死に様データベース
《病死》 《1432年》 《6月》 《7日》 《享年44歳》
従一位、前権大納言。
正親町実秀とも。
箏の名手。
永享4年(1432)6月7日頃、
裏辻実秀は、40代半ばにして逝去。
応永末年(1427)頃より、
将軍足利義教の勘気を蒙って、所領を没収され、
困窮のきわみにあった。
「大略、餓死か。不便々々(ふびんふびん)。」(『看聞日記』)
と言われているから、
貧窮具合は、相当なものだったのだろう。
従一位(存命者の最上位)にして、餓死とは、
これ如何に。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 4』 (宮内庁書陵部 2008)
従一位、前権大納言。
正親町実秀とも。
箏の名手。
永享4年(1432)6月7日頃、
裏辻実秀は、40代半ばにして逝去。
応永末年(1427)頃より、
将軍足利義教の勘気を蒙って、所領を没収され、
困窮のきわみにあった。
「大略、餓死か。不便々々(ふびんふびん)。」(『看聞日記』)
と言われているから、
貧窮具合は、相当なものだったのだろう。
従一位(存命者の最上位)にして、餓死とは、
これ如何に。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 4』 (宮内庁書陵部 2008)
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《誅殺》 《1423年》 《2月》 《20日》 《享年不明》
前円満院宮。
後南朝、
護正院宮惟成親王の子、
後醍醐天皇の曾孫。
応永30年(1423)2月20日、
兄弟の護正院宮(世明宮)と輿に同乗していた前円満院宮円悟は、
何がきっかけであったか、
輿の中で、殺意の湧くほどに彼と対立し、
これを葬らんとしたところ、
却って自分が殺されてしまった。
護正院宮(世明宮)も負傷。
どちらも20歳前後と推定されている。
「詳しいことはよくわからないが、妙なことだ」(『看聞日記』)
という伏見宮貞成親王の感想がもっともな事件である。
「円満院、狂気の人と云々」(『看聞日記』)というから、
日頃から行動が常軌を逸していたのかもしれない。
〔参考〕
森茂暁『闇の歴史、後南朝―後醍醐流の抵抗と終焉 (角川選書)
』 (角川書店、1997)
田代圭一「南朝皇胤についての一考察」 (『古典遺産』54、2004)
前円満院宮。
後南朝、
護正院宮惟成親王の子、
後醍醐天皇の曾孫。
応永30年(1423)2月20日、
兄弟の護正院宮(世明宮)と輿に同乗していた前円満院宮円悟は、
何がきっかけであったか、
輿の中で、殺意の湧くほどに彼と対立し、
これを葬らんとしたところ、
却って自分が殺されてしまった。
護正院宮(世明宮)も負傷。
どちらも20歳前後と推定されている。
「詳しいことはよくわからないが、妙なことだ」(『看聞日記』)
という伏見宮貞成親王の感想がもっともな事件である。
「円満院、狂気の人と云々」(『看聞日記』)というから、
日頃から行動が常軌を逸していたのかもしれない。
〔参考〕
森茂暁『闇の歴史、後南朝―後醍醐流の抵抗と終焉 (角川選書)
田代圭一「南朝皇胤についての一考察」 (『古典遺産』54、2004)
《誅殺》 《1441年》 《2月》 《19日》 《享年不明》
地下楽人、右舞人。
嘉吉元年(1441)のとある日、
多忠右は、
「借物大法」のことで、室町幕府政所執事伊勢貞国と対立した。
その際、悪口を吐いた廉で、
将軍足利義教の命により、
2月19日、首を刎ねられた。
悪口(あっこう)は、中世においては大罪であった。
「御成敗式目」にも、
ひどい場合には流罪に処すと、記されている。
忠右の場合、
相手が悪かったのだろう。
地下楽人と幕府高官とでは、
流罪では済まされなかったのかもしれない。
なお、
忠右は、胡飲酒舞曲の相伝者であり、
その死により、天王寺の舞曲の断絶が懸念されたらしい。
話は、これだけでは収まらない。
忠右の刑死から2日後の2月21日、
忠右の妻が、自宅に火を放ち、自害した。
幸い、火はすぐに鎮火され、
周囲に広がることはなかったという。
夫の跡を追った凄絶な妻の死には違いないが、
果たして、壮絶なる夫婦愛と捉えてよいものかどうか。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 六』 (宮内庁書陵部、2012)
地下楽人、右舞人。
嘉吉元年(1441)のとある日、
多忠右は、
「借物大法」のことで、室町幕府政所執事伊勢貞国と対立した。
その際、悪口を吐いた廉で、
将軍足利義教の命により、
2月19日、首を刎ねられた。
悪口(あっこう)は、中世においては大罪であった。
「御成敗式目」にも、
ひどい場合には流罪に処すと、記されている。
忠右の場合、
相手が悪かったのだろう。
地下楽人と幕府高官とでは、
流罪では済まされなかったのかもしれない。
なお、
忠右は、胡飲酒舞曲の相伝者であり、
その死により、天王寺の舞曲の断絶が懸念されたらしい。
話は、これだけでは収まらない。
忠右の刑死から2日後の2月21日、
忠右の妻が、自宅に火を放ち、自害した。
幸い、火はすぐに鎮火され、
周囲に広がることはなかったという。
夫の跡を追った凄絶な妻の死には違いないが、
果たして、壮絶なる夫婦愛と捉えてよいものかどうか。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 六』 (宮内庁書陵部、2012)
《戦死》 《1336年》 《8月》 《20日》 《享年不明》
鎌倉鶴岡八幡宮に仕える侍。
横地某の養子となっていた。
建武3年(1336)8月20日亥の刻(夜10時頃)、
悪党50人余が、鶴岡八幡宮の境内に乱入した。
神宝を強盗しようとしたらしい。
宿直の番をしていた小栗十郎は、
下宮まで出て防戦し、悪党を追い帰したが、
自身も重傷を負った。
運ばれたか、
それとも自力でたどりついたか、
上宮廻廊妻まで来たところで、絶命。
鶴岡八幡宮の史料には、
「無双高名」(『鶴岡社務記録』)
と、ある。
ひと月後の9月28日、
再び悪党が宝蔵に押し寄せ、
小栗十郎の養父横地らが、防戦して追い帰した。
悪党らは、手負いの仲間や仲間の死体を抱えて、
帰って行った。
列島各地で北朝と南朝が相争う、混乱した時代の、
都市鎌倉の様相が、窺い知れる。
〔参考〕
豊田武・岡田荘司校注『神道大系 神社編20 鶴岡』 (神道大系編纂会 1979)
鎌倉鶴岡八幡宮に仕える侍。
横地某の養子となっていた。
建武3年(1336)8月20日亥の刻(夜10時頃)、
悪党50人余が、鶴岡八幡宮の境内に乱入した。
神宝を強盗しようとしたらしい。
宿直の番をしていた小栗十郎は、
下宮まで出て防戦し、悪党を追い帰したが、
自身も重傷を負った。
運ばれたか、
それとも自力でたどりついたか、
上宮廻廊妻まで来たところで、絶命。
鶴岡八幡宮の史料には、
「無双高名」(『鶴岡社務記録』)
と、ある。
ひと月後の9月28日、
再び悪党が宝蔵に押し寄せ、
小栗十郎の養父横地らが、防戦して追い帰した。
悪党らは、手負いの仲間や仲間の死体を抱えて、
帰って行った。
列島各地で北朝と南朝が相争う、混乱した時代の、
都市鎌倉の様相が、窺い知れる。
〔参考〕
豊田武・岡田荘司校注『神道大系 神社編20 鶴岡』 (神道大系編纂会 1979)
《誅殺》 《1349年》 《12月》 《21日》 《享年不明》
鎌倉将軍府関東廂番、
室町幕府引付頭人・内談方頭人。
伊豆守護。
足利尊氏・直義兄弟の従兄弟にして、
直義の近臣。
将軍足利尊氏とその弟直義の、
二頭政治によって成り立っていた、草創期の室町幕府であったが、
貞治5年(1349)頃より、
政権構想の違いなどに基づく、尊氏の執事高師直と直義の深刻な対立によって、
樹立早々、危機を迎えることとなる。
貞治5年(1349)閏6月15日、
直義派は尊氏に迫り、高師直の執事職を罷免させた。
これを主導したのは、
直義の近臣上杉重能と畠山直宗だったという。
しかし、
師直も負けてはおらず、
8月13日、
一族や自派の武士を集めて、直義を討とうとした。
危機を察した直義は、
兄尊氏の屋敷に逃避するが、
翌14日、
師直は、その屋敷を取り囲んで、
主人尊氏に迫った。
師直には、千葉氏胤や宇都宮氏綱をはじめ、「天下武士」が味方し、
対する尊氏邸の直義派は、その半分にも満たなかった。
師直が迫ったのは、
「讒臣」上杉重能・畠山直宗・僧妙吉の配流、
直義の政務停止、および尊氏の嫡子義詮との交代であった。
15日、
しかたなく、尊氏・直義は、これを飲んだ。
僧妙吉は、逐電してしまったため、
その住房を毀ち、
捕えられた上杉重能・畠山直宗は、
越前に配流されることとなった。
8月17日、
近江と越前の国堺、黒川周辺で、
重能が討たれて、梟首されたとの報が、
京都で流れた。
これは結局誤報であったが、
結局、重能・直宗ともに、
この年のうちに、配所で誅殺されてしまう。
8月とも、10月とも伝わる。
出し抜き、出し抜かれるは、
戦乱の世の常か。
以下、『太平記』の記述。
師直の命を受けた八木光勝が、一行を追いかけて、
越前足羽で取り囲むくだり。
ただつかれの鳥の、犬と鷹とに攻めらるらんも、
かくやと思いしられたり。
これまでも、主の専途を見果てんと、
付き従いたりける若党十三人、主の自害を勧めんため、
おし肌脱いで、一度に腹をぞ斬りたりける。
畠山大蔵少輔(直宗)、続いて腹を掻き斬る。
その刀を引き抜いて、
上杉伊豆守(重能)の前に投げやり、
「お腰の刀はちと寸延びて見え候、
これにて御自害候え」
と言うも果てず、
うつ伏しになりて倒れにけり。
伊豆守、その刀を手に取りながら、
幾程ならぬ浮世の名残を惜しみて、
女房の方を、つくづくと見て、
顔に袖を押し当て、たださめざめと泣きいたるばかりにて、
そぞろに時をぞ移されける。
さんぬるほどに、八木光勝が中間どもに生け捕られて、
刺し殺されけるこそうたてけれ。
武士たる人は、平生のふるまいはよしや、
ともかくもあれ、あながちに見るところに非ず。
ただ最期の死に様をこそ、執することなるに、
汚くも見え給いつる死に場かなと、爪弾きせぬ人もなかりけり。
なんとも人間くさい。
重能が、最期の未練に視線を送った女房は、
その後、往生院にて剃髪。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十二』 (1913)
鎌倉将軍府関東廂番、
室町幕府引付頭人・内談方頭人。
伊豆守護。
足利尊氏・直義兄弟の従兄弟にして、
直義の近臣。
将軍足利尊氏とその弟直義の、
二頭政治によって成り立っていた、草創期の室町幕府であったが、
貞治5年(1349)頃より、
政権構想の違いなどに基づく、尊氏の執事高師直と直義の深刻な対立によって、
樹立早々、危機を迎えることとなる。
貞治5年(1349)閏6月15日、
直義派は尊氏に迫り、高師直の執事職を罷免させた。
これを主導したのは、
直義の近臣上杉重能と畠山直宗だったという。
しかし、
師直も負けてはおらず、
8月13日、
一族や自派の武士を集めて、直義を討とうとした。
危機を察した直義は、
兄尊氏の屋敷に逃避するが、
翌14日、
師直は、その屋敷を取り囲んで、
主人尊氏に迫った。
師直には、千葉氏胤や宇都宮氏綱をはじめ、「天下武士」が味方し、
対する尊氏邸の直義派は、その半分にも満たなかった。
師直が迫ったのは、
「讒臣」上杉重能・畠山直宗・僧妙吉の配流、
直義の政務停止、および尊氏の嫡子義詮との交代であった。
15日、
しかたなく、尊氏・直義は、これを飲んだ。
僧妙吉は、逐電してしまったため、
その住房を毀ち、
捕えられた上杉重能・畠山直宗は、
越前に配流されることとなった。
8月17日、
近江と越前の国堺、黒川周辺で、
重能が討たれて、梟首されたとの報が、
京都で流れた。
これは結局誤報であったが、
結局、重能・直宗ともに、
この年のうちに、配所で誅殺されてしまう。
8月とも、10月とも伝わる。
出し抜き、出し抜かれるは、
戦乱の世の常か。
以下、『太平記』の記述。
師直の命を受けた八木光勝が、一行を追いかけて、
越前足羽で取り囲むくだり。
ただつかれの鳥の、犬と鷹とに攻めらるらんも、
かくやと思いしられたり。
これまでも、主の専途を見果てんと、
付き従いたりける若党十三人、主の自害を勧めんため、
おし肌脱いで、一度に腹をぞ斬りたりける。
畠山大蔵少輔(直宗)、続いて腹を掻き斬る。
その刀を引き抜いて、
上杉伊豆守(重能)の前に投げやり、
「お腰の刀はちと寸延びて見え候、
これにて御自害候え」
と言うも果てず、
うつ伏しになりて倒れにけり。
伊豆守、その刀を手に取りながら、
幾程ならぬ浮世の名残を惜しみて、
女房の方を、つくづくと見て、
顔に袖を押し当て、たださめざめと泣きいたるばかりにて、
そぞろに時をぞ移されける。
さんぬるほどに、八木光勝が中間どもに生け捕られて、
刺し殺されけるこそうたてけれ。
武士たる人は、平生のふるまいはよしや、
ともかくもあれ、あながちに見るところに非ず。
ただ最期の死に様をこそ、執することなるに、
汚くも見え給いつる死に場かなと、爪弾きせぬ人もなかりけり。
なんとも人間くさい。
重能が、最期の未練に視線を送った女房は、
その後、往生院にて剃髪。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十二』 (1913)
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死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 ~1299
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| 1093 | ||
| 1095 | ||
| 1097 | ||
| 1103 | ||
| 1105 | ||
| 1138 | ||
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| 1177 | 1178 | |
| 1186 | ||
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| 1202 | ||
| 1207 | ||
| 1212 | 1213 | |
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| 1227 | ||
| 1230 | ||
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| 1250 | ||
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没年 1350~1399
| 1350 | ||
| 1351 | 1352 | 1353 |
| 1355 | ||
| 1357 | ||
| 1363 | ||
| 1364 | 1365 | 1366 |
| 1367 | 1368 | |
| 1370 | ||
| 1371 | 1372 | |
| 1374 | ||
| 1378 | 1379 | |
| 1380 | ||
| 1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
| 1400 | ||
| 1402 | 1403 | |
| 1405 | ||
| 1408 | ||
| 1412 | ||
| 1414 | 1415 | 1416 |
| 1417 | 1418 | 1419 |
| 1420 | ||
| 1421 | 1422 | 1423 |
| 1424 | 1425 | 1426 |
| 1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
| 1430 | ||
| 1431 | 1432 | 1433 |
| 1434 | 1435 | 1436 |
| 1437 | 1439 | |
| 1441 | 1443 | |
| 1444 | 1446 | |
| 1447 | 1448 | 1449 |
| 1450 | ||
| 1453 | ||
| 1454 | 1455 | |
| 1459 |
没年 1460~1499
没日
| 1日 | 2日 | 3日 |
| 4日 | 5日 | 6日 |
| 7日 | 8日 | 9日 |
| 10日 | 11日 | 12日 |
| 13日 | 14日 | 15日 |
| 16日 | 17日 | 18日 |
| 19日 | 20日 | 21日 |
| 22日 | 23日 | 24日 |
| 25日 | 26日 | 27日 |
| 28日 | 29日 | 30日 |
| 某日 |
享年 ~30代
| ~9歳 | ||
| 6歳 | ||
| 9歳 | ||
| 10代 | 10歳 | |
| 11歳 | ||
| 15歳 | ||
| 18歳 | 19歳 | |
| 20代 | 20歳 | |
| 22歳 | ||
| 24歳 | 25歳 | 26歳 |
| 27歳 | 28歳 | 29歳 |
| 30代 | 30歳 | |
| 31歳 | 32歳 | 33歳 |
| 34歳 | 35歳 | |
| 37歳 | 38歳 | 39歳 |
享年 40代~60代
| 40代 | 40歳 | |
| 41歳 | 42歳 | 43歳 |
| 44歳 | 45歳 | 46歳 |
| 47歳 | 48歳 | 49歳 |
| 50代 | 50歳 | |
| 52歳 | 53歳 | |
| 55歳 | ||
| 57歳 | 58歳 | |
| 60代 | 60歳 | |
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| 66歳 | ||
| 68歳 | 69歳 |
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当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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