死に様データベース
《病死》 《1504年》 《正月》 《14日》 《享年70歳》
内裏(後花園・後土御門天皇)の女房。勾当内侍、民部卿典侍。
藤原南家の高倉家の出身。高倉範綱の娘で、四辻季春の養女となった。
春子は文亀3年(1503)末ごろより病に臥し、
翌4年(1504)正月8日夜、内裏を退去した。
このころ、内裏女房のうちで体をこわす者が多く、
新大納言典侍(勧修寺藤子)も、正月5日夜に内裏を退去、
伊予局(半井就子)、大納言典侍(広橋守子)も病により役目を負えなくなっていた。
流行病があったのだろうか。
正月12日、新大納言典侍は無事回復して内裏に復帰したが、
14日戌の刻(夜8時頃)、春子は帰らぬ人となった。
70歳。
永享7年(1435)生まれの春子は、10歳を過ぎた頃には宮仕えを始め、
文正元年(1466)4月、勾当内侍として従五位上に叙された。
文亀元年(1501)2月に、勾当内侍を辞して典侍に昇っている。
50年以上にわたる宮仕えは、応仁・文明の乱などにより、
およそ安泰とはいえないものだっただろう。
それでも高齢まで、しかも他界の直前までつとめあげたことは、好運だったといえようか。
なお、実家の高倉家は、春子の兄弟範音の代でひとたび断絶したが、
春子の義兄弟四辻季経の息子範久が相続することで、一応の再興を見た。
〔参考〕
『大日本古記録 二水記 1』(岩波書店、1989年)
吉野芳恵「室町時代の禁裏の女房―勾当内侍を中心として―」(『國學院大學大學院紀要―文学研究科―』13、1982年)
松薗斉『中世禁裏女房の研究』(思文閣出版、2018年)
内裏(後花園・後土御門天皇)の女房。勾当内侍、民部卿典侍。
藤原南家の高倉家の出身。高倉範綱の娘で、四辻季春の養女となった。
春子は文亀3年(1503)末ごろより病に臥し、
翌4年(1504)正月8日夜、内裏を退去した。
このころ、内裏女房のうちで体をこわす者が多く、
新大納言典侍(勧修寺藤子)も、正月5日夜に内裏を退去、
伊予局(半井就子)、大納言典侍(広橋守子)も病により役目を負えなくなっていた。
流行病があったのだろうか。
正月12日、新大納言典侍は無事回復して内裏に復帰したが、
14日戌の刻(夜8時頃)、春子は帰らぬ人となった。
70歳。
永享7年(1435)生まれの春子は、10歳を過ぎた頃には宮仕えを始め、
文正元年(1466)4月、勾当内侍として従五位上に叙された。
文亀元年(1501)2月に、勾当内侍を辞して典侍に昇っている。
50年以上にわたる宮仕えは、応仁・文明の乱などにより、
およそ安泰とはいえないものだっただろう。
それでも高齢まで、しかも他界の直前までつとめあげたことは、好運だったといえようか。
なお、実家の高倉家は、春子の兄弟範音の代でひとたび断絶したが、
春子の義兄弟四辻季経の息子範久が相続することで、一応の再興を見た。
〔参考〕
『大日本古記録 二水記 1』(岩波書店、1989年)
吉野芳恵「室町時代の禁裏の女房―勾当内侍を中心として―」(『國學院大學大學院紀要―文学研究科―』13、1982年)
松薗斉『中世禁裏女房の研究』(思文閣出版、2018年)
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《病死》 《1400年》 《正月》 《6日》 《享年不明》
鶴岡八幡宮別当弘賢の力者竹鶴の妻。名は伝わらない。
力者とは、輿舁きや馬の口取りなど力仕事に携わった従者のこと。
応永7年(1400)正月6日、死去した。
特段、その様相について記されていないことからすると、病死であったか。
中世では、死穢を免れるため、瀕死の者は寺社や居宅の敷地から外へ出されることが多いが、
なにか理由があったのか、あるいは急死であったのか、
竹鶴の妻は鶴岡八幡宮の境内で死去したようである。
このことは、鶴岡八幡宮の運営を担う供僧の間でも議論を呼んだようで、
正月23日、外方供僧たちは、
修正会の料米が支給されていないことや、導師をつとめた僧侶への加増分がないことと併せて、
この竹鶴の妻の死去について話し合い、
執行(別当のもとで鶴岡の運営を取り仕切る進止供僧)へ伝達している。
おそらくは、別当側の対応の不備を責めたのではなかろうか。
死んだ人、死んだ状況よりも、死んだ場所が重視される、中世の庶民の死。
〔参考〕
「鶴岡事書日記」 『戸田市史 資料編1 原始・古代・中世』(戸田市、1981年)
鶴岡八幡宮別当弘賢の力者竹鶴の妻。名は伝わらない。
力者とは、輿舁きや馬の口取りなど力仕事に携わった従者のこと。
応永7年(1400)正月6日、死去した。
特段、その様相について記されていないことからすると、病死であったか。
中世では、死穢を免れるため、瀕死の者は寺社や居宅の敷地から外へ出されることが多いが、
なにか理由があったのか、あるいは急死であったのか、
竹鶴の妻は鶴岡八幡宮の境内で死去したようである。
このことは、鶴岡八幡宮の運営を担う供僧の間でも議論を呼んだようで、
正月23日、外方供僧たちは、
修正会の料米が支給されていないことや、導師をつとめた僧侶への加増分がないことと併せて、
この竹鶴の妻の死去について話し合い、
執行(別当のもとで鶴岡の運営を取り仕切る進止供僧)へ伝達している。
おそらくは、別当側の対応の不備を責めたのではなかろうか。
死んだ人、死んだ状況よりも、死んだ場所が重視される、中世の庶民の死。
〔参考〕
「鶴岡事書日記」 『戸田市史 資料編1 原始・古代・中世』(戸田市、1981年)
《病死》 《1324年》 《3月》 《12日》 《享年55歳》
憙子内親王。
父は亀山天皇、母は典侍法性寺雅子。
後宇多天皇は異母兄にあたる。
御所の場所より、「土御門女院」「河鰭宮」などとも呼ばれた。
永仁元年(1293)12月10日、内親王宣下を受け、
同4年(1296)8月11日、准三宮となった。
同日、女院号の宣下も受け、昭慶門院と称した。
このとき、27歳。
父亀山法皇の御幸にたびたび同行しており、
親子の仲が良好であったことをうかがわせる。
父から多くの荘園も譲られている。
嘉元4年(1306)9月15日、父の一周忌に際して落飾し、法名を清浄源とした。
延慶3年(1310)ごろか、
甥である尊治親王(のちの後醍醐天皇)に皇子世良親王が生まれると、
昭慶門院の養育するところとなった。
王家において昭慶門院が重んじられる立場にいたことを示そうか。
正中元年(1324)になってからか、昭慶門院は腫物に悩まされ、
3月に至って、容態が悪化した。
昭慶門院の気がかりだったのは、愛しい養君世良親王の元服だった。
「余執(死後にもなお残る執着)」(『花園院宸記』)だったという。
どうにか存命中にということになり、
3月12日、世良親王の元服式が執り行われた。
午の刻(正午ごろ)、元服式が終了すると、
申の刻(夕方4時ごろ)、昭慶門院は崩じたという。
享年55。
まさに、昭慶門院は大甥の成長に生死をわけるほど執心していたのであった。
昭慶門院が有していた荘園郡は、世良親王が相続したが、
その世良も、6年後の元徳2年(1330)に早世してしまった。
〔参考〕
『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版)
東京大学史料編纂所データベース
憙子内親王。
父は亀山天皇、母は典侍法性寺雅子。
後宇多天皇は異母兄にあたる。
御所の場所より、「土御門女院」「河鰭宮」などとも呼ばれた。
永仁元年(1293)12月10日、内親王宣下を受け、
同4年(1296)8月11日、准三宮となった。
同日、女院号の宣下も受け、昭慶門院と称した。
このとき、27歳。
父亀山法皇の御幸にたびたび同行しており、
親子の仲が良好であったことをうかがわせる。
父から多くの荘園も譲られている。
嘉元4年(1306)9月15日、父の一周忌に際して落飾し、法名を清浄源とした。
延慶3年(1310)ごろか、
甥である尊治親王(のちの後醍醐天皇)に皇子世良親王が生まれると、
昭慶門院の養育するところとなった。
王家において昭慶門院が重んじられる立場にいたことを示そうか。
正中元年(1324)になってからか、昭慶門院は腫物に悩まされ、
3月に至って、容態が悪化した。
昭慶門院の気がかりだったのは、愛しい養君世良親王の元服だった。
「余執(死後にもなお残る執着)」(『花園院宸記』)だったという。
どうにか存命中にということになり、
3月12日、世良親王の元服式が執り行われた。
午の刻(正午ごろ)、元服式が終了すると、
申の刻(夕方4時ごろ)、昭慶門院は崩じたという。
享年55。
まさに、昭慶門院は大甥の成長に生死をわけるほど執心していたのであった。
昭慶門院が有していた荘園郡は、世良親王が相続したが、
その世良も、6年後の元徳2年(1330)に早世してしまった。
〔参考〕
『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版)
東京大学史料編纂所データベース
《自害》 《1408年》 《5月》 《25日》 《享年不明》
慧春尼は南北朝末期から室町初期のひとだが、
その生涯は、江戸時代に編まれた高僧の伝記集、「重続日域洞上諸祖伝」巻2と「日本洞上聯灯録」巻4に詳しい。
多分に伝説化している面もあろうが、
以下、これによりつつその事績をたどりたい。
*****以下、性的加害の描写があります。閲覧に十分ご注意ください。*****
曹洞宗の尼僧。
相模の糟谷氏出身。
兄は、相模足柄の大雄山最乗寺(現・神奈川県南足柄市)を開いた了庵慧明。
類いまれな容姿をもっていた慧春は、俗世に生きることを好まず、
30歳を過ぎるころ、兄了庵に師事して出家しようとした。
しかし、了庵は、
「出家は大丈夫(成人男性)のなすことであり、
女子供は、自律できずに流されやすい。
安易に女人を出家させて、法門を汚す者が多い」
と妹の望みを却けた。
そこで慧春は、焼けた火箸を自らの顔に押し当てて容貌を変じ、再び出家を望んだ。
そのため、了庵はやむをえず出家を認めた。
慧春は大雄山で禅に励んで了庵の印可を得、やがてその力量を広く知られるようになった。
あるとき、了庵が鎌倉円覚寺に使者を派遣しようとしたところ、
弟子の男僧たちは、エリートの円覚寺僧との禅問答を嫌がって行こうとしなかった。
そこで、慧春が使者の役を買って出て、鎌倉へ赴いた。
慧春の俊英ぶりを知っていた円覚寺の僧たちは、虚を突いてその気を挫こうと企て、
ひとりの男僧が石段の途中で慧春を待ち構えた。
やってきた慧春に、その僧は衣の裾をからげて「陰を怒らせて」立ちふさがり、
「老僧の物三尺」
と言った。
そこで慧春もすかさず衣の裾をからげて、「牝戸」を開いて見せながら、
「尼の物底なし」
と応じた。
僧は恥じ入って、どこかへ退散してしまった。
山上に至り、住持に対面すると、
侍者が手洗い用の鉢に茶を点てて持ってきた。
慧春は動じず、
「これは和尚の日用の茶碗でしょう。どうぞお飲みください」
と返した。
住持は答えに窮し、応じえなかった。
これらの問答により、慧春の名望はさらにあがったという。
火箸で顔を焼いたとはいえ、慧春の容貌に心を動かすものは少なくなく、
あるとき、ひとりの男僧が慧春に「その情」を密かに告げ、「その欲」を遂げることを求めた。
慧春は「たやすいことだ」と応じ、ただ約束を違えないよう伝えたため、
その僧は「願いを聞き届けてくれるなら、湯火も辞さないどころではない」と喜んだ。
ところが、
ある日、師の了庵が堂に僧衆を集めたおり、
慧春は一糸まとわぬ「赤赤裸裸」の姿で「傲然」と現れ、
声高にその僧を呼び、
「汝と約あり。すみやかに来りて我につき汝の欲をほしいままにすべし」
と言った。
仰天したその僧は、ほどなく寺から逐電した。
慧春は晩年、大雄山の麓に摂取庵という庵をむすび、往来の人々に応対したという。
応永15年(1408)5月25日、
慧春は大雄山の三門前の盤石に、薪を積んで柴棚を作り、
自ら点火して火焔のうちに入滅した。
火と煙の勢いが増していくおり、兄で師の了庵が「熱いか」と尋ねると、
燃えさかる炎のなかで、慧春は声をあげて次のように答えたという。
冷熱は生道人の知るところに非ず。
そうして、慧春は平然として火焔のなかで遷化し、
人々はその遺骨を拾って摂取庵に塔をつくり、弔ったとされる。
大雄山最乗寺の境内の片隅には、今も慧春尼堂が建っている。
慧春が生前、男僧から受けた仕打ちの数々は、慧春の高潔さを示す挿話として描かれているが、
その実、寺院という男性社会において女性が活動することの困難さを表している。
近世の創作だとしても、近世の寺院社会におけるジェンダー観を示すものにほかならない。
そもそも優れた容貌の持ち主だったというのも、
これら暴力の要因を慧春に転嫁し、
男僧の加害を“しかたのないもの”と見せるための方便に過ぎない。
その容貌を自ら傷つけたのも、
そこまでしなければ女性の決心が伝わらないという、コミュニケーション上の格差や、
女性は男性の宗教活動を妨げる存在であり、主体たりえないという、立場の断絶など、
性差別を克服するために取らざるをえなかった行為とされている。
慧春は、挿話に描かれるとおり強く賢かったからこそ、
男性中心の寺院社会でも生き延び、大悟しえたのかもしれないが、
彼女を取り巻いていたものの異様さにこそ、目を向けざるをえない。
〔参考〕
仏教刊行会編『大日本仏教全書』110(仏教刊行会、1914年)
藤谷俊雄「慧春尼伝」(『日本史研究』39、1958年)
三山進『太平寺滅亡―鎌倉尼五山秘話』(有隣新書、有隣堂、1979年)
前田昌宏『慧春尼伝』(献書刊行会、1988年)
東隆真『禅と女性たち』(青山社、2000年)
瀬野美佐「顔を灼く女たち―慧春尼伝説に見る性のアンビバレンツ―」(『教化研修』47、2003年)
西山美香「顔を焼く女たち」(奥田勲編『日本文学 女性へのまなざし』風間書房、2004年)
竹下ルッジェリ・アンナ「ジェンダーに対する江戸時代の臨済宗―白隠禅師を中心として―」(南山宗教文化研究所『研究所報』31、2021年)
慧春尼は南北朝末期から室町初期のひとだが、
その生涯は、江戸時代に編まれた高僧の伝記集、「重続日域洞上諸祖伝」巻2と「日本洞上聯灯録」巻4に詳しい。
多分に伝説化している面もあろうが、
以下、これによりつつその事績をたどりたい。
*****以下、性的加害の描写があります。閲覧に十分ご注意ください。*****
曹洞宗の尼僧。
相模の糟谷氏出身。
兄は、相模足柄の大雄山最乗寺(現・神奈川県南足柄市)を開いた了庵慧明。
類いまれな容姿をもっていた慧春は、俗世に生きることを好まず、
30歳を過ぎるころ、兄了庵に師事して出家しようとした。
しかし、了庵は、
「出家は大丈夫(成人男性)のなすことであり、
女子供は、自律できずに流されやすい。
安易に女人を出家させて、法門を汚す者が多い」
と妹の望みを却けた。
そこで慧春は、焼けた火箸を自らの顔に押し当てて容貌を変じ、再び出家を望んだ。
そのため、了庵はやむをえず出家を認めた。
慧春は大雄山で禅に励んで了庵の印可を得、やがてその力量を広く知られるようになった。
あるとき、了庵が鎌倉円覚寺に使者を派遣しようとしたところ、
弟子の男僧たちは、エリートの円覚寺僧との禅問答を嫌がって行こうとしなかった。
そこで、慧春が使者の役を買って出て、鎌倉へ赴いた。
慧春の俊英ぶりを知っていた円覚寺の僧たちは、虚を突いてその気を挫こうと企て、
ひとりの男僧が石段の途中で慧春を待ち構えた。
やってきた慧春に、その僧は衣の裾をからげて「陰を怒らせて」立ちふさがり、
「老僧の物三尺」
と言った。
そこで慧春もすかさず衣の裾をからげて、「牝戸」を開いて見せながら、
「尼の物底なし」
と応じた。
僧は恥じ入って、どこかへ退散してしまった。
山上に至り、住持に対面すると、
侍者が手洗い用の鉢に茶を点てて持ってきた。
慧春は動じず、
「これは和尚の日用の茶碗でしょう。どうぞお飲みください」
と返した。
住持は答えに窮し、応じえなかった。
これらの問答により、慧春の名望はさらにあがったという。
火箸で顔を焼いたとはいえ、慧春の容貌に心を動かすものは少なくなく、
あるとき、ひとりの男僧が慧春に「その情」を密かに告げ、「その欲」を遂げることを求めた。
慧春は「たやすいことだ」と応じ、ただ約束を違えないよう伝えたため、
その僧は「願いを聞き届けてくれるなら、湯火も辞さないどころではない」と喜んだ。
ところが、
ある日、師の了庵が堂に僧衆を集めたおり、
慧春は一糸まとわぬ「赤赤裸裸」の姿で「傲然」と現れ、
声高にその僧を呼び、
「汝と約あり。すみやかに来りて我につき汝の欲をほしいままにすべし」
と言った。
仰天したその僧は、ほどなく寺から逐電した。
慧春は晩年、大雄山の麓に摂取庵という庵をむすび、往来の人々に応対したという。
応永15年(1408)5月25日、
慧春は大雄山の三門前の盤石に、薪を積んで柴棚を作り、
自ら点火して火焔のうちに入滅した。
火と煙の勢いが増していくおり、兄で師の了庵が「熱いか」と尋ねると、
燃えさかる炎のなかで、慧春は声をあげて次のように答えたという。
冷熱は生道人の知るところに非ず。
そうして、慧春は平然として火焔のなかで遷化し、
人々はその遺骨を拾って摂取庵に塔をつくり、弔ったとされる。
大雄山最乗寺の境内の片隅には、今も慧春尼堂が建っている。
慧春が生前、男僧から受けた仕打ちの数々は、慧春の高潔さを示す挿話として描かれているが、
その実、寺院という男性社会において女性が活動することの困難さを表している。
近世の創作だとしても、近世の寺院社会におけるジェンダー観を示すものにほかならない。
そもそも優れた容貌の持ち主だったというのも、
これら暴力の要因を慧春に転嫁し、
男僧の加害を“しかたのないもの”と見せるための方便に過ぎない。
その容貌を自ら傷つけたのも、
そこまでしなければ女性の決心が伝わらないという、コミュニケーション上の格差や、
女性は男性の宗教活動を妨げる存在であり、主体たりえないという、立場の断絶など、
性差別を克服するために取らざるをえなかった行為とされている。
慧春は、挿話に描かれるとおり強く賢かったからこそ、
男性中心の寺院社会でも生き延び、大悟しえたのかもしれないが、
彼女を取り巻いていたものの異様さにこそ、目を向けざるをえない。
〔参考〕
仏教刊行会編『大日本仏教全書』110(仏教刊行会、1914年)
藤谷俊雄「慧春尼伝」(『日本史研究』39、1958年)
三山進『太平寺滅亡―鎌倉尼五山秘話』(有隣新書、有隣堂、1979年)
前田昌宏『慧春尼伝』(献書刊行会、1988年)
東隆真『禅と女性たち』(青山社、2000年)
瀬野美佐「顔を灼く女たち―慧春尼伝説に見る性のアンビバレンツ―」(『教化研修』47、2003年)
西山美香「顔を焼く女たち」(奥田勲編『日本文学 女性へのまなざし』風間書房、2004年)
竹下ルッジェリ・アンナ「ジェンダーに対する江戸時代の臨済宗―白隠禅師を中心として―」(南山宗教文化研究所『研究所報』31、2021年)
《病死》 《1329年》 《9月》 《24日》 《享年不明》
北条実時(金沢家2代)の側妻、金沢北条家の女房。
出自は未詳。
将軍宗尊親王の女房で、同じく実時の側妻のひとりであった帥局の養女となったとされる。
「谷殿(やつどの)」の呼称は、居所にちなんだものとおぼしく、
建治2年(1276)の夫実時の没に際して、出家して法名永忍を号したか。
その後、鎌倉極楽寺の近くに庵室を構えたようだが、
徳治元年(1306)ごろ、
極楽寺の火災により延焼する不遇に見舞われている。
永忍に子はなかったようで、
慈眼房なる僧侶を養子にしたが、正和4年(1315)ごろに先立たれ、
のち、実時の孫金沢貞顕を養子とした。
下総国下河辺荘の河妻・前林両郷(現・茨城県五霞町・古河市)や、
信濃国太田荘の石村・大倉両郷(現・長野市)を領し、これらを貞顕に譲った。
元徳元年(1329)9月24日、病没。
実時との関係からすれば、若くても70歳前後だったと思われる。
4年後の貞顕やその他北条一門の運命など、知らずによかったというべきか。
養子の貞顕は富士大宮司に諮問して、120日の間、養母の喪に服した。
貞顕がそのことを、六波羅探題南方だった息子の貞将かに伝えた書状(「金沢文庫文書」)には、
正中の変にもかかわった土岐頼員の誅殺事件についても触れられており、
当時の不穏な世相をうかがわせる。
翌月から翌年にかけて、
貞顕はたびたび永忍の菩提を弔う法要を行っている。
称名寺所蔵(神奈川県立金沢文庫保管)の「称名寺絵図」によれば、
谷殿の墓は、金沢北条氏の菩提寺だった同寺境内北東の実時の墓に並んで建てられている。
〔参考〕
永井晋『金沢北条氏の研究』(八木書店、2006年)
同「[史料紹介]称名寺所蔵『聖天 五』紙背文書について」(『東京大学史料編纂所研究紀要』24、2014年)
『特別展 よみがえる中世のアーカイブズ―いまふたたび出会う古文書たち―』(神奈川県立金沢文庫、2021年)
北条実時(金沢家2代)の側妻、金沢北条家の女房。
出自は未詳。
将軍宗尊親王の女房で、同じく実時の側妻のひとりであった帥局の養女となったとされる。
「谷殿(やつどの)」の呼称は、居所にちなんだものとおぼしく、
建治2年(1276)の夫実時の没に際して、出家して法名永忍を号したか。
その後、鎌倉極楽寺の近くに庵室を構えたようだが、
徳治元年(1306)ごろ、
極楽寺の火災により延焼する不遇に見舞われている。
永忍に子はなかったようで、
慈眼房なる僧侶を養子にしたが、正和4年(1315)ごろに先立たれ、
のち、実時の孫金沢貞顕を養子とした。
下総国下河辺荘の河妻・前林両郷(現・茨城県五霞町・古河市)や、
信濃国太田荘の石村・大倉両郷(現・長野市)を領し、これらを貞顕に譲った。
元徳元年(1329)9月24日、病没。
実時との関係からすれば、若くても70歳前後だったと思われる。
4年後の貞顕やその他北条一門の運命など、知らずによかったというべきか。
養子の貞顕は富士大宮司に諮問して、120日の間、養母の喪に服した。
貞顕がそのことを、六波羅探題南方だった息子の貞将かに伝えた書状(「金沢文庫文書」)には、
正中の変にもかかわった土岐頼員の誅殺事件についても触れられており、
当時の不穏な世相をうかがわせる。
翌月から翌年にかけて、
貞顕はたびたび永忍の菩提を弔う法要を行っている。
称名寺所蔵(神奈川県立金沢文庫保管)の「称名寺絵図」によれば、
谷殿の墓は、金沢北条氏の菩提寺だった同寺境内北東の実時の墓に並んで建てられている。
〔参考〕
永井晋『金沢北条氏の研究』(八木書店、2006年)
同「[史料紹介]称名寺所蔵『聖天 五』紙背文書について」(『東京大学史料編纂所研究紀要』24、2014年)
『特別展 よみがえる中世のアーカイブズ―いまふたたび出会う古文書たち―』(神奈川県立金沢文庫、2021年)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
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没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
6歳 | ||
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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