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死に様データベース
《事故死》 《1477年》 《3月》 《29日》 《享年不明》


畠山式部大輔家の下女。


文明9年(1477)3月29日、京都の畠山式部大輔の宿所において、
下女が井戸へ「堕落死」した(『実隆公記』)
井戸は転落事故も起こるが、中世にもしばしば身投げに使われた。
この下女の死が、身投げだったか事故だったかは不明だが、
ここではひとまず事故死に分類した。

これにより、畠山式部大輔の宿所は触穢となり、
室町幕府は「乙穢」、禁裏は「丙穢」となった。
「乙穢」とは、二次的な触穢、
「丙穢」とは、三次的な触穢のことをいう。

穢れの話ばかりで、下女の身の上についてはなにも伝わらない。



〔参考〕
『実隆公記 巻1』(大洋社、1931年) ―該当記事(国立国会図書館デジタルコレクション)
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《誅殺》 《1479年》 《5月》 《5日》 《享年不明》


*****ドメスティック・バイオレンスに関する記事です。閲覧にご注意ください。*****


応仁・文明の乱の余燼がまだ消えやらぬ文明11年(1479)のころ、
京都四条西洞院の北西の角に、とある「在家」の一家が住んでいた。
「在家」とは、ここでは庶民(の家)といったほどの意味であろう。
夫婦には幼い子もあったが、
夫はなんと、「妾」も同居させていたらしい。

5月5日、
妻は「妾」のことで、夫を激しく責め立てた。
「妾」を妬んでのことであったというが、
日ごろより思うところがあり、それが募ったすえであろう。
しかし、夫は逆上したのか、妻を殺害。
さらに、幼子にも手をかけた。
「希代の所行」(「晴富宿禰記」)

騒ぎを聞きつけた人々が、所司代に通報しようとしたところ、
夫は逐電。
「妾」の顚末も知れない。


女性の主張は、“嫉妬”とかたづけられ、
身内への暴力は、いともたやすく激化する。
およそ「耐えられるDV」などというものは、この世に存在しない。


〔参考〕
『図書寮叢刊 晴富宿禰記』(宮内庁書陵部、1971年)
《誅殺》 《1478年》 《2月》 《12日》 《享年不明》


一向宗宇治金品寺の尼僧
故前住持の妻。


文明10年(1478)2月12日、
宇治金品寺のは、なにがしかの用があったか、
綾小路坊城の洛中の住まいから、「御構」へ出向いていた。
「御構」とは、
応仁・文明の乱時の、北小路室町の室町第を中心とする室町幕府・東軍の拠点エリアのこと。
前年に乱は終結していたが、「御構」での生活は残っていたようである。

用が済んだのか、このは「御構」から綾小路坊城の住まいに帰る途中、
四条坊門堀川辺りで「盗人」に襲われた。
着物を剥ぎ取られ、「打擲」を受けた。
頭部を「破損」、同地で死去(以上「晴富宿禰記」)



〔参考〕
『図書寮叢刊 晴富宿禰記』(宮内庁書陵部、1971年)
《誅殺》 《1479年》 《閏9月》 《10日》 《享年不明》


*****ドメスティック・バイオレンスに関する記事です。閲覧にご注意ください。*****


京都の輿丁(輿かき)の妻。


応仁・文明の乱の余燼くすぶる文明11年(1479)のころ、
京都の三条西亭の近所には、輿丁の夫婦が住んでいた。
は妊娠中で、出産も間近なようすであった。

閏9月10日、輿丁の夫がを「打擲」。
は「頓滅」してしまった(『実隆公記』)
胎児のことはいうまでもない。


DV(ドメスティック・バイオレンス)ということばがなかろうと、DVは存在する。
およそ「耐えられるDV」などというものはない。


〔参考〕
『実隆公記 巻1』(1931年) →該当箇所
《病死》 《1477年》 《正月》 《10日》 《享年42歳》


永享8年(1436)生まれ。出自は未詳。
はじめ三条西家の女房、
のち、内裏の右衛門内侍の女房。


三条西実隆が3歳か4歳のころ、
つまり長禄元年(1457)か同2年(1458)ごろ、
小督は三条西亭にあって、実隆の父公保に仕えていた。
小督が22、23歳のことである。
当時は別の女房名で呼ばれていたか。

長禄4年(1460)正月、主の公保が死んでしまうと、
その妻(実隆の母、甘露寺房長の娘)の計らいにより、
その年の秋より、内裏の右衛門内侍こと四辻春子に仕えることとなった。
文正元年(1466)4月、春子は勾当内侍に就任するが、
小督は有能な女官として、春子を支え続けたようである。
実隆との交流も続いたが、
小督にしてみれば、実隆はいつまでも昔の主家の坊ちゃんだっただろう。


文明8年(1476)12月13日、小督は母を亡くし、内裏を一時退去した。
実はこのとき、小督は妊娠していた。
権大納言庭田雅行とひそかに関係をもっていたらしい。
翌9年(1477)正月6日、ひどい難産のすえに女児を出産したが、
その子はまもなく死んでしまった。

難産は、小督自身の体も傷めた。
小督の産後の回復は思わしくなく、
正月10日子の下刻(夜0~1時頃)、逝去。
42歳であった。
中世の時代としては、かなりの高齢出産であっただろう。

勤続18年に及んだ小督の死に、春子の悲嘆ぶりはいかばかりか、
と実隆は同情しつつ、
自身も、日ごろのつきあいは浅からず、
「当時(いま)歎嗟の思い、忍びがたきのみ。
 有為の世界厭うべし。
 悲しむべし悲しむべし。」(『実隆公記』)
と、悲嘆に暮れている。
戒名は、玉峯珪蓮

正月28日、小督の供養のため、実隆は法華経の提婆達多品を卒塔婆に記してたむけた。
「多年官女の好、近来交友の睦、
 誠にもって忘れがたきものなり。
 よって寸丹の志を抽んずるのみ。」(『実隆公記』)


〔参考〕
『実隆公記 巻1』(1931年)
吉野芳恵「室町時代の禁裏の女房―勾当内侍を中心として―」(『國學院大學大學院紀要―文学研究科―』13、1982年)
松薗斉『中世禁裏女房の研究』(思文閣出版、2018年)
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病死

 :病気やその他体調の変化による死去。
戦死

 :戦場での戦闘による落命。
誅殺

 :処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
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 :切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死

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 :謎の死。
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