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死に様データベース
《誅殺》 《1418年》 《正月》 《24日》 《享年25歳》



室町幕府3代将軍足利義満の次男、
4代将軍足利義持の弟。


足利義嗣は、
幼くして、梶井門跡に入室させられたが、
その後、還俗。
父義満の寵愛を受けて、異例の速さで昇進し、
元服の儀式も、親王に準ずるやり方で執り行われるほどであった。
それゆえ、一時は、
義持にかわって、家督・将軍候補に目されている。

応永15年(1408)、父義満の死により、
大きな後ろ盾を失うことになるが、
とはいえ、
その後も順次昇進しているし、
兄の将軍義持も、正月に義嗣の許を訪れたりしているから、
兄弟仲がそこまで険悪であったわけではない。


応永23年(1416)10月2日、鎌倉において、
前関東管領上杉禅秀が、鎌倉公方足利持氏に対して叛旗を翻した。
その報は15日夕刻になって、ようやく京都に入った。
幕府は、
上杉禅秀を支援するか、足利持氏を助けるか、はっきり示さぬまま、
ただ傍観して、続報を受け続けた。

やっと幕府の方針が持氏支援に決まった、29日の深夜、
突如として、
将軍の弟義嗣が、出奔。

対岸の火事をただ見守っていた幕府にとって、
急に足元に火が付いたのである。
一時は将軍候補に目された義嗣の出奔であって、
その敵対は、将軍義持の地位を脅かしかねない。
京中は大変な騒動になって、義嗣を探し回った。

翌30日、
ようやく栂尾高山寺(高雄神護寺とも)に遁世しているところを見つけたが、
すでに髻を切った後であった。

なぜ義嗣が、にわかに行方をくらましたのかは、わからない。
冷遇されていることが不満だったのか、
禅秀の叛乱とは何か関係があるのか。
時節が時節であり、
人々はみな、義嗣の“野心”を噂した。


11月2日、
義持の使者として管領細川満元・近習富樫満成が、
帰宅するよう諌めたが、聞き入れず、
かえって、兄への恨み言をつらつらと述べ、
「出家は本望だ」(『看聞日記』)とまで言った。
神護寺僧は怯えて、剃髪の役を務めたがらなかった。

5日、
義嗣は、仁和寺興徳庵に移される。
警固役の侍所一色義範には、
「もし野心の人が義嗣の身柄を奪い去ろうとしたら、
 義嗣を切腹させよ」(『看聞日記』)
と命が下った。
遠い山中の寺から、
幕府の監視下に入れられたのである。

そして、
義嗣に与して、ともに出家した山科教高らの尋問の結果、
彼等の謀叛の企てが露顕。


しかし、
そうまで事態がはっきりしていながら、
幕府首脳部では、義嗣処分の方法がなかなか決まらない。
「もし今後の尋問で、
 幕府首脳部にも謀叛の加担者がいることが明らかになってしまったら、
 どうするのだ。」
「謀叛の意志が明らかになった以上、
 さっさと切腹していただくしかない。」
「いや、あまり軽々しく処分を下すわけにはいかない。」(『看聞日記』)
根本的な解決というものとは、程遠い議論が交わされている。
この時代の京都の平和は、
こういう“うやむや”“なあなあ”“事なかれ主義”によって成り立っていたのである。


さらに、義嗣近臣の尋問が進むにつれ、
謀叛の加担者として、新たに、
斯波義教細川満元・赤松義則の名が挙げられた。
いずれも幕府首脳部の面々であり、
危惧したとおりの結果となった。
以降、事件をこれ以上の拡大させない方向で、解決が図られていく。


12月16日、
関東の上杉禅秀の叛乱も、義嗣が裏で糸を引いていたということになり、
義嗣を幽閉していた仁和寺臨光院を、牢屋のように作り変えた。
義嗣を奪い去ろうと、格子を切って中に侵入する者もいたが、
見張りに見付かって逃走したという。
「次このようなことがあれば、義嗣を殺害せよ」(『看聞日記』)
との命令が、再び義持から下っている。


翌応永24年(1417)正月21日、
足利持氏方勝利の報がもたらされ、
京都も戦勝ムードに包まれたが、
義嗣は幽閉の身のまま、むなしく時を過ごしたらしい。


同年12月、
嫡男義量の元服を済ませた将軍義持は、
そろそろこの厄介な弟の問題に決着をつけようとしたのだろうか。

翌応永25年(1418)正月24日夜、
義持は、近習富樫満成に命じて、義嗣を討たせた。
大義名分のため、
 義嗣が牢に火を放って、逃亡しようとしたから討った、
という体にしたらしい。
富樫の家臣で加賀守護代の山川兄弟が、
義嗣を討ち、その頸を取ったという。
享年25歳。
幽閉されて実に、1年以上。

 さためなき浮世のならひのうたてさは(『椿葉記』)


なお、
義嗣には、6歳と2歳の息子がおり、
母と乳母が抱えて逃げようとしたが、
討っ手に奪い取られ、政所執事伊勢貞経のもとに預けられた。
死罪は免れ、
6歳の子は泉涌寺の喝食にされることとなったが、
のち、「謀反人の子息だから」(『看聞日記』)という理由で、
後小松上皇の命により、寺を退出させられた。


また、
事件はこの後も長く尾を引き、
義嗣荷担を理由に、
山名時煕は出仕停止、
土岐持頼は伊勢守護罷免、
富樫満成は、没落する。
さらに、
将軍義量の急死も、義嗣の怨霊のしわざと囁かれたのである。


永享元年(1429)、
従一位贈位。


〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
『続群書類従 補遺 1 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1928年)
桜井英治『室町人の精神』 (講談社 2001年)
伊藤喜良『足利義持 (人物叢書)』 (吉川弘文館 2008年)
森茂暁『室町幕府崩壊 将軍義教の野望と挫折 (角川選書)』 (角川学芸出版 2011年)
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《病死》 《1425年》 《2月》 《16日》 《享年22歳》


後小松天皇の第2皇子。
母は日野西資国の娘、光範門院日野西資子。
同母兄に称光天皇がいる。


この人物については、
いくつかの奇行が伝わっている。


応永27年(1420)正月3日、
父後小松上皇の御薬陪膳の儀式のさなか、
17歳の小川宮は突如、妹理永を「蹂躙」(『看聞日記』)した。
すぐさま母資子らに取り押さえられたが、
その場は、泣き出す者もあり(妹か)、
大変な騒動になったという。
「婬事ゆえ」(『看聞日記』)の所業らしい。
これにより、父上皇の逆鱗に触れた小川宮は、
すぐさま逐電。
召次の家へ逃げ込み、
やがて、日野資教(祖父日野西資国の兄)の屋敷へ入った。

その後、父の怒りも解けぬまま、
10月11日、
勧修寺経興の屋敷へ移る。
室町殿足利義持のはからいであったというが、
押しつけられた経興も、たまったものではない。


翌応永28年(1421)5月19日、
足利義持は、ふらりと勧修寺邸に小川宮を訪ねているから、
義持には、小川宮の境遇など、
どこか気にとめるものがあったのかもしれない。


しかし、実父の対応はまるで違う。
応永30年(1423)2月16日、
この厄介な次男の「酔狂」(『兼宣公記』)を恐れる父上皇は、
万一に備えて、内裏の門の警備を厳重にさせた。
小川宮を預かる勧修寺経興が、
彼が内裏に押しかけかねないと、母資子をとおして報告したのであった。

その6日後の2月22日、
小川宮は、兄称光天皇の飼っている羊を、せがんで譲ってもらい、
その当日に、打ち殺している。
軋轢、抑圧のフラストレーションだろうとはいえ、
これでは、実の父も身構えざるをえない。


応永32年(1425)2月15日夕刻、
小川宮に、特に変わった様子はなかった。
翌16日丑の刻(深夜2時頃)、
にわかに体に不調をきたす。
この時、周囲は容態を重くは見なかった。
しかし、その後に容態は急変。
駆けつけた勧修寺経興に対して、
「もはや回復はしないだろう。
 早く行水の準備をせよ。
 それから、日野資教を呼べ。
 言い伝えることがある。」(『薩戒記』)
と命じた。
資国がすぐに駆けつけたが、間に合わず、
辰の刻(朝8時頃)、
医師坂胤能が臨終を告げた。

危篤の報を受けて駆けつけた中山定親は、
その途次、同じく急行する母資子に、
また、勧修寺邸の門前で広橋兼宣に遭遇した。
だが、
小川宮薨去の後であり、
「触穢があるので、今日は引き取ってほしい」
と、亭主経興に言われ、
中山定親らは引き返した。
しかし、
その途中で、小川宮の脈が回復したとの報を受け、
再び勧修寺邸へ向かったが、
やがて虚報と判明し、定親は帰宅。


生前小川宮は、特に病弱ということもなく、
まったく急な「頓死」(『看聞日記』)であった。
翌月には、元服の予定もあったという。
「人間不定、今更驚くべし、悲しむべし悲しむべし」(『看聞日記』)
ただ、今日の医学ならば、
何らかの疾患と診断されていたかもしれない。


しかし、そこは中世。
このあまりにも急な死と、
臨終時、体が紫色に変色していたということから、
「内瘡」や「大中風」(『薩戒記』)といった病死説のほか、
当初から、毒殺説がささやかれた。
小川宮を預かる勧修寺経興が、毒を盛ったというのである。
足利義持は、特に気にとめることもなかったが、
父後小松上皇は、厳しく糾明を命じた。


19日、永円寺で荼毘。
日野資教・勧修寺経興らが参列。

その後、
2年間、小川宮に仕え、その寵愛を受けていた今出川公行の16歳の娘に、
後小松上皇から、落髪せよとの命令が下された。
上皇の命令には逆らえず、
25日、落髪、出家。
世の同情を誘い、
伏見宮貞成親王も、
「不便(ふびん)至極、
 母儀陽明禅尼、殊に不便々々。」(『看聞日記』)
と記している。


これら父後小松の対応も、
なんだか、釈然としないものがある。


小川宮薨去から11日後の2月27日、
今度は、将軍足利義量が19歳にして死去。
たて続く凶事に、
横死した足利義嗣の怨霊のしわざとも噂された。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004)
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006)
『大日本古記録 薩戒記 2』 (東京大学史料編纂所 岩波書店 2003)
《病死》 《1421年》 《6月》 《14日》 《享年不明》


従一位、前左大臣。


応永28年(1421)4月、
京都は疫病の大流行に襲われた。
上旬に、
内大臣の大炊御門宗氏、大内記の東坊城元長が死去。
17日、三条公忠の子で妙法院の執事の日権院、
19日、その弟の報恩院も死去した。
下旬には、
大納言の木造俊康と中山満親も、疫病で死んでいる。

特権階級だけでも、これだけの死者を出している。
昨年来の大飢饉も相俟って、
京都の街衢も農村も、死臭漂う惨憺たるものであった。


そして、この疫病の流行は、
公家今出川家に、最も酷いかたちで悲劇をもたらした。

4月26日、
今出川家の政所をつとめる三善興衡とその娘が死去。
当主今出川公行は、茫然自失のありさまであった。
30日、
公行の次男で跡取りの公富が罹患。
5月19日、
今出川家に仕える青侍の宗親が死去。
22日、
公富の5歳の娘、死去。
また、一度は快復していた公富も、再発。
公行の狼狽えぶりは、相当なものであったという。
6月6日、
公行本人とその妻・娘が罹患。
さらに、4月に死んだ三善興衡の嫡子藤衡とその兄弟たちが死去。
11日、
公富の妻(東坊城長頼の娘)、死去。

そして、
罹患から7日目の6月13日寅の刻(午前4時頃)、
自家が崩壊していく様を目の前にしつつ、
当主公行も、疫病のために、ついに世を去った。
その不安と恐怖は、想像を絶するものであったろう。


こうして、
今出川家は、家僕も含めて計28人が死去し、
ほとんど家が絶えんばかりの状態となってしまった。
特に、政所三善氏は、
興衡の幼い末子幸光丸を残して、計17人が疫病のために命を落としたという。
今出川家の危機的状況は、
単に一公家の断絶を示すだけでなく、
同家が伝える琵琶道の廃絶をも、予感させるものであった。
後小松上皇も伏見宮貞成親王も、
同情を寄せるとともに、そのことを案じている。


後継者の公富を中心に、
今出川家の再興が進められつつあった矢先の8月9日、
その公富も、
26歳にして病死。

もはや、哀れというほかない。


今出川家の断絶により、
本家西園寺家からの養子取りも考えられたようだが、
公行の長男で、
後小松上皇や足利義持らから嫌われて、
家督継承からも外されていた実富と、
幼いその次男の教季によって、
今出川家の再興が進められていくこととなる。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004)
横井清『室町時代の一皇族の生涯 『看聞日記』の世界 (講談社学術文庫)』 (講談社 2002)
《病死》 《1432年》 《6月》 《7日》 《享年44歳》


従一位、前権大納言。
正親町実秀とも。
箏の名手。


永享4年(1432)6月7日頃、
裏辻実秀は、40代半ばにして逝去。

応永末年(1427)頃より、
将軍足利義教の勘気を蒙って、所領を没収され、
困窮のきわみにあった。
「大略、餓死か。不便々々(ふびんふびん)。」(『看聞日記』)
と言われているから、
貧窮具合は、相当なものだったのだろう。


従一位(存命者の最上位)にして、餓死とは、
これ如何に。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 4』 (宮内庁書陵部 2008)
《誅殺》 《1423年》 《2月》 《20日》 《享年不明》


前円満院宮。

後南朝、
護正院宮惟成親王の子、
後醍醐天皇の曾孫。


応永30年(1423)2月20日、
兄弟の護正院宮(世明宮)と輿に同乗していた前円満院宮円悟は、
何がきっかけであったか、
輿の中で、殺意の湧くほどに彼と対立し、
これを葬らんとしたところ、
却って自分が殺されてしまった。
護正院宮(世明宮)も負傷。

どちらも20歳前後と推定されている。

「詳しいことはよくわからないが、妙なことだ」(『看聞日記』)
という伏見宮貞成親王の感想がもっともな事件である。


円満院、狂気の人と云々」(『看聞日記』)というから、
日頃から行動が常軌を逸していたのかもしれない。



〔参考〕
森茂暁『闇の歴史、後南朝―後醍醐流の抵抗と終焉 (角川選書)』 (角川書店、1997)
田代圭一「南朝皇胤についての一考察」 (『古典遺産』54、2004)
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