死に様データベース
《自害》 《1418年》 《2月》 《10日》 《享年42歳》
正二位、権大納言。
応永25年(1418)2月、
中院通守は、朝廷より春日祭の上卿を命じられた。
しかし、
経済的な困窮状態にあった通守は、務められないとこれを辞退。
朝廷はなおも厳命を下すが、
通守は、再三辞退した。
かくして、通守は、
とても窮困の身には、朝廷にお仕えすることはできない。
かくなる上は、ただもう自害したい。
と、常日頃からこぼしていた。
よほど追い詰められていたものと見える。
10日、酒宴の後、
通守は持仏堂にこもって、
小刀でのどを掻き切った。
この「狂気」(『看聞日記』)の沙汰を、
人々はみな噂し合った。
公卿すら貧窮により自殺する時代。
27日の春日祭では、
代わって今出川公富が上卿を務めた。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
正二位、権大納言。
応永25年(1418)2月、
中院通守は、朝廷より春日祭の上卿を命じられた。
しかし、
経済的な困窮状態にあった通守は、務められないとこれを辞退。
朝廷はなおも厳命を下すが、
通守は、再三辞退した。
かくして、通守は、
とても窮困の身には、朝廷にお仕えすることはできない。
かくなる上は、ただもう自害したい。
と、常日頃からこぼしていた。
よほど追い詰められていたものと見える。
10日、酒宴の後、
通守は持仏堂にこもって、
小刀でのどを掻き切った。
この「狂気」(『看聞日記』)の沙汰を、
人々はみな噂し合った。
公卿すら貧窮により自殺する時代。
27日の春日祭では、
代わって今出川公富が上卿を務めた。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
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《病死》 《1337年》 《3月》 《27日》 《享年不明》
下総神崎荘多賀郷・常陸南郡大枝郷栗俣村の領主。
14世紀前半、全国的に展開した南北朝の動乱は、
あらゆる人々を、戦乱の渦に巻き込んでいった。
その渦中の最も中心に近いところに、
戦闘を職能とする集団である武士がいたことは、
いうまでもない。
建武2年(1335)、
足利尊氏が鎌倉にて、後醍醐天皇に叛旗を翻すと、
東国武士野本朝行も、これに随った。
12月11日、
後醍醐方と衝突した伊豆愛沢原合戦で先駆けを果たし、
同日の中山合戦では、
味方劣勢ながら、若党10余騎を率いて、
結城朝祐勢とともに敵陣に駆け入り、
敵1騎を斬り倒した。
首を取ろうとしたが、
大将山名時氏に、
「首を取らずに、先へ進め」
と命じられ、
討った敵を川端へ追い落として、進んだ。
箱根・竹ノ下の戦いとしても有名な、この一連の合戦で、
足利尊氏は、後醍醐方の新田義貞を追い散らし、
京都を目指して東海道をひた走ってゆく。
12月12日、
伊豆国府合戦で、
中間平五郎を喪う。
翌建武3年(1336)正月3日、
近江伊幾寿宮合戦で、
朝行の若党岩瀬信経は、敵城に攻め入ったが、
左右の頬を射抜かれてしまった。
他の若党丸山為時・片切成義も、負傷。
正月8日、
若党岩瀬信経らは、結城朝祐の手勢とともに、
山城石清水八幡の敵を追い落とし、
木津川の橋を渡る敵に対して、
橋上の櫓を打ち破り、橋桁を踏み落とすという活躍を見せた。
ただ、若党の一人岩瀬胤経は、負傷。
正月16日、
若党岩瀬信経・光家らは、
京都法勝寺脇に、残敵を追い詰め、
纐纈の直垂を着る、身分の高そうな武士を1騎、討ち取った。
正月27日、
この日も、若党信経・光家らが、
中賀茂の西にて、敵方の鞍馬法師3人を生け捕りにする。
だが、
その後の戦闘で、信経は乗馬を射られてしまった。
正月30日、
京都法成寺西門前の戦闘で、
朝行の郎等杉本吉弘が、
敵方結城親光の家人関孫五郎を組み伏せ、
首を取った。
これらの合戦で、
尊氏方は、いったんは京都を奪うも、
後醍醐方の来援が相次いだことで、これを放棄し、
瀬戸内を西走する。
2月1日、
朝行は、足利尊氏に随って、
丹波篠村経由で、摂津兵庫に至る。
2月10日、
摂津西宮合戦では、
尊氏の弟直義の勢に属した。
2月11日、
摂津豊島河原合戦では、河原に陣を取るも、
直義がにわかに兵庫へ帰ったことで、
朝行もこれに随った。
2月12日、
窮地の足利方は、皆決戦での討死を覚悟したが、
直義は、夜陰に船に乗って出港してしまった。
それを知らず、供奉できなかった失意の朝行は、
敵が近いこともあって、
密かに京都に入り、その人波に身を隠す。
2月30日、
その京都も脱出し、本国関東を目指す。
その途次、三河などで、
野臥の襲撃に遭うことは何度もあった。
また、
後醍醐方の遠江井伊城攻めに加わったりもしたらしい。
その後は、関東の戦乱に活動場所を移す。
後醍醐方の北畠顕家の南進の際には、
一族とともに、下野小山城に籠城し、これと戦った。
11月3日、
下野横田・毛原合戦で、敵の首1つをとる。
また、郎等大淵彦九郎入道が、負傷している。
建武4年(1337)3月10日、
後醍醐方の小田治久・益戸虎法師丸が、
常陸府中に攻めてきたときには、
若党岩瀬信経が、朝行の代官として出陣。
敵1人を討った。
それからわずか17日後、
3月27日、朝行他界。
おそらくは、戦死ではなく、病死と思われる。
「合戦の静謐を待っていた折」(「熊谷家文書」)であった。
最期の数年間、戦場に身を置いて、
ときに、仲間が傷付き、死んでゆくのを見る朝行の苦悩は、
いかほどのものであったろう。
上記の軍功のほとんどが、
朝行本人のものではなく、若党の活躍ばかりなのも、
そんな思いを反映しているのかもしれない。
戦場で落命しなかった分、
まだ幸せだったと見るべきだろうか。
朝行の死後、
子の鶴寿丸が、幼少ながら若党らを率いて戦場に出た。
建武4年(1337)7月8日、
常陸関城合戦では、
鶴寿丸の代官の1人として出陣した新妻胤重や、
一族の野本高宣以下、若党4人が、討死。
また、
野本家の所領である下総神崎荘多賀郷には、
後醍醐方の千葉貞胤が乱入し、
野本家の代官と連日合戦を行った。
常陸の所領大枝郷栗俣村にも、
後醍醐方の小田治久らが攻め入って、
代官らが焼け出され、
その家族は、山林に逃げ込んだという。
「合戦静謐」(「熊谷家文書」)を待つ、
平和を待ち望む思いは、
時代を問わない。
〔参考〕
『南北朝遺文 関東編 第1巻』 (東京堂出版 2007年)
下総神崎荘多賀郷・常陸南郡大枝郷栗俣村の領主。
14世紀前半、全国的に展開した南北朝の動乱は、
あらゆる人々を、戦乱の渦に巻き込んでいった。
その渦中の最も中心に近いところに、
戦闘を職能とする集団である武士がいたことは、
いうまでもない。
建武2年(1335)、
足利尊氏が鎌倉にて、後醍醐天皇に叛旗を翻すと、
東国武士野本朝行も、これに随った。
12月11日、
後醍醐方と衝突した伊豆愛沢原合戦で先駆けを果たし、
同日の中山合戦では、
味方劣勢ながら、若党10余騎を率いて、
結城朝祐勢とともに敵陣に駆け入り、
敵1騎を斬り倒した。
首を取ろうとしたが、
大将山名時氏に、
「首を取らずに、先へ進め」
と命じられ、
討った敵を川端へ追い落として、進んだ。
箱根・竹ノ下の戦いとしても有名な、この一連の合戦で、
足利尊氏は、後醍醐方の新田義貞を追い散らし、
京都を目指して東海道をひた走ってゆく。
12月12日、
伊豆国府合戦で、
中間平五郎を喪う。
翌建武3年(1336)正月3日、
近江伊幾寿宮合戦で、
朝行の若党岩瀬信経は、敵城に攻め入ったが、
左右の頬を射抜かれてしまった。
他の若党丸山為時・片切成義も、負傷。
正月8日、
若党岩瀬信経らは、結城朝祐の手勢とともに、
山城石清水八幡の敵を追い落とし、
木津川の橋を渡る敵に対して、
橋上の櫓を打ち破り、橋桁を踏み落とすという活躍を見せた。
ただ、若党の一人岩瀬胤経は、負傷。
正月16日、
若党岩瀬信経・光家らは、
京都法勝寺脇に、残敵を追い詰め、
纐纈の直垂を着る、身分の高そうな武士を1騎、討ち取った。
正月27日、
この日も、若党信経・光家らが、
中賀茂の西にて、敵方の鞍馬法師3人を生け捕りにする。
だが、
その後の戦闘で、信経は乗馬を射られてしまった。
正月30日、
京都法成寺西門前の戦闘で、
朝行の郎等杉本吉弘が、
敵方結城親光の家人関孫五郎を組み伏せ、
首を取った。
これらの合戦で、
尊氏方は、いったんは京都を奪うも、
後醍醐方の来援が相次いだことで、これを放棄し、
瀬戸内を西走する。
2月1日、
朝行は、足利尊氏に随って、
丹波篠村経由で、摂津兵庫に至る。
2月10日、
摂津西宮合戦では、
尊氏の弟直義の勢に属した。
2月11日、
摂津豊島河原合戦では、河原に陣を取るも、
直義がにわかに兵庫へ帰ったことで、
朝行もこれに随った。
2月12日、
窮地の足利方は、皆決戦での討死を覚悟したが、
直義は、夜陰に船に乗って出港してしまった。
それを知らず、供奉できなかった失意の朝行は、
敵が近いこともあって、
密かに京都に入り、その人波に身を隠す。
2月30日、
その京都も脱出し、本国関東を目指す。
その途次、三河などで、
野臥の襲撃に遭うことは何度もあった。
また、
後醍醐方の遠江井伊城攻めに加わったりもしたらしい。
その後は、関東の戦乱に活動場所を移す。
後醍醐方の北畠顕家の南進の際には、
一族とともに、下野小山城に籠城し、これと戦った。
11月3日、
下野横田・毛原合戦で、敵の首1つをとる。
また、郎等大淵彦九郎入道が、負傷している。
建武4年(1337)3月10日、
後醍醐方の小田治久・益戸虎法師丸が、
常陸府中に攻めてきたときには、
若党岩瀬信経が、朝行の代官として出陣。
敵1人を討った。
それからわずか17日後、
3月27日、朝行他界。
おそらくは、戦死ではなく、病死と思われる。
「合戦の静謐を待っていた折」(「熊谷家文書」)であった。
最期の数年間、戦場に身を置いて、
ときに、仲間が傷付き、死んでゆくのを見る朝行の苦悩は、
いかほどのものであったろう。
上記の軍功のほとんどが、
朝行本人のものではなく、若党の活躍ばかりなのも、
そんな思いを反映しているのかもしれない。
戦場で落命しなかった分、
まだ幸せだったと見るべきだろうか。
朝行の死後、
子の鶴寿丸が、幼少ながら若党らを率いて戦場に出た。
建武4年(1337)7月8日、
常陸関城合戦では、
鶴寿丸の代官の1人として出陣した新妻胤重や、
一族の野本高宣以下、若党4人が、討死。
また、
野本家の所領である下総神崎荘多賀郷には、
後醍醐方の千葉貞胤が乱入し、
野本家の代官と連日合戦を行った。
常陸の所領大枝郷栗俣村にも、
後醍醐方の小田治久らが攻め入って、
代官らが焼け出され、
その家族は、山林に逃げ込んだという。
「合戦静謐」(「熊谷家文書」)を待つ、
平和を待ち望む思いは、
時代を問わない。
〔参考〕
『南北朝遺文 関東編 第1巻』 (東京堂出版 2007年)
《病死》 《1514年》 《8月》 《24日》 《享年72歳》
白井長尾氏。
武蔵鉢形・日野城主。
長尾景春の祖父、長尾景仲は、
関東管領山内上杉氏の家宰をつとめた人物で、
上杉氏勢力の中核として、
鎌倉公方足利成氏(のち古河公方)と対立し、
享徳の大乱を原因をつくったひとりであった。
景仲ののち、鎌倉長尾実景を経て、
山内上杉氏の家宰職は、
景仲の嫡子景信が継承した。
景信は、父と同じく、
古河公方足利成氏と戦い続けた。
文明5年(1473)6月、
景信が死ぬと、
山内上杉氏の家宰職は、
景信の嫡子景春が継ぐはずだった。
ところが、
若き主人山内上杉顕定や、宿老寺尾憲明・海野佐渡守の談合によって、
家宰職は、
景信の弟(景春の叔父)惣社長尾忠景が継ぐこととなってしまった。
この恨みが、
景春を飽くなき闘争へと駆り立てることとなる。
文明6年(1474)頃、
景春は、上杉氏の本拠武蔵五十子陣の糧道を塞いで、
上杉方を困窮させた。
翌文明7年(1475)、
この、上杉方内部分裂の危機に、
扇谷上杉氏の家宰太田道灌が仲介に入るが、
その甲斐なく、不穏な状況が続く。
そして、文明8年(1476)、
景春は、ついに五十子陣を退去し、
武蔵鉢形城を築いて、立て籠もった。
山内上杉氏内部には、
当主顕定や家宰惣社長尾忠景らに不満を抱く者が、少なからずいたようで、
景春与党は、2、3000人に上った。
文明9年(1477)正月18日、
景春は、鉢形城より、眼下の五十子陣を急襲。
五十子陣は崩壊し、
主人山内上杉顕定・扇谷上杉定正・長尾忠景・太田道灌らは、
北方の上野へ退いた。
下剋上である。
景春は、鉢形城を拠点に、
与党を武蔵・相模全土に募り、
さらに、古河公方足利成氏の支援も得て、
上杉方を窮地に追い込んだ。
だが、
太田道灌の東奔西走、
および、上杉方と足利成氏の停戦協定によって、
徐々に掃討されていった。
景春は、反上杉の強硬派千葉孝胤と結び、
なおも反抗を続けたが、
文明10年(1478)7月には、
足利成氏も、景春討伐に協力するに至った。
武蔵秩父で、細々とゲリラ戦を展開していた景春は、
文明12年(1480)1月、
武蔵児玉で、ふたたび蜂起。
ここにきて、足利成氏がふたたび景春を支援に動く。
成氏は、景春を交渉役として、
対立していた室町幕府との和睦を模索しつつ、
景春を軍事的に支援したが、
6月24日、
景春の本拠秩父日野城を、太田道灌に陥され、
景春は没落した。
ここに、景春の最初の反抗が終息する。
没落した景春は、
しばらく古河公方足利成氏のもとにあったとされる。
その間、
成氏と幕府の和睦による、享徳の大乱の終結、
太田道灌の憤死を経て、
関東は、山内上杉氏と扇谷上杉氏の対立(長享の乱)という、
新たな戦乱に突入した。
古河公方足利氏が、この対立に定見なく介入したため、
戦乱はより複雑・長期化していく。
長享2年(1488)、
景春は、扇谷上杉氏・古河公方方として、長享の乱に参加。
6月7日の武蔵須賀谷原合戦、
11月15日の武蔵高見原合戦で、
景春は、古河公方足利政氏(成氏の子)の部将として、
扇谷上杉定正とともに、旧主山内上杉顕定と戦い、活躍した。
ところが、
明応3年(1494)、
古河公方足利政氏が、山内上杉氏支援に転じると、
景春は、政氏から離れて、扇谷方に留まった。
あくまで山内上杉氏には与さない、
という、頑なな姿勢である。
景春の嫡子景英は、山内方に従ったため、
父子は相争うこととなった。
上野・武蔵・相模で繰り広げられた長享の乱は、
永正2年(1505)3月、
扇谷方の敗北によって終結。
これにより、
景春は、およそ30年ぶりに山内上杉顕定に帰参。
2度目の反抗、終わり。
永正3年(1506)、
今度は、古河公方足利政氏・高基父子の対立(永正の乱)が、
関東を戦乱の渦に巻き込んだ。
山内・扇谷上杉氏は、足利政氏に味方したが、
永正4年(1507)、
越後で、長尾為景が、
山内上杉顕定の弟越後上杉房能を、下剋上で討ち、
永正6年(1509)
伊豆の伊勢宗瑞が、長尾為景と結んで、
扇谷上杉氏より離叛、相模・武蔵へ侵攻。
そして、永正7年(1510)、
長尾景春は、
長尾為景・伊勢宗瑞と組んで、山内上杉氏から離叛した。
景春、3度目の反抗。
為景や宗瑞と連携しつつ、
景春は、相模や武蔵、上野で、山内・扇谷上杉氏と戦った。
永正8年(1511)、
敗走先の甲斐都留より、武蔵に進攻するも、
また敗れて、駿河の伊勢宗瑞のもとにに退去した。
永正11年(1514)8月24日、
執念の鬼、不死鳥のごとき景春も、ついに死す。
72歳。
場所は伝わらないが、退去先の何処かとされている。
3度も主家に反抗して、
関東を戦乱にひきずりこみながら、
景春は、畳の上で死んだ。
かつての宿敵、太田道灌とは、ずいぶん対照的である。
死に様が、必ずしも生き様を映すとは限らない。
しかし、世が戦国の世へと進んでいくなかで、
景春は、下剋上を成功させながら、
長尾為景(上杉謙信の父)や、伊勢宗瑞(後北条氏の祖)と異なり、
戦国大名へと脱皮することはできなかった。
独立的な権力、まとまった“領国”を、持つことができなかったのである。
景春が、そのことをどう考えていたのか、
今日知るすべはない。
〔参考〕
黒田基樹編『長尾景春 (シリーズ・中世関東武士の研究)
』 (戎光祥出版 2010)
白井長尾氏。
武蔵鉢形・日野城主。
長尾景春の祖父、長尾景仲は、
関東管領山内上杉氏の家宰をつとめた人物で、
上杉氏勢力の中核として、
鎌倉公方足利成氏(のち古河公方)と対立し、
享徳の大乱を原因をつくったひとりであった。
景仲ののち、鎌倉長尾実景を経て、
山内上杉氏の家宰職は、
景仲の嫡子景信が継承した。
景信は、父と同じく、
古河公方足利成氏と戦い続けた。
文明5年(1473)6月、
景信が死ぬと、
山内上杉氏の家宰職は、
景信の嫡子景春が継ぐはずだった。
ところが、
若き主人山内上杉顕定や、宿老寺尾憲明・海野佐渡守の談合によって、
家宰職は、
景信の弟(景春の叔父)惣社長尾忠景が継ぐこととなってしまった。
この恨みが、
景春を飽くなき闘争へと駆り立てることとなる。
文明6年(1474)頃、
景春は、上杉氏の本拠武蔵五十子陣の糧道を塞いで、
上杉方を困窮させた。
翌文明7年(1475)、
この、上杉方内部分裂の危機に、
扇谷上杉氏の家宰太田道灌が仲介に入るが、
その甲斐なく、不穏な状況が続く。
そして、文明8年(1476)、
景春は、ついに五十子陣を退去し、
武蔵鉢形城を築いて、立て籠もった。
山内上杉氏内部には、
当主顕定や家宰惣社長尾忠景らに不満を抱く者が、少なからずいたようで、
景春与党は、2、3000人に上った。
文明9年(1477)正月18日、
景春は、鉢形城より、眼下の五十子陣を急襲。
五十子陣は崩壊し、
主人山内上杉顕定・扇谷上杉定正・長尾忠景・太田道灌らは、
北方の上野へ退いた。
下剋上である。
景春は、鉢形城を拠点に、
与党を武蔵・相模全土に募り、
さらに、古河公方足利成氏の支援も得て、
上杉方を窮地に追い込んだ。
だが、
太田道灌の東奔西走、
および、上杉方と足利成氏の停戦協定によって、
徐々に掃討されていった。
景春は、反上杉の強硬派千葉孝胤と結び、
なおも反抗を続けたが、
文明10年(1478)7月には、
足利成氏も、景春討伐に協力するに至った。
武蔵秩父で、細々とゲリラ戦を展開していた景春は、
文明12年(1480)1月、
武蔵児玉で、ふたたび蜂起。
ここにきて、足利成氏がふたたび景春を支援に動く。
成氏は、景春を交渉役として、
対立していた室町幕府との和睦を模索しつつ、
景春を軍事的に支援したが、
6月24日、
景春の本拠秩父日野城を、太田道灌に陥され、
景春は没落した。
ここに、景春の最初の反抗が終息する。
没落した景春は、
しばらく古河公方足利成氏のもとにあったとされる。
その間、
成氏と幕府の和睦による、享徳の大乱の終結、
太田道灌の憤死を経て、
関東は、山内上杉氏と扇谷上杉氏の対立(長享の乱)という、
新たな戦乱に突入した。
古河公方足利氏が、この対立に定見なく介入したため、
戦乱はより複雑・長期化していく。
長享2年(1488)、
景春は、扇谷上杉氏・古河公方方として、長享の乱に参加。
6月7日の武蔵須賀谷原合戦、
11月15日の武蔵高見原合戦で、
景春は、古河公方足利政氏(成氏の子)の部将として、
扇谷上杉定正とともに、旧主山内上杉顕定と戦い、活躍した。
ところが、
明応3年(1494)、
古河公方足利政氏が、山内上杉氏支援に転じると、
景春は、政氏から離れて、扇谷方に留まった。
あくまで山内上杉氏には与さない、
という、頑なな姿勢である。
景春の嫡子景英は、山内方に従ったため、
父子は相争うこととなった。
上野・武蔵・相模で繰り広げられた長享の乱は、
永正2年(1505)3月、
扇谷方の敗北によって終結。
これにより、
景春は、およそ30年ぶりに山内上杉顕定に帰参。
2度目の反抗、終わり。
永正3年(1506)、
今度は、古河公方足利政氏・高基父子の対立(永正の乱)が、
関東を戦乱の渦に巻き込んだ。
山内・扇谷上杉氏は、足利政氏に味方したが、
永正4年(1507)、
越後で、長尾為景が、
山内上杉顕定の弟越後上杉房能を、下剋上で討ち、
永正6年(1509)
伊豆の伊勢宗瑞が、長尾為景と結んで、
扇谷上杉氏より離叛、相模・武蔵へ侵攻。
そして、永正7年(1510)、
長尾景春は、
長尾為景・伊勢宗瑞と組んで、山内上杉氏から離叛した。
景春、3度目の反抗。
為景や宗瑞と連携しつつ、
景春は、相模や武蔵、上野で、山内・扇谷上杉氏と戦った。
永正8年(1511)、
敗走先の甲斐都留より、武蔵に進攻するも、
また敗れて、駿河の伊勢宗瑞のもとにに退去した。
永正11年(1514)8月24日、
執念の鬼、不死鳥のごとき景春も、ついに死す。
72歳。
場所は伝わらないが、退去先の何処かとされている。
3度も主家に反抗して、
関東を戦乱にひきずりこみながら、
景春は、畳の上で死んだ。
かつての宿敵、太田道灌とは、ずいぶん対照的である。
死に様が、必ずしも生き様を映すとは限らない。
しかし、世が戦国の世へと進んでいくなかで、
景春は、下剋上を成功させながら、
長尾為景(上杉謙信の父)や、伊勢宗瑞(後北条氏の祖)と異なり、
戦国大名へと脱皮することはできなかった。
独立的な権力、まとまった“領国”を、持つことができなかったのである。
景春が、そのことをどう考えていたのか、
今日知るすべはない。
〔参考〕
黒田基樹編『長尾景春 (シリーズ・中世関東武士の研究)
《戦死》 《1506年》 《9月》 《19日》 《享年42歳》
越後守護代。
一時、主君の越後守護上杉房能と対立することもあったが、
その後は主君に随い、越後国内や関東を転戦した。
永正3年(1506)、
加賀・能登・越前・越中・美濃・尾張等、
諸国の一向一揆がいっせいに蜂起した。
加賀の隣国である越前・越中では、特に激しかったらしい。
すでに加賀では、
長享2年(1488)、守護富樫政親を滅ぼして以来、
一向一揆による一国支配が行われており、
加賀の一揆勢が、どっと隣国へ攻め寄せたのと呼応して、
国内の一向衆も蜂起したのである。
越前では、さっそく朝倉貞景らが鎮圧に乗り出し、
各所で激戦が繰り広げられた。
越中でも、守護代神保慶宗や遊佐慶親が鎮圧にあたったが、
思うように進まず、
隣国越後に援軍を頼ることとなった。
7月に越後を発ち、越中に入った長尾能景の軍勢は、
神保慶宗勢と合流し、
8月、越中蓮台寺の戦いで一揆勢を撃破。
9月18日、中村・般若野等で再び両勢は激突。
その乱戦のなか、能景は討死した。
一揆勢の意気は、ますます上がったという。
一向一揆の勢力が越後へ及ぶことを危惧して、出兵したとはいえ、
これまた、他人の巻き添えのような死。
一説に、
援軍を依頼したはずの神保慶宗が、後方で裏切ったとも。
これを信じた能景の子為景は、
のち、神保慶宗を親の仇として討つこととなるが、
それはまた別の話。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅴ』 (石川県 2006)
越後守護代。
一時、主君の越後守護上杉房能と対立することもあったが、
その後は主君に随い、越後国内や関東を転戦した。
永正3年(1506)、
加賀・能登・越前・越中・美濃・尾張等、
諸国の一向一揆がいっせいに蜂起した。
加賀の隣国である越前・越中では、特に激しかったらしい。
すでに加賀では、
長享2年(1488)、守護富樫政親を滅ぼして以来、
一向一揆による一国支配が行われており、
加賀の一揆勢が、どっと隣国へ攻め寄せたのと呼応して、
国内の一向衆も蜂起したのである。
越前では、さっそく朝倉貞景らが鎮圧に乗り出し、
各所で激戦が繰り広げられた。
越中でも、守護代神保慶宗や遊佐慶親が鎮圧にあたったが、
思うように進まず、
隣国越後に援軍を頼ることとなった。
7月に越後を発ち、越中に入った長尾能景の軍勢は、
神保慶宗勢と合流し、
8月、越中蓮台寺の戦いで一揆勢を撃破。
9月18日、中村・般若野等で再び両勢は激突。
その乱戦のなか、能景は討死した。
一揆勢の意気は、ますます上がったという。
一向一揆の勢力が越後へ及ぶことを危惧して、出兵したとはいえ、
これまた、他人の巻き添えのような死。
一説に、
援軍を依頼したはずの神保慶宗が、後方で裏切ったとも。
これを信じた能景の子為景は、
のち、神保慶宗を親の仇として討つこととなるが、
それはまた別の話。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅴ』 (石川県 2006)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 ~1299
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没年 1350~1399
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没年 1400~1429
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没年 1430~1459
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没年 1460~1499
没日
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| 某日 |
享年 ~30代
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享年 40代~60代
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本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
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