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死に様データベース
《事故死》 《1423年》 《正月》 《5日》 《享年不明》


赤松満祐の弟。
室町殿足利義持の近習。


応永30年(1423)正月4日、
赤松則友は、
足利義持の管領畠山満家亭への渡御に供奉。
帰路のお供も、無事につとめた。

しかし、
宴の後で泥酔していた則友は、自邸に帰る途次、
大館満信亭前の辺りで、落馬。
頭を馬に踏まれ、
急所も打ったらしい。
周囲に支えられて帰亭したが、
意識を失っており、
翌5日朝、逝去。


一説によると、
則友は、
三条八幡宮の東辺りで、室町御所の裏築地を、
馬に乗ったまま、乗り越えようとしたらしい。
当日の4日に、則友は、
三条八幡宮に神馬を奉納したばかりであったにもかかわらず、
かかる厄難に遭遇したのであった。



〔参考〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004年)
コトバンク(『朝日日本歴史人物事典』)
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《誅殺》 《1424年》 《3月》 《14日》 《享年不明》


室町殿足利義持の近習。


応永31年(1424)3月14日、
前管領細川満元が、赤松一族らを招いて宴を催した。
皆したたかに酔い、
室町殿足利義持の近習安東某も、
酔っ払って、ごろりとしていたところ、
いきなり、赤松義雅によって刺し殺された。
義雅は逃走。
理由は不明。


怒った安東の傍輩たちは、
赤松邸に押し寄せようとしたが、
室町殿義持に制せられ、両者の衝突は回避された。

義持は、義雅を切腹させようとしたが、
義雅はなお雲隠れしていたため、果たせず。


おさまらない安東の傍輩たちは、
赤松家に代わりの人間の切腹を要求する。
そこで、義雅の家臣裏壁(浦上)某を切腹させることとなった。

はじめ、裏壁父子2人の切腹が検討された。
だが、
安東1人の死に対して、父子2人の切腹では釣り合わない、ということで、
1人にしぼることとなり、
散々もめたあげく、息子の方を切腹させることになった。
この息子、まだ元服前であったようだが、
切腹の様は「大強の者」(『常楽記』)のようであり、
人々の涙を誘ったという。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006年)
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
『群書類従 第29輯 雑部』 (続群書類従完成会 1959年)
清水克行『喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)』 (講談社 2006年)
《誅殺》 《1419年》 《正月》 《25日》 《享年不明》


比叡山僧。
青蓮院門徒。山門使節。

山門使節であった円明坊兼承は、
応永25年(1418)冬頃から、
室町殿足利義持の不興を買っていた。

山門使節とは、
室町幕府によって設置された比叡山衆徒統制のための組織で、
複数の有力山徒よりして成り、
幕府から比叡山に対する種々の権限を付与されていて、
「比叡山の守護」とも称されるような存在である。

翌26年(1419)正月25日朝、
兼承は、鞍馬寺へ参詣の途次、市原野において、
暴漢たちの襲撃を受けた。
襲ったのは、兼承の弟の乗蓮房兼宗。
兼宗は、義持の密命を受けていたという。

襲撃を受けた兼承の護衛の者たち20数名は皆、
散り散りに逃げ去ったが、
中間1人だけは踏みとどまり、
主人兼承とともに奮戦の末、ともに討死。
襲った兼宗側も、数名の死者を出した。


翌月、
兼宗は義持より、
その手で葬った兄兼承の旧領を与えられ、
円明坊は廃絶した。
兼宗はその後、いったん失脚するが、復活を果たし、
円明坊を再興して、房主におさまった。


彼とその息子たちが、のちに幕府と対立し、
永享の山門騒乱の中心人物として、
凄絶な死に様を迎えるのは、また別の話。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
『続群書類従 補遺 1 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
『増補史料大成 37 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
下坂守『中世寺院社会の研究』 (思文閣出版 2001年)
《誅殺》 《1434年》 《6月》 《8日》 《享年38歳》


従二位、前権中納言。


日野家の一流裏松家は、
義資の伯母康子が、3代将軍足利義満の正室、
同叔母栄子が、4代将軍義持の正室、
義資の妹宗子は、6代将軍義教の正室(のち離縁)、
もう一人の妹重子も、義教の側室というように、
足利将軍家とのつながりを強くしていたが、
義資自身は、将軍義教に嫌われ、
所領没収や蟄居の憂き目に遭っている。


永享6年(1434)2月、
義資の妹重子が、義教の子千也茶丸を生んだとき、
籠居中の義資のもとにも、多くの人々が参賀に訪れた。
だが、このことが、
義教の心証をいっそう悪くしたらしい。
義教は、参賀した人々のリストを作成させ、
摂関家から門跡に至るまで、60人以上を処罰している。


それから4ヶ月ほど経った、6月9日の雨の降りしきる暁時、
裏松義資邸に強盗が入った。
犯人は、吊っていた蚊帳ごと、
主人義資と、同衾の青侍(奉公衆畠山持清の甥)を斬り殺して、逃走。
小袖や鏡台などのほか、義資の首も持ち去った。
「希代の横死」(『満済准后日記』)

中納言広橋兼宣曰く、
「しかしながら天罰(まったく天罰である)」(『満済准后日記』)



奇怪な事件であったが、
その後、さらなる後味の悪さが続く。

事件から数日後、
義資殺害は、将軍義教の差し金であったとの風聞が立った。
義教は緘口令を敷くが、
6月12日、この噂を流したとして、
前参議高倉永藤が、義教の近習大河内満政によって捕えられた。
永藤は、いったんは死罪とされたが、
伏見宮貞成親王のとりなしにより、硫黄島へ流罪。
永藤の子永豊は、所領没収。
さらに、
義資とともに殺された青侍の父(畠山持清の弟)も、所領没収。
これらの所領は、
義教の側近正親町三条実雅に与えられた。

「万事言うなかれ言うなかれ、」(『薩戒記』)
もはや、何が起きているのかわからない。

暗殺に緘口令に一斉処断、
「「政治」の死」と評される所以である。



義資の子重政や、青侍数名が出家。
義資の所領などは、従兄弟の烏丸資任が相続した。


宝徳2年(1450)6月、
17年忌に際し、正二位権大納言を贈られた。
ときの将軍義政の母重子は、義資の妹であり、
のちに迎える室日野富子は、義資の孫にあたる。


〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 4』 (宮内庁書陵部 2008年)
『続群書類従 補遺 2 満済准后日記 下』 (続群書類従完成会)
『史料纂集 師郷記 4』 (続群書類従完成会 1987年)
東京大学史料編纂所データベース
桜井英治『室町人の精神 (日本の歴史)』 (講談社 2001年)
森茂暁『室町幕府崩壊 将軍義教の野望と挫折 (角川選書)』 (角川学芸出版 2011年)
《病死》 《1418年》 《11月》 《17日》 《享年61歳》


従一位、関白。准三后。
藤原氏長者。


一条経嗣は、二条良基の三男であったが、
一条家の当主房経が早世したため、
経嗣房経の弟、すなわち一条経通の子ということにして、
一条家を継がせたのであった。

実父二条良基にひきつづき、足利義満の信任が厚く、
その才学をもって、義満の公家社会における立場の確立に貢献した。


応永25年(1418)11月17日、没。
享年61。
「諸人仰天、哀傷是非なし。」(『康富記』)


学問に通じていたとはいえ、足利家の御用学者の感が拭えないが、
そうとうできた人物であったらしく、
死後、ずいぶんなもち上げ方をされている。

「御才智世において勝れ、誉四海に及び給う。哀々。」(『康富記』)
「有職漢才等抜群、公家の鏡たり。
 天下重臣、朝廷無人、尤も惜しむべし惜しむべし。」(『看聞日記』)


20日、雨中、東福寺にて葬送。


なお、藤原氏の氏寺興福寺では、翌18日、祭礼の後宴であったが、
経嗣死去の確報を得ていなかったため、猿楽等を催行しようとした。
だが、氏長者没直後の芸能について、田楽頭人たちが逡巡したため、
早めに切り上げている。



〔参考〕
『大日本史料 第7編之31』 (東京大学史料編纂所 2007年)
『国史大辞典 1 (あ-い)』 (吉川弘文館 1979年)
東京大学史料編纂所データベース
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