死に様データベース
《病死》 《1491年》 《4月》 《3日》 《享年57歳》
堀越公方。
6代将軍足利義教の子、8代将軍足利義政の兄。
享徳3年(1454)12月、
5代鎌倉公方足利成氏が、関東管領上杉憲忠を謀殺して享徳の乱を起こすと、
これを室町幕府に対する叛逆とみた将軍足利義政は、
長禄元年(1457)末、
天龍寺香厳院にいた庶兄清久を還俗させて、政知と名乗らせ、
成氏に代わる鎌倉公方として、関東に遣わすこととした。
当初、政知は、
成氏が失陥した鎌倉に入り、新たな鎌倉公方として東国に君臨するはずだった。
しかし、不安定な関東の情勢は、それを許さず、
長禄2年(1458)の東下以来、
箱根の山も越えずに、伊豆堀越(現・静岡県伊豆の国市)に長く留まった。
堀越公方と呼ばれる所以である。
それでも、堀越公方政知の登場は、成氏陣営に少なからぬ動揺を与えたが、
同時に上杉方にも混乱をもたらし、情勢を決定づけるには至らなかった。
さらに、文明14年(1482)に締結された義政と成氏の和睦で、
公方の地位は成氏に認められたため、
政知の地位は宙ぶらりんとなってしまった。
妥協案として、政知には伊豆一国の支配権と多少の直轄領のみが与えられ、
堀越御所が政知の終の棲家となった。
政知は、延徳3年(1491)正月頃より病気がちになり、
4月3日、永眠。享年57。
院号は勝幢院、道号は九山、法諱は未詳(『蔭凉軒日録』)。
臨終の際の様子を、伝え聞いた権大納言三条西実隆が日記に記している。
鎌倉殿〈左兵衛督政知、慈照院殿同甲子(年齢)御舎弟〉、
去んぬる四月三日、薨じ給う。
正月より御不食と云々。
…獲麟(死去)の時刻の儀、もってのほかの事どもなり。
すなわち寝殿西方の庭に土葬すと云々。
事の儀、記すに能わず。(『実隆公記』)
実隆は、ふた月ほど経とうという5月28日、
前権大納言冷泉為富から得た情報として、このことを記している。
「もってのほかの事ども(とんでもないことなど)」と、
政知の死に際して、何かただならぬことが起こったかのような書きぶりだが、
具体的なことは、「記すに能わず」と書き留めるのを放棄している。
また、貴人の葬法は、火葬と菩提寺への納骨が一般的であった当時、
すぐさま御所内の庭園に土葬されたというのも、どうにも奇妙である。
早々に埋葬を済ませねばならぬほど、特異な死に方であったのか、
それとも、死去の事実を秘匿せねばならない不安定な状況があったのか。
政知の死に何があったのか、今日に知るすべはないが、
3ヶ月後、政知の長男茶々丸が異母弟潤童子とその母を殺害し、
さらにその2年後には、
政知の次男義高を新将軍に立てた京都のクーデター(明応の政変)に連動して、
伊勢宗瑞が茶々丸を攻めて、伊豆への侵攻を開始した。
政知の不可解な死を合図とするかのように、
関東はさらなる動乱の時代へと進んでゆくことになる。
※本記事の内容は、K氏の情報提供による。記して深謝す。
〔参考〕
『実隆公記 巻2』(1932年) →該当箇所
久保健一郎『列島の戦国史 1 享徳の乱と戦国時代』(吉川弘文館、2020年)
則竹雄一『動乱の東国史 6 古河公方と伊勢宗瑞』(吉川弘文館、2013年)
堀越公方。
6代将軍足利義教の子、8代将軍足利義政の兄。
享徳3年(1454)12月、
5代鎌倉公方足利成氏が、関東管領上杉憲忠を謀殺して享徳の乱を起こすと、
これを室町幕府に対する叛逆とみた将軍足利義政は、
長禄元年(1457)末、
天龍寺香厳院にいた庶兄清久を還俗させて、政知と名乗らせ、
成氏に代わる鎌倉公方として、関東に遣わすこととした。
当初、政知は、
成氏が失陥した鎌倉に入り、新たな鎌倉公方として東国に君臨するはずだった。
しかし、不安定な関東の情勢は、それを許さず、
長禄2年(1458)の東下以来、
箱根の山も越えずに、伊豆堀越(現・静岡県伊豆の国市)に長く留まった。
堀越公方と呼ばれる所以である。
それでも、堀越公方政知の登場は、成氏陣営に少なからぬ動揺を与えたが、
同時に上杉方にも混乱をもたらし、情勢を決定づけるには至らなかった。
さらに、文明14年(1482)に締結された義政と成氏の和睦で、
公方の地位は成氏に認められたため、
政知の地位は宙ぶらりんとなってしまった。
妥協案として、政知には伊豆一国の支配権と多少の直轄領のみが与えられ、
堀越御所が政知の終の棲家となった。
政知は、延徳3年(1491)正月頃より病気がちになり、
4月3日、永眠。享年57。
院号は勝幢院、道号は九山、法諱は未詳(『蔭凉軒日録』)。
臨終の際の様子を、伝え聞いた権大納言三条西実隆が日記に記している。
鎌倉殿〈左兵衛督政知、慈照院殿同甲子(年齢)御舎弟〉、
去んぬる四月三日、薨じ給う。
正月より御不食と云々。
…獲麟(死去)の時刻の儀、もってのほかの事どもなり。
すなわち寝殿西方の庭に土葬すと云々。
事の儀、記すに能わず。(『実隆公記』)
実隆は、ふた月ほど経とうという5月28日、
前権大納言冷泉為富から得た情報として、このことを記している。
「もってのほかの事ども(とんでもないことなど)」と、
政知の死に際して、何かただならぬことが起こったかのような書きぶりだが、
具体的なことは、「記すに能わず」と書き留めるのを放棄している。
また、貴人の葬法は、火葬と菩提寺への納骨が一般的であった当時、
すぐさま御所内の庭園に土葬されたというのも、どうにも奇妙である。
早々に埋葬を済ませねばならぬほど、特異な死に方であったのか、
それとも、死去の事実を秘匿せねばならない不安定な状況があったのか。
政知の死に何があったのか、今日に知るすべはないが、
3ヶ月後、政知の長男茶々丸が異母弟潤童子とその母を殺害し、
さらにその2年後には、
政知の次男義高を新将軍に立てた京都のクーデター(明応の政変)に連動して、
伊勢宗瑞が茶々丸を攻めて、伊豆への侵攻を開始した。
政知の不可解な死を合図とするかのように、
関東はさらなる動乱の時代へと進んでゆくことになる。
※本記事の内容は、K氏の情報提供による。記して深謝す。
〔参考〕
『実隆公記 巻2』(1932年) →該当箇所
久保健一郎『列島の戦国史 1 享徳の乱と戦国時代』(吉川弘文館、2020年)
則竹雄一『動乱の東国史 6 古河公方と伊勢宗瑞』(吉川弘文館、2013年)
PR
Comment
ブログ内検索
人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 ~1299
| 1084 | ||
| 1093 | ||
| 1095 | ||
| 1097 | ||
| 1103 | ||
| 1105 | ||
| 1138 | ||
| 1150 | ||
| 1151 | ||
| 1177 | 1178 | |
| 1186 | ||
| 1188 | ||
| 1200 | ||
| 1202 | ||
| 1207 | ||
| 1212 | 1213 | |
| 1225 | ||
| 1227 | ||
| 1230 | ||
| 1234 | ||
| 1242 | ||
| 1245 | ||
| 1250 | ||
| 1257 |
没年 1350~1399
| 1350 | ||
| 1351 | 1352 | 1353 |
| 1355 | ||
| 1357 | ||
| 1363 | ||
| 1364 | 1365 | 1366 |
| 1367 | 1368 | |
| 1370 | ||
| 1371 | 1372 | |
| 1374 | ||
| 1378 | 1379 | |
| 1380 | ||
| 1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
| 1400 | ||
| 1402 | 1403 | |
| 1405 | ||
| 1408 | ||
| 1412 | ||
| 1414 | 1415 | 1416 |
| 1417 | 1418 | 1419 |
| 1420 | ||
| 1421 | 1422 | 1423 |
| 1424 | 1425 | 1426 |
| 1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
| 1430 | ||
| 1431 | 1432 | 1433 |
| 1434 | 1435 | 1436 |
| 1437 | 1439 | |
| 1441 | 1443 | |
| 1444 | 1446 | |
| 1447 | 1448 | 1449 |
| 1450 | ||
| 1453 | ||
| 1454 | 1455 | |
| 1459 |
没年 1460~1499
没日
| 1日 | 2日 | 3日 |
| 4日 | 5日 | 6日 |
| 7日 | 8日 | 9日 |
| 10日 | 11日 | 12日 |
| 13日 | 14日 | 15日 |
| 16日 | 17日 | 18日 |
| 19日 | 20日 | 21日 |
| 22日 | 23日 | 24日 |
| 25日 | 26日 | 27日 |
| 28日 | 29日 | 30日 |
| 某日 |
享年 ~30代
| ~9歳 | ||
| 6歳 | ||
| 9歳 | ||
| 10代 | 10歳 | |
| 11歳 | ||
| 15歳 | ||
| 18歳 | 19歳 | |
| 20代 | 20歳 | |
| 22歳 | ||
| 24歳 | 25歳 | 26歳 |
| 27歳 | 28歳 | 29歳 |
| 30代 | 30歳 | |
| 31歳 | 32歳 | 33歳 |
| 34歳 | 35歳 | |
| 37歳 | 38歳 | 39歳 |
享年 40代~60代
| 40代 | 40歳 | |
| 41歳 | 42歳 | 43歳 |
| 44歳 | 45歳 | 46歳 |
| 47歳 | 48歳 | 49歳 |
| 50代 | 50歳 | |
| 52歳 | 53歳 | |
| 55歳 | ||
| 57歳 | 58歳 | |
| 60代 | 60歳 | |
| 61歳 | 62歳 | 63歳 |
| 66歳 | ||
| 68歳 | 69歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
最新コメント
[05/04 JosephDiply]
[08/26 記主]
[01/18 記主]
[01/16 記主]
[10/20 世良 康雄]
[08/18 記主]
[09/05 記主]
[04/29 記主]
[03/07 記主]
[01/24 記主]
アクセス解析
忍者アナライズ
P R