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死に様データベース
《誅殺》 《1441年》 《2月》 《19日》 《享年不明》


地下楽人、右舞人。

嘉吉元年(1441)のとある日、
多忠右は、
「借物大法」のことで、室町幕府政所執事伊勢貞国と対立した。
その際、悪口を吐いた廉で、
将軍足利義教の命により、
2月19日、首を刎ねられた。


悪口(あっこう)は、中世においては大罪であった。
「御成敗式目」にも、
ひどい場合には流罪に処すと、記されている。

忠右の場合、
相手が悪かったのだろう。
地下楽人と幕府高官とでは、
流罪では済まされなかったのかもしれない。


なお、
忠右は、胡飲酒舞曲の相伝者であり、
その死により、天王寺の舞曲の断絶が懸念されたらしい。


話は、これだけでは収まらない。
忠右の刑死から2日後の2月21日、
忠右の妻が、自宅に火を放ち、自害した。
幸い、火はすぐに鎮火され、
周囲に広がることはなかったという。


夫の跡を追った凄絶な妻の死には違いないが、
果たして、壮絶なる夫婦愛と捉えてよいものかどうか。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 六』 (宮内庁書陵部、2012)
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《戦死》 《1336年》 《8月》 《20日》 《享年不明》


鎌倉鶴岡八幡宮に仕える侍。
横地某の養子となっていた。


建武3年(1336)8月20日亥の刻(夜10時頃)、
悪党50人余が、鶴岡八幡宮の境内に乱入した。
神宝を強盗しようとしたらしい。
宿直の番をしていた小栗十郎は、
下宮まで出て防戦し、悪党を追い帰したが、
自身も重傷を負った。
運ばれたか、
それとも自力でたどりついたか、
上宮廻廊妻まで来たところで、絶命。

鶴岡八幡宮の史料には、
「無双高名」(『鶴岡社務記録』)
と、ある。


ひと月後の9月28日、
再び悪党が宝蔵に押し寄せ、
小栗十郎の養父横地らが、防戦して追い帰した。
悪党らは、手負いの仲間や仲間の死体を抱えて、
帰って行った。


列島各地で北朝と南朝が相争う、混乱した時代の、
都市鎌倉の様相が、窺い知れる。



〔参考〕
豊田武・岡田荘司校注『神道大系 神社編20 鶴岡』 (神道大系編纂会 1979)
《誅殺》 《1349年》 《12月》 《21日》 《享年不明》


鎌倉将軍府関東廂番、
室町幕府引付頭人・内談方頭人。
伊豆守護。
足利尊氏・直義兄弟の従兄弟にして、
直義の近臣。


将軍足利尊氏とその弟直義の、
二頭政治によって成り立っていた、草創期の室町幕府であったが、
貞治5年(1349)頃より、
政権構想の違いなどに基づく、尊氏の執事高師直直義の深刻な対立によって、
樹立早々、危機を迎えることとなる。

貞治5年(1349)閏6月15日、
直義派は尊氏に迫り、高師直の執事職を罷免させた。
これを主導したのは、
直義の近臣上杉重能と畠山直宗だったという。

しかし、
師直も負けてはおらず、
8月13日、
一族や自派の武士を集めて、直義を討とうとした。
危機を察した直義は、
兄尊氏の屋敷に逃避するが、
翌14日、
師直は、その屋敷を取り囲んで、
主人尊氏に迫った。
師直には、千葉氏胤や宇都宮氏綱をはじめ、「天下武士」が味方し、
対する尊氏邸の直義派は、その半分にも満たなかった。

師直が迫ったのは、
「讒臣」上杉重能・畠山直宗・僧妙吉の配流、
直義の政務停止、および尊氏の嫡子義詮との交代であった。

15日、
しかたなく、尊氏・直義は、これを飲んだ。

僧妙吉は、逐電してしまったため、
その住房を毀ち、
捕えられた上杉重能・畠山直宗は、
越前に配流されることとなった。


8月17日、
近江と越前の国堺、黒川周辺で、
重能が討たれて、梟首されたとの報が、
京都で流れた。
これは結局誤報であったが、
結局、重能・直宗ともに、
この年のうちに、配所で誅殺されてしまう。
8月とも、10月とも伝わる。


出し抜き、出し抜かれるは、
戦乱の世の常か。


以下、『太平記』の記述。
師直の命を受けた八木光勝が、一行を追いかけて、
越前足羽で取り囲むくだり。

 ただつかれの鳥の、犬と鷹とに攻めらるらんも、
 かくやと思いしられたり。
 これまでも、主の専途を見果てんと、
 付き従いたりける若党十三人、主の自害を勧めんため、
 おし肌脱いで、一度に腹をぞ斬りたりける。
 畠山大蔵少輔(直宗)、続いて腹を掻き斬る。
 その刀を引き抜いて、
 上杉伊豆守(重能)の前に投げやり、
 「お腰の刀はちと寸延びて見え候、
  これにて御自害候え」
 と言うも果てず、
 うつ伏しになりて倒れにけり。
 伊豆守、その刀を手に取りながら、
 幾程ならぬ浮世の名残を惜しみて、
 女房の方を、つくづくと見て、
 顔に袖を押し当て、たださめざめと泣きいたるばかりにて、
 そぞろに時をぞ移されける。
 さんぬるほどに、八木光勝が中間どもに生け捕られて、
 刺し殺されけるこそうたてけれ。
 武士たる人は、平生のふるまいはよしや、
 ともかくもあれ、あながちに見るところに非ず。
 ただ最期の死に様をこそ、執することなるに、
 汚くも見え給いつる死に場かなと、爪弾きせぬ人もなかりけり。

なんとも人間くさい。
重能が、最期の未練に視線を送った女房は、
その後、往生院にて剃髪。



〔参考〕
『大日本史料 第六編之十二』 (1913)
《病死》 《1372年》 《3月》 《29日》 《享年不明》


室町幕府問注所執事・引付方・評定衆、
鎌倉府問注所執事。


太田顕之は、鎌倉時代以来の法曹官僚の家に生まれ、
自らもその職能をもって、
南北朝内乱期の足利氏に仕えた。

貞和2年(1346)・同5年(1349)正月の将軍足利尊氏の評定始には、
高師直・佐々木導誉らとともに、参列している。


観応の擾乱では、
直義方につき、直義の北国落ちにも随ったが、
擾乱後、幕府に復帰し、
文和3年(1354)5月の足利義詮の評定始に、
仁木頼章・佐々木導誉らと参列している。


その後、京都から鎌倉に移り、
鎌倉公方足利基氏に、問注所執事として仕えたらしい。
隼人正入道沙弥善照」・「雪林善照居士」・「問注所雪林居士」の名で、
記録等に散見されるが、
その活動はあまり明らかでない。


応安5年(1372)3月29日、
急死。

火葬の際の火付け役を頼まれたが、
病気を理由に断った義堂周信は、
「嗚呼哀しい哉。
 天下安危は、一人にかかっていた。
 今後世の中はどうなるだろう。
 思えば、こんにち世の人で言動に慎み深いのは、
 だけであった。
 いまや、姦佞の者どものどこに、慎み深い者がいるだろうか。
 ましてや、我が宗門に頼むべき人などいるはずもない。」(『空華日用工夫略集』)
と、その死を嘆き悼んだ。


この周信の記より、
顕行が能吏であったことが、うかがえる。

そして、周信の恐れどおり、
「天下安危」を支えた顕行の死後、
鎌倉では、円覚寺と建長寺の僧侶の衝突が激化したり、
下総香取社の社人たちが、千葉氏の横暴を訴えて、神輿を担いで乗り込んだりと、
きな臭い、物騒なさわぎが続いた。

官僚の重みというものか。



〔参考〕
蔭木英雄『訓注空華日用工夫略集 中世禅僧の生活と文学』 (思文閣出版 1982)
新田一郎「「問注所氏」小考」 (『遥かなる中世』8 1987)
湯山学「鎌倉府と問注所執事三善氏」 (『鎌倉府の研究』 岩田書院 2011)
《誅殺》 《1486年》 《7月》 《26日》 《享年55歳》


扇谷上杉氏家宰。


扇谷上杉氏家宰であった父太田道真は、
山内上杉氏家宰長尾景仲とともに、上杉方の中心的な存在であり、
鎌倉公方足利成氏と対立した。
その対立は、
鎌倉府の崩壊を招き、
15世紀最大の東国内乱、享徳の大乱へ発展する。


北関東の豪族たちを従え、
下総古河を拠点に、布陣をかためた足利成氏に対して、
上杉方は、武蔵五十子に本陣をすえ、
武蔵河越・江戸に城を築いて、
河越城に、扇谷上杉持朝とその家宰太田道真、
江戸城に、太田道灌を入れた。
道灌が江戸城を築城した、とされる所以である。


寛正2年(1461)、
父道真が隠居し、
文明5年(1473)、
扇谷上杉政真の戦死により、
その叔父定正が新たな当主として迎えられると、
その擁立劇をリードした家宰道灌が、
名実ともに、扇谷上杉氏の主導的立場となり、
上杉方の中心的存在となった。


文明8年(1476)3~10月、
扇谷上杉氏の姻戚である駿河守護今川氏の内紛に際し、
武蔵江戸より駿河府中へ出陣。
また同じ頃、
長尾景春が、主人山内上杉顕定に謀叛を起こすと、
帰国したばかりの道灌は、
同じ上杉方として、その鎮火に奔走する。
文明9年(1477)3月、
長尾景春方の相模溝呂木・小磯城を陥し、
4月、
武蔵江古田原で、景春方の豊島氏を破り、
ついで、武蔵石神井城を攻めて、同氏を降服させた。
5月、
武蔵用土原で、景春自身を破って退かせ、
7月、
景春を支援する足利成氏の来襲に備えて、
上野白井城に入城。
9月、
上野塩売原で、再び出陣してきた景春と対陣、
11月、
これを逐った。
翌文明10年(1478)2月、
豊島氏を討つため、武蔵南部に出陣、
4月、
豊島氏の籠る武蔵小机城を陥し、
相模奥三保・甲斐の景春方を追撃、
7月、
武蔵中・北部を転戦して、景春方を叩き、
12月、
下総境根原で、景春方の千葉孝胤を破った。
文明11年(1479)1月、
孝胤の籠る下総臼井城に攻め、
この戦いで、弟資忠を喪うが、
7月には、
下総・上総の景春方を降し、
文明12年(1480)1月、
武蔵長井城を陥し、
6月、
景春の籠る武蔵秩父の日野城を陥落させた。
とんで文明15年(1483)10月、
上総長南城攻略、
文明16年(1484)5月、
下総馬橋城を築城、
文明18年(1486)6月には、
下総に出陣した。

叩かれても何度も立ち上がる景春景春だが、
モグラたたきのように、それを潰していった道灌の活躍も、
すさまじい。


めざましいのは、戦だけではない。
江戸城内に、筑波山や隅田川、富士山、武蔵野を望む亭を築き、
禅僧万里集九らを招いて、歌会を開くなどして、
東国に一大文化サロンをなした。
文武両道に秀でた武将だったのである。


こうした道灌の、八面六臂の活躍は、
扇谷上杉氏の勢力を拡大させたが、
同時に、山内上杉顕定の不興を買うこととなった。
ともに活動していたとはいえ、
両上杉氏は、一枚岩ではなかったのである。

さらに、扇谷上杉氏のなかにも、
道灌の活躍を喜ばない者たちがいた。

彼らは、
扇谷上杉定正と道灌の仲を引き離そうと企てた。


こうした推移のなかで、
徐々に家宰道灌に不信を抱きはじめた当主定正は、
ついに道灌の排除を決意する。

文明18年(1486)7月26日、
主人定正の相模糟屋館において、
入浴を終えて、風呂から出てきたところ、
同僚の曽我兵庫助に、斬りつけられた。
倒れざまに道灌は、
「当方滅亡」(『太田資武状』)
と、叫んだという。

文武両道の名将は、
図らずも主人の兇刃に斃れた。
活躍に比して、
その死はあまりにあっけない。


遺骸は、洞昌院に運ばれ、
荼毘にふされたという。
現神奈川県伊勢原市の洞昌院には、道灌の胴塚、
大慈寺には、道灌の首塚と呼ばれる塚が、築かれている。

友人の万里集九は、
祭文を捧げるなどして、たびたび道灌の菩提を弔った。


有能さゆえに招いた死。
しかし、その有能さは、
ときに剛腕・横暴として人の目に映った。
出すぎた杭も殺される。


なお、その後、
道灌の嫡子資康は、
扇谷上杉氏のもとを離れて、山内上杉氏のもとに奔り、
長享元年(1487)、
両上杉氏は、ついに軍事衝突するに至る。
この抗争のうちに、勢力を伸ばした伊勢宗瑞により、
扇谷上杉氏は、道灌の予言どおり、
「滅亡」へと進んでいく。



〔参考〕
黒田基樹『図説 太田道潅―江戸東京を切り開いた悲劇の名将』 (戎光祥出版 2009)
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