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死に様データベース
《病死》 《1329年》 《9月》 《24日》 《享年不明》


北条実時(金沢家2代)の側妻、金沢北条家の女房。
出自は未詳。

将軍宗尊親王の女房で、同じく実時の側妻のひとりであった帥局の養女となったとされる。
谷殿(やつどの)」の呼称は、居所にちなんだものとおぼしく、
建治2年(1276)の夫実時の没に際して、出家して法名永忍を号したか。

その後、鎌倉極楽寺の近くに庵室を構えたようだが、
徳治元年(1306)ごろ、
極楽寺の火災により延焼する不遇に見舞われている。


永忍に子はなかったようで、
慈眼房なる僧侶を養子にしたが、正和4年(1315)ごろに先立たれ、
のち、実時の孫金沢貞顕を養子とした。
下総国下河辺荘の河妻・前林両郷(現・茨城県五霞町・古河市)や、
信濃国太田荘の石村・大倉両郷(現・長野市)を領し、これらを貞顕に譲った。


元徳元年(1329)9月24日、病没。
実時との関係からすれば、若くても70歳前後だったと思われる。
4年後の貞顕やその他北条一門の運命など、知らずによかったというべきか。

養子の貞顕は富士大宮司に諮問して、120日の間、養母の喪に服した。
貞顕がそのことを、六波羅探題南方だった息子の貞将かに伝えた書状(「金沢文庫文書」)には、
正中の変にもかかわった土岐頼員の誅殺事件についても触れられており、
当時の不穏な世相をうかがわせる。

翌月から翌年にかけて、
貞顕はたびたび永忍の菩提を弔う法要を行っている。
称名寺所蔵(神奈川県立金沢文庫保管)の「称名寺絵図」によれば、
谷殿の墓は、金沢北条氏の菩提寺だった同寺境内北東の実時の墓に並んで建てられている。



〔参考〕
永井晋『金沢北条氏の研究』(八木書店、2006年)
同「[史料紹介]称名寺所蔵『聖天 五』紙背文書について」(『東京大学史料編纂所研究紀要』24、2014年)
『特別展 よみがえる中世のアーカイブズ―いまふたたび出会う古文書たち―』(神奈川県立金沢文庫、2021年)
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《病死》 《1424年》 《8月》 《28日》 《享年不明》


内裏女房。
藤原氏の一流高倉家の出身かとも推測されているが、出自は未詳。


当初は、伏見宮栄仁親王に仕えてその寵愛を得たらしいが、
のち、内裏に出仕して後小松・称光両天皇に掌侍(内侍司の三等官)として仕え、
たびたび参内する北山殿足利義満にも愛された。
栄仁の子貞成親王には、「吾が継母」のひとりとされている(『看聞日記』)

応永初年ごろには、勾当内侍(掌侍の第一﨟)になっていたとされ、
応永22年(1415)に正五位下、その翌々年には従四位下に昇っている(「叙位除目女叙位文書」、『兼宣公記』ほか)
能子」の名は、これらの叙位にあたって付けられたものだろう。
「能」は父の名の一字であろうか。


能子はその立場上、諸方の事情に通じることから、
伏見宮家と内裏・仙洞・室町殿との橋渡しをつとめた。
郊外に逼塞する伏見宮家にとって、その間の調整にあたった能子の功績は大きい。


応永25年(1418)7月、伏見宮家を巻き込んで起こった内裏女房新内侍の密通疑惑事件は、
その局親(女房の擬制的な親)である能子の身にも及んだ。
称光天皇の怒りを受けた能子は、勾当内侍を更迭されそうになったが、
室町殿足利義持のとりなしでどうにか収まった。
事件の背景には、
皇統をめぐる後光厳流(後小松・称光)から崇光流(伏見宮家)への敵愾心があったとされる。


応永27年(1420)3月上旬、能子は体調を崩した。
はやり病であったらしい。
能子は勾当内侍の座などを、仙洞女房の姪右衛門督局に譲ることを望み、
後小松上皇と室町殿義持より安堵を得た。
3月16日、病身の能子は典侍(内侍司の二等官)に叙され、即日これを辞して落髪した。

また、能子は伏見宮家から、一期分(一代限り)として播磨国比地御祈保(現・兵庫県宍粟市)を与えられていたが、
それを弟の円光院尭範に譲与することを、本所の貞成親王に願い出た。
貞成は、面識のない尭範に所領がわたることに難色を示したが、
翌4月、能子のこれまでの奉公に報いて、尭範一期に限ってこれを許した。
ただ、このころ能子の病気は本復している。

その後、能子は宮仕えに復さず、旧里への籠居を続けた。


能子の不遇は続く。
応永29年(1422)6月、姪の右衛門督局が、ライバルの仙洞女房別当局(東坊城茂子)に勾当内侍の座を逐われた。
自身の籠居と姪の落魄を、貞成親王は「老後の恥辱もっともふびん」と憂い、

 故北山殿(足利義満)の御時、寵愛を蒙り栄幸にあう。
 暫時思い出づるに夢のごとし。天上五衰なげかるるものか。(『看聞日記』)

と述懐を続けている。


応永31年(1424)6月ごろ、能子は再び病を得て、8月、容態を悪化させた。
8月8日、伏見宮家の女房東御方が見舞いに訪れると、「存命不定」の状態だったという。
18日には同じく宮家女房の廊御方が見舞い、「言語分明に昔物語に及」んだが、
食欲はないようで、何もものを口にしなかった(『看聞日記』)

28日、他界。
貞成より年長とすれば、60歳前後だったろうか。
姪右衛門督局への相続は後小松上皇に改めて認められたが、
勅勘は解けぬまま、不遇のうちの死去であった。
貞成が、天人五衰(天人の死に臨んで現れるという五つの兆し)になぞらえたのも、
往時の栄華からの凋落ぶりを思えば、無理なかろうか。
ただし、
その「栄幸」は男性権力者の「寵愛」に依り、
その零落は、天人のごとき麗しさの“衰え”に例えられた。


おばと同じく籠居していた右衛門督局は、ほどなく仙洞への帰参を許された。
所領を譲り受けた弟の尭範は、翌32年(1425)10月、姉を追うように病没した。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』(宮内庁書陵部、2002年)
『図書寮叢刊 看聞日記 2』(宮内庁書陵部、2004年)
『図書寮叢刊 看聞日記 3』(宮内庁書陵部、2006年)
小川剛生『足利義満 公武に君臨した室町将軍』(中公新書、2012年)
松薗斉『中世禁裏女房の研究』(思文閣出版、2018年)
村井章介「『看聞日記』人名考証三題」(『日本歴史』882、2021年)
東京大学史料編纂所データベース
《病死》 《1227年》 《11月》 《4日》 《享年不明》


北条時政の娘、政子・義時の姉妹。

源頼朝の異母弟阿野全成の妻となり、頼朝・政子とは兄弟姉妹どうしで夫婦だった。
建久3年(1192)8月、
阿波局は生まれたばかりの甥千幡(のちの源実朝)の乳母に選ばれ、
将軍御所に伺候した。


建仁3年(1203)5月、
夫の全成は、甥の2代将軍源頼家に謀反の罪を着せられ、流罪のうえ殺害される。
このとき頼家は、その妻阿波局も尋問しようとしたが、
政子が、
「このようなことを女性に関知させるべきでない」(『吾妻鏡』)
と庇ったため、御所への奉公を続けた。

それ以前の正治元年(1199)冬に、阿波局は、
御家人結城朝光へ梶原景時の讒言を忠告して、景時失脚のきっかけをつくり、
建仁3年(1203)9月には、
新将軍実朝の近くに、父時政の後妻牧の方がいるのは不穏当だ、と姉政子に進言し、
実朝を政子邸へ引き取らせている。
将軍家の乳母として、また政子の姉妹として、
彼女が幕政に少なからず影響力をもっていたことがうかがえよう。


建保7年(1219)正月、実朝は、甥の公暁に殺害され、
翌月、阿波局の息子阿野時元は将軍の座を狙って挙兵し、
叔父の執権北条義時に討たれた。
乳母子と実子をほぼ同時に喪った阿波局は、
その後も御所へ仕えたとおぼしい。


安貞元年(1227)11月4日、卒。
60歳前後だったろうか。
執権北条泰時は、重臣尾藤景綱の家に移り、
叔母のため30日間喪に服した。



〔参考〕
『新訂増補国史大系 第33巻 吾妻鏡 後篇』(国史大系刊行会ほか、1933年)
田端泰子『乳母の力 歴史を支えた女たち』(歴史文化ライブラリー、吉川弘文館、2005年)
《病死》 《1368年》 《8月》 《2日》 《享年58歳》


史料上に「愛甲三品夫人」とのみあるが、
夫の「愛甲三品」(「三品」は三位の意)は、鎌倉公方の近習であることのほか未詳。
横山党の愛甲氏は、鎌倉時代に滅んでおり、
相模国愛甲荘(現・神奈川県厚木市)を領した足利氏の一門か譜代被官にあたろうか。
(あるいは、「三品」は「三刕(三州)」=三河守の誤写だろうか。)
夫人の出自等はなお不詳である。


愛甲三品夫人は、高僧夢窓疎石に就いて受衣するなど、生前より禅宗に傾倒し、
鎌倉でも夢窓の弟子義堂周信と親しくしていた。
応安元年(1368)8月2日、
病の篤くなった夫人は、義堂の来訪を受け落髪を求める、という夢を見た。
目覚めてから急ぎ義堂を呼んだが、落髪するには間に合わず、
臨終の際に、義堂から次のように問われた。

 汝は日ごろから、国師(夢窓疎石)が示していた即心即仏の公案に取り組んできた。
 今、それを会得し、境地を得たか。

「即心即仏」とは、
「衆生のいまの心がそのまま仏であること。心の体は仏と異なるものでない、ということ」(『仏教語大辞典』)
という。
この問いに夫人は頷いて、卒した。
享年58。


5日、愛甲氏の菩提寺、愛甲郡津久井の宝積寺(のち光明寺、現・相模原市)で葬儀が行われ、
義堂が火葬を取り仕切った。
法名は「如転禅尼(『義堂和尚語録』巻第3)とされる。



〔参考〕
蔭木英雄『訓注 空華日用工夫略集―中世禅僧の生活と文学―』(思文閣出版、1982年)
川本慎自「光明寺と二つの宝積寺」(『特別展 津久井光明寺 知られざる夢窓疎石ゆかりの禅院―2つの宝積寺を訪ねて』神奈川県立金沢文庫、2015年)
SAT大正新脩大藏經テキストデータベース
《病死》 《1334年》 《6月》 《24日》 《享年不明》


信濃武士新野太郎入道(景経か)の娘。


建武元年(1334)6月24日、他界。
病死だろうか。

この「叔母(市河文書)他界の忌中として、
信濃の市河助房・倫房・経助兄弟は、命令を受けていた翌25日の出陣を見合わせ、
代わりに若党の難波助職を派遣している。

それでも8月中旬には、建武政権方の越後出陣に従っているので、
服喪はさほど長いものではなかったようだ。
越後では、反建武政権方の蜂起があり、
守護新田義貞配下の軍勢が鎮圧にあたっていた。


さて、この新野の娘と市河助房らが、叔母-甥の関係だったとすると、
忌中による出陣延期など、血縁のない親族(父母の兄弟の妻)には考えづらいから、
父母の姉妹ということになるだろうか。
市河家に養子入りした父盛房か、母尼せんかうの姉妹とすれば、
父母のどちらかは新野氏出身となる。
鎌倉末期における信濃武士間の姻戚関係の一端がうかがえよう。

ただし、この太郎入道の娘がどのような人物だったのかは、
今日たどることはできない。


〔参考〕
『南北朝遺文 関東編 1』(東京堂出版、2007年)
長野県立歴史館HP - 市河文書
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