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死に様データベース
《病死》 《1366年》 《12月》 《27日》 《享年20歳》


従二位、権大納言。


貞治5年(1366)12月14日、
一条房経は、病に罹った。
その後、やや快方に向かったが、
25日、
医師和気繁成に「大補湯」を処方してもらったところ、
再発。

房経に子はなく、
しかも、その病が篤く、急を要するため、
一条家の跡目として、
田舎にいる房経の幼い弟が探し出され、
相続させることとなった。

房経の病は、その後も癒えることなく、
27日亥の刻(夜10時頃)、逝去。


一条家に仕えた吉田兼煕は、
「無常の習い、無力といえども、
 哀傷を増しおわんぬ。
 予年少より奉公、他に異なる。
 大略御一流の断絶か。
 珍事々々。」(『吉田家日次記』)
と、その若すぎる死を悼んでいる。


ところが、
房経弟への相続について、
朝廷への申請や、室町幕府への申し入れが、ひと通りすんだ後、
この若君が、
実は房経の実弟ではなく、二条良基の末子であることが、
周囲に知らされた。
房経の急病により、
慌てて、関白二条良基の末子を、一条房経の弟として、
田舎に待機させておいたものであった。
これを知った吉田兼煕は、
「よろしく神慮あるべきものなり。」(『吉田家日次記』)
と、憤っている。

この若君が、
のちの関白一条経嗣である。



〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十七』 (1935)
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《病死》 《1365年》 《5月》 《4日》 《享年60歳》


北条氏一門赤橋久時の娘。
室町幕府初代将軍足利尊氏の妻で、
2代将軍義詮・初代鎌倉公方基氏の母。

正慶2年(1333)5月、
夫尊氏が、後醍醐天皇の倒幕軍に投じた際には、
子の千寿王(のちの義詮)とともに、鎌倉にあったが、脱出し、
新田義貞らの倒幕軍と北条氏一門の、鎌倉市街戦には、
巻き込まれずには済んだ。

ただ、
鎌倉幕府最後の執権をつとめた兄守時は、
同年5月18日、
鎌倉巨福呂坂で、新田勢と戦ったのち、自刃。
鎮西探題であったもう一人の兄英時も、
同年5月25日に、
九州の少弐貞経・大友貞宗らに敗れて、
筑前博多で自害した。

赤橋登子にとって、
夫尊氏は、親兄弟の仇の筋に当たらなくもない。


その夫尊氏が、
延文3年(1358)4月30日、没すると、
出家して、尼となったらしい。


貞治3年(1364)頃より、
悪瘡により、病気がちであったが、
翌貞治4年(1365)に入ってからは、
やや快方に向かっていた。
ところが、
その年の5月4日酉の斜(夜7時頃)、
危篤に陥る。
事態を聞いた諸大名が、将軍義詮邸に参集した。
子の刻(深夜0時頃)、
他界。

6日申の刻(夕方4時頃)、
夫尊氏の墓所である仁和寺等持院にて、葬儀。
子の刻(深夜0時頃)、火葬。
8日、納骨。
登子に仕えていた清原教氏が、
この日、出家した。

葬儀いっさいは、
将軍である嫡子義詮が執り行ったが、
次男基氏も、関東にあって、
喪に服した。


6月4日までの30日間、
天下触穢とされた。



〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十六』 (1933)
谷口研語「足利尊氏の正室、赤橋登子」(芥川龍男編『日本中世の史的展開』 文献出版 1997)
《不詳》 《1352年》 《2月》 《26日》 《享年45歳》


初代室町幕府将軍足利尊氏の弟。
室町幕府の執政。


足利直義は、
1歳上の兄尊氏を支え、室町幕府を樹立。
軍事系統を掌握する尊氏と、
裁判などの政務を担当する直義とで、
草創期の室町幕府は、兄弟の二頭政治に成り立っていた。

篤実で磊落な兄尊氏に対して、
直義は、理知的、保守的で、きっちりした性格であったとされ、
その政治方針も、前代以来の秩序の回復・維持に、
重きが置かれている。

しかし、
そうした方針はやがて、
既存の権威を打ち破ろうとする、尊氏の執事高師直との間に、
深刻な対立を生んだ。


貞治5年(1349)閏6月、
直義は、尊氏に迫って、高師直の執事職を罷免させた。
が、8月、
師直の巻き返しにより、直義は政務から逐われて、出家。
尊氏の調停によって、
両者の対立はひとまず収まる形になったが、
何ら根本的な解決には至っていない。


観応元年(1350)10月、
西国で勢力を蓄える直義の養子直冬(尊氏の実子)を討つべく、
尊氏が出京すると、
その隙をついて、直義は京都を脱出。
大和に逃れて、南朝と講和し、
ついで河内石川城の畠山国清に迎えられ、
諸国に、高師直ら誅伐の兵を募って挙兵。
北陸・畿南・四国の直義派が、続々と兵を挙げた。

かくして、
師直直義の対立は、
尊氏・直義の兄弟間抗争に発展したのである。


観応2年(1351)2月17日、
京都を掌握した直義は、
播磨から東上する尊氏・師直を、
摂津打出浜で破った。
2月20日、
尊氏は、直義に和を請い、和睦。
師直は、直義上杉能憲に殺されてしまった。


再び、直義主導の幕政に戻ったが、
政情は不安定なままだった。
3月末には、
直義の側近が暗殺されたり、襲撃されたりする事件が起きて、
さまざまな浮言がとびかい、
両派の対立は、一触即発の状態だった。

7月19日、
直義は、政務を辞す。
しかし、
それで事態が収拾するはずもなく、
7月末、
尊氏方が、京都に直義を挟撃する計画があらわれると、
8月1日丑の刻(深夜2時頃)、
直義は京都を脱出。
若狭を経て、越前金ヶ崎城の斯波高経に迎えられ、
勢威盛んになり、京都の尊氏を脅かした。
だが、
9月12日、
近江湯次・八相山で直義方が敗れて、形勢が変わると、
直義は、越前敦賀を発ち、北陸を経由して、
11月15日、
信頼する上杉憲顕の待つ鎌倉に入った。

直義はここで、再び形勢を立て直し、
東海道で、尊氏との再決戦に備える。


観応2年(1351)12月13日、
東国勢を率いた直義上杉憲顕らは、
伊豆国府や駿河東部に布陣し、
駿河薩タ山の尊氏と対峙。
数でこれを圧倒した。
しかし、12月27日、
背後の相模より、宇都宮氏綱らが尊氏方に来援。
直義方は、
伊豆、相模で連敗と後退を続け、
直義は、尊氏に降服。
正月6日、
直義は、尊氏に連れられて鎌倉に入った。

正平7年(1352)2月26日卯の刻(朝6時頃)、
鎌倉にて急死。
45歳。
『太平記』は黄疸とする。
奇しくも、
宿敵高師直らが殺された、ちょうど1年の後であった。


京都でこれを聞いた洞院公賢は、
「もし天下静謐の基となるならば、神妙なことだろう。
 ただし、何事も凡慮では測りがたいものである。」(『園太暦』)
と記している。
それほどに、
室町幕府史における直義の死は大きい。


あまりに急な死であったため、
当時から、尊氏による毒殺がささやかれた。
今日の学界においても、
その定説はない。



〔参考〕
『大日本史料 第六編之十六』 (1918)
佐藤進一『日本の歴史 9 南北朝の動乱』 (中央公論社 1965)
峰岸純夫『足利尊氏と直義―京の夢、鎌倉の夢 (歴史文化ライブラリー)』 (吉川弘文館 2009)
《病死》 《1368年》 《9月》 《19日》 《享年63歳》


関東管領。
足利氏の準一門で、
足利尊氏・直義の従兄弟にあたる。


上杉憲顕は、
建武元年(1334)、28歳にして、関東政界にデビューして以来、
数度の上洛以外は、ずっと東国で活動した。
南北朝内乱で活躍した足利氏一門・譜代被官のなかでも、
こうした例は珍しい。


建武3年(1336)正月、
父憲房が京都で戦死すると、
その地位や上野守護職を継承。

当時、上杉一族の中心は、
憲顕、義兄弟の重能、従兄弟の朝定の3人であり、
いずれも足利直義の信頼を得て、その有力部将として活躍していたが、
重能・朝定が、室町幕府の中枢にあって、
京都や畿内近国で活動したのに対して、
憲顕のみは、関東や越後で南朝方と戦い、
足利氏権力の確立に努めている。
建武4年(1337)5月には、直義から、
「諸国の守護の非法のみ聞き候に、
 当国の沙汰は、法の如く殊勝の由、
 諸人申し合い候間、
 感悦無極候、」(「上杉家文書」)
と、上野の支配を激賞されている。
憲顕の支配は、
足利直義の政権構想や支配理念と、よく合っていた。

と同時に、
憲顕が一代で築き上げた関東の基盤は、
幕府にとって、かなりのものだったと思われる。


暦応元年(1338)12月、
直義の命により、上洛するが、
同3年(1340)6月までに、再び関東に戻っている。
翌年(1341)から康永3年(1344)には、
越後を転戦して、南朝方を鎮圧。


観応の擾乱(足利方の内訌)が起こると、
憲顕は、むろん直義方として活動し、
観応2年(1351)正月、
関東両管領の一方で尊氏方の高師冬を、甲斐で討ち取った。
そして、
東国の強大な軍事力を背景に、
京都の直義を助けるべく、上洛を企てるが、
これは、直義に止められている。
そのかわり、子憲将らを上洛させたらしい。

同年11月、
京都を脱出した直義を、鎌倉に迎え、
駿河で足利尊氏と衝突。
一時はこれを圧倒するが、背後からの増援により、敗れた。
翌正平7年(1352)正月、
直義は、兄尊氏に降服し、観応の擾乱は終息。
尊氏に叛した憲顕は、
東国で築き上げたすべてを、失った。

これ以前、
憲顕の子能憲は、尊氏方の高師直らを誅殺した。
尊氏は、重臣師直を討った上杉氏を、
生涯許すことがなかったのである。
そして、憲顕も、主君直義を討った尊氏に、
徹底抗戦していくこととなる。


擾乱終息からほどない、観応3年(1352)閏2月、
憲顕は、南朝方と組んで、尊氏を破り、
鎌倉を占領。
しかし、翌3月、すぐさま奪回された。
それ以降、憲顕やその子らは、
越後や信濃で、ゲリラ的な活動をして、幕府に反抗した。
連敗していたようだから、
“隠然たる勢力を持っていた”とは言い難い。


ところが、
延文3年(1358)4月、尊氏が没すると、
状況が少しずつ変わっていった。
尊氏ほどに、上杉氏に対して拘りのない新将軍義詮は、
貞治元年(1362)、
憲顕を赦免して、越後守護に採用した。

そして、
翌2年(1363)3月、
鎌倉公方足利基氏によって、
再び関東管領として、鎌倉に迎えられることとなる。
基氏は、このことを、
「多年念願」、「願い大慶」(「上杉家文書」)
と述べている。
実父尊氏よりも、養父直義に憧憬を抱いていたらしい基氏は、
幼き頃に、直義の理念の体現者である憲顕の薫陶を受け、
その復帰を、嘱望していたのである。


こうして、憲顕は、
一族ともども、関東政界に完全な復帰を果たした。
こうした例も、
足利氏一門のなかでは、かなり稀である。


貞治6年(1367)4月、
主君基氏が若くして急逝。
その子金王丸(のちの氏満)が、
わずか9歳にして鎌倉公方となる。

しかし、
室町幕府は、その後の行く末を危ぶんだか、
重臣佐々木導誉を鎌倉に派遣して、関東の政務を執らせた。
憲顕はこれと交代して、7月に上洛し、
室町幕府に善後策を議した。

ところが、
同年12月に、将軍義詮も急逝。
鎌倉にあった佐々木導誉は、いそぎ帰京する。

この隙をついて、
翌貞治7年(1368)2月、
憲顕に不満を持っていた河越直重ら平一揆が、武蔵河越で、
宇都宮氏綱が、下野宇都宮で挙兵した。
さらに、混乱に乗じて、
南朝方の残党新田義宗・義治らも、越後や上野で蜂起。
新将軍義満の屋敷で、この報を聞いた憲顕は、
急いで関東に帰った。

すぐさま、
憲顕の子能憲憲春や、甥朝房らが出陣し、
手際よくこれを鎮圧していった。
万全な憲顕は、
平一揆や宇都宮氏の蜂起を誘うために、
あえて関東を留守にしたのではないか、とさえ思われる。

鎮圧軍は、残る敵宇都宮氏綱を、宇都宮城に追い込んだ。
憲顕も、東山道経由で関東に入り、
上野からそのまま下野足利に進んで、
鎮圧軍の監督に当たったが、
応安元年(1368)9月19日、
その陣中で没。


ほぼ一代で築き上げた勢力に、
失脚と反抗と復帰。
政治家としても、吏僚としても、軍事指揮官としても有能だった憲顕の、
63年の生涯は、
十分に波乱に富んでいたといえる。



〔参考〕
岩崎学「上杉憲顕の鎌倉復帰」 (『國學院大學大學院文学研究科紀要』20 1989)
阪田雄一「南北朝期における上杉氏の動向」 (『国史学』164 1998)
小国浩寿『鎌倉府体制と東国』 (吉川弘文館 2001)
《病死》 《1351年》 《正月》 《17日》 《享年77歳》


正二位、前権大納言。
内大臣洞院公守の次男として生まれ、
正親町家をおこした。


観応2年(1351)正月17日夜、
正親町実明没。
77歳。

甥の洞院公賢は、
「随分寿考の人なり」(『園太暦』)と、
その天寿を評している。


おりしも、南北朝内乱は、
観応の擾乱(室町幕府の内訌)のさなかであり、
正月17日は、
足利直義方の吉良満貞・斯波高経・千葉氏胤らが、
足利尊氏方を駆逐して、京都に乱入したその日であった。

そして、
実明の外孫である北朝の皇太子直仁親王は、
足利尊氏の一時的な南朝への降服(正平の一統)のために、
翌年に廃太子され、
その揚げ句、
南朝軍によって大和吉野へ連行、幽閉された。


実明が、もう少し生きながらえていたならば、
こうしたことを目前にしなければならなかった、
ということになる。



〔参考〕
『大日本史料 第六編之十四』 (1916)
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