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死に様データベース
《病死》 《1367年》 《4月》 《26日》 《享年28歳》


初代鎌倉公方。

室町幕府初代将軍足利尊氏の子で、
2代将軍義詮の弟。
叔父足利直義の養子になっていたとも。


貞和5年(1349)、足利方の内訌(観応の擾乱)に際し、
19歳の兄義詮が、鎌倉から京都へ召喚されると、
代わって9歳の足利基氏が、京都から鎌倉に遣わされた。
こうして、幼い基氏が、
兄と入れ替わるようにして、
関東における足利方の中心、“鎌倉公方”となったのである。

その後の観応の擾乱では、
幼少だったためか、
尊氏方に担がれたり、直義方に奪取されたりしたが、
擾乱の終息とともに、鎌倉に戻った。
文和3年(1353)7月から康安2年(1362)9月の間は、
越後・上野や武蔵の反乱分子を抑えるべく、
武蔵入間川に長期在陣する。

その間も含め、
延文3年(1358)10月には、
武蔵矢口渡で南朝方新田義興を謀殺し、
延文4年(1359)1月、
幕府の南朝方掃討作戦のため、関東執事畠山国清ら関東勢を畿内に派遣、
康安2年(1362)9月、
関東武士の支持を失った畠山国清を放逐、討伐。
さらに、
貞治2年(1363)3月、
畠山国清に代わって、逼塞していた上杉憲顕を関東管領に迎え、
同時に岩松直国・三浦高通らも呼び戻して、鎌倉府の体制を建て直すとともに、
憲顕の復権を阻もうとする芳賀禅可を駆逐し、
貞治3年(1364)7月には、
世良田義政・梶原景安を誅殺。
こうして、
基氏は、反乱分子を抑えて、
関東における足利氏権力の確立につとめた。

そのせいもあってか、
関東の安泰は、畿内に先んじて訪れている。
康安元年(1361)頃まで、幕府が南朝方と京都攻防戦を続けていたのに対して、
鎌倉は、
観応3年(1352)以来、敵の手に堕ちていない。
基氏の功績は大きい。


また、基氏は、
文芸や音楽、禅宗にも非常に興味を抱いており、
冷泉為秀に和歌の添削を請うたり、
豊原信秋らから笙の相伝を受けたり、
禅僧義堂周信を鎌倉に招いて、禅を学んだりしている。
東国の主として、文化人の側面も持っていたのである。


貞治6年(1367)3月中旬、
基氏はやや体調を崩した。
4月になっても回復しなかったらしい。
はしかであったという。
鎌倉中の寺社では、平癒の祈祷が行われたが、
日を逐って悪化し、
24日には、義堂周信を呼び、後事を託した。
25日、危篤に陥り、
26日、逝去。
28歳。

駆けつけた義堂周信が、遺骸を摩ると、
まだほのかに温かかったという。
遺言により、
義堂周信の僧衣がかけられ、瑞泉寺に葬られた。

5月1日、
基氏の訃報は、京都に発せられた。
京都でも、「天下の重事」(『後愚昧記』)と受け止められ、
4日には、基氏「蘇生」(『愚管記』)のデマが飛ぶなどしている。
3日、弟基氏の訃報がもたらされた際、
将軍義詮は、仏事の最中だったが、慌てて帰邸した。
弟の死を悼み、その後も、四十九日の仏事等を行っている。
また、鎌倉時代の北条氏の例に則って、洛中の服喪も定められた。


翌貞治7年(1368)2月、
上杉憲顕の復権によって、立場を失っていた河越直重・高坂氏重や宇都宮氏綱が、
武蔵河越や下野宇都宮で蜂起。
基氏の存命中は、彼自身が対立する両者のバランスをうまくとり、
内乱の勃発を抑えていたのだが、
そのバランサーを欠くと同時に、内乱が勃発したのである。
基氏の名君ぶりを示すできごとであるが、
如何せん、その死が早すぎた。



〔参考〕
蔭木英雄『訓注空華日用工夫略集 中世禅僧の生活と文学』 (思文閣出版 1982)
田辺久子『関東公方足利氏四代』 (吉川弘文館 2002)
峰岸純夫「南北朝内乱と武士」 (『中世の合戦と城郭』 高志書院 2009)
小国浩寿『鎌倉府体制と東国』 (吉川弘文館 2001)
植田真平「南北朝後期鎌倉府の関東支配体制と公方直臣」 (『日本歴史』750 2010)
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《自害》 《1503年》 《4月》 《1日》 《享年不明》


越前朝倉氏の一族。

朝倉氏は、
応仁・文明の乱で活躍した孝景に子が多く、
孝景死後は、一族の争いが絶えなかった。
特に、当主貞景と、叔父元景・その婿景豊との対立は、
年々激しさを増していた。


文亀3年(1503)4月、
朝倉氏の当主貞景は、
越前敦賀城に景豊を攻めた。

籠城する朝倉景豊は、
一族の多くが自分に味方していると思っていたが、
頼りにしていた従兄弟教景(のちの宗滴)が敵陣に寝返ったと知って、
愕然とした。
敗北を悟って、景豊は自害を決めた。

軍記物『賀越闘諍記』は、そのさまをこう描く。

 「私は、もう籠の中の鳥、網にかかった魚に等しい。
  みな、私とともに命を捨てても、無益だ。
  敵も、降服した者を斬ることもあるまい。
  みな、早く城を出たまえ。
  もし、私と志を同じくする者がいるならば、
  存分に戦って、心安く自害しよう。
  ただし、みな私より先に切腹してはならない。
  私が死んだ後、城に火を放ち、骸を火中に捨てよ。
  決してみっともない真似をして、
  後代まで人に笑われるようなことはするな。」
 と、景豊はこまごま言い置いて、
 経を読んだのち、
 庭先の木を削って、辞世の詩を書き入れた。
  二十余年の楽
  電光石火の中
  邪正何ぞ隔て有らん
  皆是本来空
 そして、十文字に腹を斬り、果てた。

20代の若者の死。
劇的演出の典型。

景豊の舅元景は、
近江より景豊の救援に向かったが、
途中で景豊の自害を聞き、空しく近江に引き返した。
これはどうやら史実らしい。



〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅴ』 (石川県 2006)
『国史大辞典1 (あ-い)』 (吉川弘文館 1979)
《病死》 《1496年》 《4月》 《25日》 《享年42歳》


加賀北半国・播磨・備前・美作守護。


大伯父満祐が、嘉吉の乱を起こして、室町幕府に滅ぼされてのち、
赤松氏は没落したが、
旧臣たちの尽力により、政則が家督に立てられ、
家を再興した。

赤松政則は、加賀北半国守護を足がかりに、勢力の挽回に努め、
旧本領播磨・備前・美作の守護に返り咲き、
赤松氏は昔日の勢いを取り戻した。

応仁・文明の乱やその後の難しい政局も、巧みにくぐりぬけ、
将軍足利義政・義尚らの信任も厚かったという。


明応5年(1496)閏2月29日、
赤松氏としては異例の従三位に叙せられたが、
4月25日申の刻(夕方4時頃)、
播磨坂田の九斗寺にて病没。


三条西実隆は、
政則の今日の威勢は、無双のものであり、
 その富貴さは、比肩する者がいないほどであった。
 年齢もまだ壮齢であった。
 世の無常は、権勢も貴賤も関係なく、瞬く間に訪れる。
 ただ眼前の悲嘆に驚いている。」(『実隆公記』)
と、その死を悼んでいるが、
興福寺大乗院の尋尊は、
政則の命日4月25日が、
政則の攻撃によって切腹した畠山政長の命日と同じである、
(ただし、政長の切腹は正しくは閏4月25日)
と不思議がり、
東坊城和長に至っては、
「分不相応な従三位にのぼったから、
 天罰が降ったのではないか」(『和長卿記』)
とまで書いている。

死も生も、ひとのとりよう。



〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅲ』 (石川県 2004)
『国史大辞典1 (あ-い)』 (吉川弘文館 1979)
《自害》 《1417年》 《正月》 《10日》 《享年不明》


鎌倉公方御連枝。


3代鎌倉公方足利満兼の次男で、
「乙若」、あるいは「乙御所」と呼ばれた。
母は身分の低い身であったらしく、
応永7年(1400)6月、鎌倉に呼び戻されるまでは、
上野で育てられたらしい。

応永17年(1410)12月、
鎌倉公方となっていた兄持氏とともに元服し、
将軍足利義持の一字をもらって、「持仲」と名乗る。
このとき、10歳前後であったろう。
いつの頃か、叔父満隆の養子となった。


養父満隆は野心の人であり、
若き甥持氏の鎌倉公方の地位を、たびたびうかがった。
その都度、鎌倉の市中は騒然とした空気になって、
関東管領上杉憲定が場をとりもったりしている。

応永23年(1416)10月2日、
満隆は前関東管領の上杉禅秀と組んで、ついに叛乱を起こす。
ただちに、鎌倉公方持氏らを急襲して放逐し、鎌倉を掌握。
クーデターは成功して、
満隆は、鎌倉公方になりすました。
養子持仲は、瞬く間に、
公方御曹司としてまつりあげられたのである。

しかし、
年末のあたりから、満隆・禅秀方は分が悪くなり、
各地で持氏方に連敗した。
年明けた応永24年(1417)正月10日、
持氏方に鎌倉に攻め込まれ、
満隆・持仲禅秀一族は、
雪ノ下の鶴岡八幡宮別当坊で自害。
持仲は10代半ばであったと思われる。



この足利持仲の短い人生において、その事績は明らかでなく、
叛乱に対しても、何ら主体性は感じられない。
幼いころは父に認知されず、
長じては、家臣に担ぎ出され、
養父の野望につきあわされた果てに自害、
というならば、いささか不憫である。

同様の事例は、中世には少なくないけれども。
《自害》 《1423年》 《8月》 《9日》 《享年不明》


関東の大名。

宇都宮氏の庶流武茂氏の出身で、
惣領家満綱の娘婿となり、惣領家を継ぐ。


応永23年(1416)の上杉禅秀の乱では、
宇都宮持綱は当初静観しつつ、室町幕府との連絡を密にし、
幕府が鎌倉公方足利持氏の支援を決したのち、
それに従って行動を開始した。

この、鎌倉府の上意より室町幕府の上意を優先するという方針が、
持綱の命取りとなる。


乱後、持綱は幕府より、
禅秀の滅亡によって空席となっていた上総守護に推挙された。
しかし、
自分の近臣を守護にしたい鎌倉公方持氏にとっては、
幕府の推挙や持綱の存在は面白くない。
期せずして持綱は、
幕府と公方持氏の対立の渦中に置かれてしまったのである。


応永25年(1418)10月、
幕府との折衝の結果、
公方持氏はいったん、宇都宮持綱の上総守護就任を了承した。
だが、
翌年にかけて、上総では禅秀残党の蜂起が相次ぎ、
持綱の上総守護支配は、思うようには進まなかった。
まもなく、幕府も持綱による上総支配を諦めたらしい。


応永29年(1422)、公方持氏は、
反公方派の大名・国人の弾圧を開始する。
彼らは、幕府にとりいって、公方持氏に反抗していたのであった。
東国の情勢とともに、幕府と鎌倉府の関係も、
一気に緊張の度合いを増した。
6月、鎌倉府軍は常陸国人小栗満重を攻め、
閏10月には、常陸佐竹氏一族の山入与義を誅殺した。
そして、次なる標的に、宇都宮持綱が向けられたのである。

翌応永30年(1423)5月、
北関東の反持氏派の、本格的な討伐に乗り出した。
公方持氏自ら、武蔵、ついで下総古河・結城へ出陣するほどの、
気の入れようである。
窮地に立った宇都宮持綱は、助力をもとめるべく、
京都の幕府のもとに、使者を派遣する。

6月11日、
宇都宮を出発した使者白久但馬入道父子は、
関東平野を避け、会津を経由して、京都を目指した。
途中、南会津で持氏方の軍勢に襲われ、
但馬入道は捕縛され、斬られてしまう。
その子永訴が、父の遺命を継ぎ、
会津・北陸を経て、
7月4日、ようやく京都に到着した。


幕府はすぐさま、対策を議し、
小栗・宇都宮らへの支援を決定して、
使者に返書を持たせた。
7月8日、使者は京都を発つ。
だが、幕府軍の東国下向はなかなか決まらなかった。
“支援”と言っても、お墨付きを与える、といった程度で、
具体的に援軍を送るとか、そういうことはまた別だったらしい。


そうやって幕府がもたもたしている間も、
関東の情勢は時々刻々と変化していく。

6月下旬以来、常陸小栗城を攻めあぐねていた鎌倉府軍であったが、
8月2日、これを陥して小栗満重を滅ぼし、
同日、常陸真壁城も陥して、真壁秀幹を討った。
鎌倉府軍は鎌倉へ帰還せず、そのまま宇都宮持綱討伐に向かう。

大軍を前に利を失った持綱は、宇都宮城を脱する。
北国経由で、幕府の庇護下に逃げ込もうとしたのだろうか、
会津へ向かう街道を進んだらしい。
8月9日、
その道中の下野塩谷で、一族塩谷家綱に裏切られ、自刃。


使者永訴が宇都宮に戻ったかどうかは不明だが、
肝心の幕府軍来援が決定したのは、
持綱自刃の前日、8月8日。
持綱の無念のほどが知れる。



〔参考〕
山家浩樹「上総守護宇都宮持綱」 (『日本歴史』490 1989)
江田郁夫「持氏政権期の宇都宮氏」 (『室町幕府東国支配の研究』 高志書院 2008)
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