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死に様データベース
《病死》 《1357年》 《閏7月》 《19日》 《享年55歳》


左大臣洞院実泰の娘。
嘉元元年(1303)の生まれで、母は中務大輔藤原兼頼の娘。
異母兄に北朝の太政大臣洞院公賢、同母弟に南朝の左大臣洞院公泰がいる。

鎌倉時代末期、後醍醐天皇に仕えて、皇子女を産んだ。
そのうち皇子の玄助法親王は、のちに興福寺一乗院門主となったが、
いずれも早世したようである。
いつのころか、従二位に叙されている。
建武3年(1336)に後醍醐天皇が吉野に出奔した際の、守子の動向は定かでないが、
兄弟の公賢・公泰らと同じく、京都に留まったか。
またいつのころか、出家している。
正平6年(1351)末、同母弟公泰が南朝へ奔った際にも、守子は京都に留まっていたようで、
延文2年(1357)6月からは、
異母兄公賢の居邸の北隣に住していた。


その転居から2ヶ月後の閏7月18日の夕刻、
守子は大中風を起こして危篤となり、よその寺院に移された。
この間、いびきをかき続けていたという。
「不可説のことなり。」(『園太暦』)
翌19日、「頓死」(同前)
55歳。
いびきというから、脳梗塞だろうか。

異母兄公賢は、
「不運の人なり。ふびんふびん。」(同前)
と記すのみ。
皇子女の母ともなれば、国母や女院の望みもありえたが、
混乱の時代にあって、子女にも先立たれ、
たしかに「不運の人」であったのかもしれない。



〔参考〕
『史料纂集 園太暦 巻6』(続群書類従完成会、1985年)
東京大学史料編纂所データベース
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《病死》 《1213年》 《6月》 《27日》 《享年不明》


僧円融の娘。
母方のおじ藤原(葉室)宗行の養女となり、
平頼盛の孫左兵衛佐保教と結婚した。
保教は、従兄の藤原(持明院)保家の猶子となっており、
一時期、藤原姓を名乗っている。

建暦3年(1213)6月27日、
保教の妻は、難産のまま死去。
遺体は蓮台に乗せて、郊外に送られたという。

29日、保教の友人藤原定家が、弔問の使者を送ったところ、
保教は、暇を願い出て蟄居していた。
それを聞いた定家の感想、
「近代の儀に非ず。
 すこぶる人倫の法あり。
 もっとも穏便というべし。」(『明月記』)
夫婦仲も穏やかだったのだろうか。


8年後、
夫保教は、承久の乱に加担したすえに自害し、
養父宗行も、鎌倉への護送中に斬刑に処される。
それを知らずに世を去ったのは、せめて幸運だったというべきか。



〔参考〕
『冷泉家時雨亭叢書 別巻3 翻刻 明月記 2』(朝日新聞社、2014年)
東京大学史料編纂所データベース
《病死》 《1200年》 《正月》 《某日》 《享年不明》


正三位藤原雅隆の妻。
出身は未詳。


正治元年(1199)のころか、
正三位藤原雅隆は、皇后範子内親王(土御門天皇の准母)に仕える半物(はしたもの、下女)の、
わかつまという女性に執心したらしい。
わかつまは、もとは藤原兼実の妻兼子に仕えていたという。

夫が他所の下女に入れ込んだことに、
そのは激しく嫉妬し、
そのあまり、食べ物ものどを通らなくなって、病気になってしまった。
そうして、
正治2年(1200)正月末ごろ、ついに死んでしまった。
と、藤原定家の日記『明月記』は記している。


夫雅隆は、このとき54歳であったから、
も近い年ごろであったろうか。

なお、夫の雅隆は翌年、皇后宮権大夫となっている。


“女の嫉妬”は、死に際してもなお男によって語られる。



〔参考〕
『冷泉家時雨亭叢書 別巻2 翻刻 明月記 1』(朝日新聞社、2012年)
《病死》 《1345年》 《8月》 《23日》 《享年57歳》


大外記中原師右の妻、
中原師茂・師守らの母。


康永4年(1345)の2月6日に、夫師右を亡くしたその妻は、
同月19日に出家して尼となり、顕心と号した。
その後も、子どもたちと夫の供養に勤しんでいたが、
翌3月の21日、いささか体調を崩した。
27日には、医師伊賀入道本寂の診察を受け、「大事ない」と診断されており、
次男師守は「心中悦喜のほか他事なし」と安堵して、
兄師茂と酒を飲んでいる(『師守記』、以下同)
3月30日、師茂・師守兄弟は、父の喪明けで職務に復帰した。

4月3日、顕心の病はやや回復したようで、次男師守はまた喜んでいるが、
この日の未の刻(午後2時頃)
顕心の暮らしている北面対屋の北東の柱に、羽蟻が涌くという変事があった。
陰陽師に相談したところ、
「重慎」であり、祈祷の必要があるとのことであった。
「口舌」(諍い)の災いがあるが、祈祷をすれば吉事に転じるとのことであった。
おそらく、陰陽師による祈祷がなされたであろう。


結局、顕心の具合は横ばいのままで、
5日、再び医師本寂の診察を受け、
やはり大事ないと診断されたものの、薬を処方された。
14日、重ねて本寂に診てもらい、
「御風」(風邪)と診断されて、五積散という薬を出されている。


17日、亡夫師右の跡を継いだ長男師茂が、大外記に任じられて、
名実ともに一家の当主となった。
このころ、師茂家では代替わりにともなう居宅の改築を計画していたが、
顕心の体調を慮って、改築を師茂の部屋周りにとどめている。
顕心は亡夫の部屋を使っていた。

20日、顕心の前で、新当主師茂が亡父師右の譲状を開封する儀が行われた。
長女や次男師守に宛てられたものもあり、
皆、師右を偲んで涙に暮れたようである。

26日、改築がなって引っ越しが行われ、
師右没後、顕心が管理していた南北文庫の鎰が、師茂に渡された。
師右から顕心を経て師茂への代替わりが着々と進んでいたことが、
次男師守の日記『師守記』に、刻々と記されている。


そのころの本寂による顕心の診断は、以下のとおり。
4月26日、「虚労」。薬を処方。
5月6日、「病状は変わらないが大事ない」。
5月11日、「やや快方にあるか」。
4月27日に支払われた薬代は、1貫100文(11万円ほどか)にのぼった。

5月17日、顕心は病をおして、夫師右の百ヶ日忌を執り行っている。


6月1日、
次男師守は、月が改まればの病気も癒えるはず、と期待をかけている。
しかし、6月4日のようすでは、顕心の具合はやはり思わしくなく、
毎日のようすを見ていた師守は、
一向に快方に向かわないことを嘆き、仏神に祈っている。

また本寂の見立て。
6月6日、「やや回復している」。薬を処方。
6月18日、「安心してよい」。
6月25日、「大事ない」。
次男師守はその都度一喜一憂しているが、
気休めの診断を下される顕心自身は、どう思っていたろうか。

このころ、長男師茂も体調を崩し、
8月には、「瘧病」を起こして、医師の伊藤六郎や本寂の診察を受け、
僧侶に祈祷もしてもらっている。
なお、本寂の診察料は高額だったのか、
師守やその家族の診察は、もっぱら伊藤六郎がしている。


7月18日にも、顕心は本寂より薬を処方され、
薬代100疋(10万円ほどか)であった。
しかし、顕心の病状は悪化の一途をたどり、
日に日に食欲を失い、体のむくみもひどくなっていった。
22日、次男師守は、もはや回復は望めないものと悲嘆している。
26日、医師本寂はついに「期待はできない」と診断した。


8月1日、
師守は再び、月の改まりにと兄の平癒に望みを託している。
7日ごろ、兄師茂の「瘧病」は治ったようだが、
顕心は、
14日には、師守とともに来客の対応もしたものの、
21日、容態が急変し、危篤に陥った。

23日酉の刻(夕方6時頃)、入滅。57歳。
3月下旬に体調を崩してから、5ヶ月。
臨終正念、閉眼の間際まで念仏を42遍唱えての往生であった。

師守ら兄弟姉妹にとっては、半年ばかりを隔てて父母を相次いで喪ったのである。
遺体は、亥の刻(夜10時頃)、ひそかに持蔵堂に移され、そこから霊山殿に運ばれて、
僧侶の手により葬儀が行われた。
師守らも密々これに随行している。
師茂家から支払われた葬儀代は、2貫500文(25万円ほどか)
先例では土葬だったが、火葬されたようである。

師茂家は人々の弔問を受け、
なかには見舞いのつもりで訪れたところ、他界を知って引き返した者もいた。


29日の初七日法要は、悪日のためやはり僧侶によってなされたが、
二七日以降の法要は、師茂家でなされた。
9月4日、師守は、黒染めの狩衣を着て、霊山殿へ最初の墓参りをし、
10月5日には、七七日に書写した般若心経を墓前に供えている。
この日、師茂・師守兄弟は、喪明けでもとの官職に復したが、
10月23日、月忌始め、12月3日、百日忌と、
供養を怠らずに執り行っている。



〔参考〕
『史料纂集 師守記 第3』(続群書類従完成会、1969年)
《病死》 《1105年》 《正月》 《某日》 《享年不明》


摂津広田社(現・兵庫県西宮市)に参籠していた女性
名前や出自、身分等はわからず、庶民であったか。


長治2年(1105)正月、
広田社に参籠していたこの人物は、
その末社のひとつの舞殿に参籠していたところ、
「頓死」した(「続左丞抄」第2)
「寝死に」、すなわち眠ったまま死んでいたため、
周りの人は気づかなかったという。
宿直の神人が下女に命じて、ひとけのないところに遺体を持ち出したという。
葬ったとか、弔ったという記述はない。

広田社は、社中の死穢により、恒例の祭礼等をとりやめた。
まもなく、朝廷より祓い清めの命令が下り、
次いで祈謝の宣旨が下されたとみられる。



〔参考〕
『壬生新写古文書』(宮内省図書寮、1930年)→該当箇所
『新訂増補国史大系 第27巻 新抄格勅符抄・法曹類林・類聚符宣抄・続左丞抄・別聚符宣抄』(国史大系刊行会ほか、1933年)→該当箇所
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