名高い「小笠原流」の起源であるとされる。


文亀2年(1502)3月、
小笠原尚清は、
 鷹の飼育に必要な鳥の雛を取ってこい
との、将軍足利義高の命を受けた。
小笠原氏が、鷹術師範も務めていたからであろう。

命を受けた尚清は、17日頃、
管領細川政元の屋敷の庭で、
木に登って、鳥の巣から雛鳥を捕ろうとした。
ところが、
足を滑らせたか、木より落下。
このとき、枯れ木の枝で足を踏み抜き、
それがもとで、破傷風を発症。
高熱をともなう症状は、20日には重篤となり、
22日、死亡。
38歳であった。

「かの一流口伝断絶か。
 もってのほかの儀也。
 …希代の事也。」(『小槻時元記』)
とは、官人大宮時元の言。


事故からわずか4、5日。
なんとも同情を禁じ得ない。



※ 本記事の内容は、K氏の情報提供による。記して謝したい。

〔参考〕
『続史料大成 大乗院寺社雑事記 11』 (臨川書店 2001年)
東京大学史料編纂所データベース
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