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死に様データベース
《病死》 《1207年》 《3月》 《29日》 《享年不明》


鎌倉幕府御家人比企朝宗の娘。
はじめ幕府の女房として将軍源頼朝に仕え、
頼朝にことさら気に入られて、「当時権威無双の女房」(『吾妻鏡』)といわれた。
「容顔はなはだ美麗と云々」(同前)とされている。
姫前〈ひめのまえ〉」は、この女房時代の呼び名である。

そのうちに北条義時に見初められ、
一両年にわたって散々文でもって言い寄られた。
姫前は一向に聞く耳をもたなかったが、
頼朝の聞き及ぶところとなり、
離別しない旨の起請文を義時に書かせたうえで、嫁ぐことを命じられ、
姫前は義時に起請文を出させて、
建久3年(1192)9月25日、正妻として義時の邸宅に入った。
義時30歳。
姫前は20歳前くらいだったろうか。
わざわざ起請文を出させたのは、将来に不安があったからかもしれない。

この婚姻には、
幕府の実力者である北条家と比企家の融和という思惑も、
頼朝や両家の周辺にあったとされる。
ふたりの間には、
長男朝時、次男重時、長女竹殿が生まれた。


しかし、
姫前は北条家と比企家の架け橋となれなかった。
父朝宗の義兄弟比企能員が、2代将軍源頼家の外戚として権勢をふるい、
夫の父北条時政と対立したのである。
建仁3年(1203)9月、時政らは能員を謀殺、比企一族を滅ぼした。
義時は、反逆者の一族である姫前を離縁した。

ただし、
ふたりの離縁を、正治2年(1200)5月以前とする説もある。
この月に、義時の側妻が義時の本邸で出産し、
なおかつそれが、大々的に扱われているためである。
とすると、離縁の意味合いも、おのずと変わってこよう。
ただ、いずれにしても、
義時が姫前に言い寄って、結果的に破ることとなる起請文を出した話を、
鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』が、なぜわざわざ記しているのかは、よくわからない。


そののち、姫前は上洛し、
ほどなく源具親の妻となった。
この村上源氏の傍流は、高位高官こそ望めなかったが、
和歌に秀でた一族で、
具親自身も和歌所の寄人に列し、
その妹には、歌人として著名な後鳥羽院宮内卿がいる。

離縁翌年の元久元年(1204)には、
具親との間に、輔通を産んだ。

建永2年(1207)3月にも、姫前は出産したが、胞衣がなかなか下りなかった。
胞衣(えな)とは胎盤等のことで、
胎児の出産後にそれらを娩出する後産が、思わしくなかったのである。
姫前の容態は重篤で、ついにはたびたび意識を失うに至った。
3月28日には、門前まで藤原定家の見舞いを受けたが、
翌29日、逝去した。
30代前半だったろうか。


具親とのあいだの長男源輔通は、
嘉禄2年(1226)11月、幕府の推挙により侍従に任じられ、
またその弟の輔時も、姫前の子とすると、
彼はのち、異父兄にあたる北条朝時の猶子となり、
輔時の息子通俊は、朝時の娘を妻としている。
姫前が産んだ両家の子どもたちは、
姫前の没後もつながりを保ちつづけたのである。



〔参考〕
『新訂増補 国史大系 32 吾妻鏡前編』(国史大系刊行会ほか、1932年)
『冷泉家時雨亭叢書 別巻3 翻刻 明月記 2 自承元元年至嘉禄2年』(朝日新聞社、2014年)
高橋秀樹編『新訂吾妻鏡 4 頼朝将軍記4 頼家将軍記 建久3年(1192)~建仁3年(1203)』(和泉書院、2020年)
安田元久『北条義時〈人物叢書〉』(吉川弘文館、1961年)
森幸夫『北条重時〈人物叢書〉』(吉川弘文館、2009年)
岩田慎平『北条義時―鎌倉殿を輔佐した二代目執権―』(中公新書、2021年)
山本みなみ『史伝 北条義時―武家政権を確立した権力者の実像―』(小学館、2021年)
近藤成一『執権 北条義時〈知的生きかた文庫〉』(三笠書房、2022年)
田端泰子「鎌倉期の離婚と再婚にみる女性の人権」(『日本中世の社会と女性』吉川弘文館、1998年、初出1996年)
石策竜喜「鎌倉武士の婚姻形態についての一試論―男女の出会いの場としての将軍御所の役割を中心として―」(義江彰夫編『古代中世の社会変動と宗教』吉川弘文館、2006年)
小野翠「鎌倉将軍家の女房について―源家将軍期を中心に―」(『紫苑』6、2008年)
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《病死》 《1424年》 《8月》 《28日》 《享年不明》


内裏女房。
藤原氏の一流高倉家の出身かとも推測されているが、出自は未詳。


当初は、伏見宮栄仁親王に仕えてその寵愛を得たらしいが、
のち、内裏に出仕して後小松・称光両天皇に掌侍(内侍司の三等官)として仕え、
たびたび参内する北山殿足利義満にも愛された。
栄仁の子貞成親王には、「吾が継母」のひとりとされている(『看聞日記』)

応永初年ごろには、勾当内侍(掌侍の第一﨟)になっていたとされ、
応永22年(1415)に正五位下、その翌々年には従四位下に昇っている(「叙位除目女叙位文書」、『兼宣公記』ほか)
能子」の名は、これらの叙位にあたって付けられたものだろう。
「能」は父の名の一字であろうか。


能子はその立場上、諸方の事情に通じることから、
伏見宮家と内裏・仙洞・室町殿との橋渡しをつとめた。
郊外に逼塞する伏見宮家にとって、その間の調整にあたった能子の功績は大きい。


応永25年(1418)7月、伏見宮家を巻き込んで起こった内裏女房新内侍の密通疑惑事件は、
その局親(女房の擬制的な親)である能子の身にも及んだ。
称光天皇の怒りを受けた能子は、勾当内侍を更迭されそうになったが、
室町殿足利義持のとりなしでどうにか収まった。
事件の背景には、
皇統をめぐる後光厳流(後小松・称光)から崇光流(伏見宮家)への敵愾心があったとされる。


応永27年(1420)3月上旬、能子は体調を崩した。
はやり病であったらしい。
能子は勾当内侍の座などを、仙洞女房の姪右衛門督局に譲ることを望み、
後小松上皇と室町殿義持より安堵を得た。
3月16日、病身の能子は典侍(内侍司の二等官)に叙され、即日これを辞して落髪した。

また、能子は伏見宮家から、一期分(一代限り)として播磨国比地御祈保(現・兵庫県宍粟市)を与えられていたが、
それを弟の円光院尭範に譲与することを、本所の貞成親王に願い出た。
貞成は、面識のない尭範に所領がわたることに難色を示したが、
翌4月、能子のこれまでの奉公に報いて、尭範一期に限ってこれを許した。
ただ、このころ能子の病気は本復している。

その後、能子は宮仕えに復さず、旧里への籠居を続けた。


能子の不遇は続く。
応永29年(1422)6月、姪の右衛門督局が、ライバルの仙洞女房別当局(東坊城茂子)に勾当内侍の座を逐われた。
自身の籠居と姪の落魄を、貞成親王は「老後の恥辱もっともふびん」と憂い、

 故北山殿(足利義満)の御時、寵愛を蒙り栄幸にあう。
 暫時思い出づるに夢のごとし。天上五衰なげかるるものか。(『看聞日記』)

と述懐を続けている。


応永31年(1424)6月ごろ、能子は再び病を得て、8月、容態を悪化させた。
8月8日、伏見宮家の女房東御方が見舞いに訪れると、「存命不定」の状態だったという。
18日には同じく宮家女房の廊御方が見舞い、「言語分明に昔物語に及」んだが、
食欲はないようで、何もものを口にしなかった(『看聞日記』)

28日、他界。
貞成より年長とすれば、60歳前後だったろうか。
姪右衛門督局への相続は後小松上皇に改めて認められたが、
勅勘は解けぬまま、不遇のうちの死去であった。
貞成が、天人五衰(天人の死に臨んで現れるという五つの兆し)になぞらえたのも、
往時の栄華からの凋落ぶりを思えば、無理なかろうか。
ただし、
その「栄幸」は男性権力者の「寵愛」に依り、
その零落は、天人のごとき麗しさの“衰え”に例えられた。


おばと同じく籠居していた右衛門督局は、ほどなく仙洞への帰参を許された。
所領を譲り受けた弟の尭範は、翌32年(1425)10月、姉を追うように病没した。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』(宮内庁書陵部、2002年)
『図書寮叢刊 看聞日記 2』(宮内庁書陵部、2004年)
『図書寮叢刊 看聞日記 3』(宮内庁書陵部、2006年)
小川剛生『足利義満 公武に君臨した室町将軍』(中公新書、2012年)
松薗斉『中世禁裏女房の研究』(思文閣出版、2018年)
村井章介「『看聞日記』人名考証三題」(『日本歴史』882、2021年)
東京大学史料編纂所データベース
《病死》 《1441年》 《5月》 《27日》 《享年79歳》


正親町三条実継の娘。
伏見宮家の女房。
はじめは「対御方」と呼ばれ、のち「東御方」と改められた。
栄仁親王に仕えて、恵舜ほか4人の王子を産んだが、
いずれもに先立ち、若いうちに喪っている。

応永23年(1416)、栄仁親王が没したのちも、宮家にとどまり、
9歳下の継子貞成王に仕えた。
貞成の長女あごごには「養母」のごとく接したという。


室町殿足利義教の時代になると、
正親町三条家の当主で、東御方には兄弟の曾孫にあたる実雅・尹子兄妹が、
義教の寵愛を受けたことで、
東御方もしばしば室町殿に祗候し、義教と貞成の仲介もなした。

永享7年(1435)に、義教が洛中に伏見宮御所を用意したのも、
東御方が、「狭小」で「荒廃」している当時の伏見御所を脱して、
「みなそろって洛中での生活を望んでいる」と、義教にアピールしたためだったという。
ただし、貞成は、
東御方は耄碌してでたらめなことを言っているのではないか」
と半信半疑でこれを聞いている。


永享9年(1437)2月9日、
義教は正親町三条亭に渡御して、実雅のもてなしを受けた。
会所に飾られた見事な唐絵を見た義教は、
傍らの東御方に感想を求めたが、
軽口のつもりだったのだろう、東御方は悪し様なことを言った。
しかし、相手は恐怖政治の元凶たる義教である。
たちまち激昂した義教は腰刀を抜き、峰打ちで東御方を打擲し、
「二度と目の前に現れるな」と追い出した。
東御方は、伏見の禅照庵に逃げ下った。
このとき75歳。

気分を害した義教は、その後の三条亭での予定を切り上げ、
さっさと室町殿に帰ってしまったという。
「薄氷をふむの儀、恐怖千万」(『看聞日記』)


翌日、義教の妻正親町三条尹子や、貞成の妻庭田幸子のとりなしで、
東御方は、ひきつづき伏見宮家へ祗候することは赦されたものの、
その後はすっかり局に閉じこもり、蟄居同前の生活を送った。


事件から4年後の嘉吉元年(1441)5月下旬、
東御方は健康を害した。
中風と診断された。
すでに容態は悪かったらしく、
25日、万一のことに備えて、
伏見宮御所を退いて、伏見の禅照庵に下った。
局女の宰相だけが供をしたという。
そして、
27日申の刻(夕方4時頃)、ひっそりと息を引き取った。
享年79。
没後のことは、生前の約束により蔵光庵の無相中訓がとりしきり、
翌28日、同庵に葬られた。

ただ、このとき、
東御方が「養母」のごとくかわいがったあごごこと性恵が危篤であり、
父貞成はおろおろするばかりで、
継母の他界については、
「存内といえども、年来の余波、旧労奉公、かたがた哀傷少なからず」(『看聞日記』)
と記すばかりである。


また、
東御方を打ちすえた義教が、「犬死」を果たすのは、
それからひと月のちのこと。



〔参考文献〕
『図書寮叢刊 看聞日記 6』(宮内庁書陵部、2012年)
横井清『室町時代の一皇族の生涯』(講談社学術文庫、2002年)
植田真平・大澤泉「伏見宮貞成親王の周辺―『看聞日記』人名比定の再検討―」(『書陵部紀要』66、2014年)
《病死》 《1447年》 《7月》 《12日》 《享年15歳》


権中納言広橋兼郷の三男。

祖父広橋兼宣は、室町殿足利義持の信任を得てその手足となり、
ついには准大臣に昇るなど、京都政界で権勢を振るった。
父兼郷もその勢いを継いで、
一時は本宗家の日野家家督を襲うほどだったが、
将軍足利義教の勘気を蒙って失脚し、
文安3年(1446)4月、失意のうちにこの世を去った。
長兄春龍丸は父に先だって夭逝しており、
広橋家の命運は、
16歳の次兄綱光と14歳の阿婦丸の、若き兄弟の肩にかかっていたのである。


「大様のもの」(『建内記』)と評されるような、ぼんやりした性格の兄綱光と違い、
阿婦丸の性格は父兼郷に似ていたという。
才気煥発で抜け目がなく、人を圧するような面があったのだろうか。
人々は阿婦丸を怖れたという。

中年の後花園天皇はこの阿婦丸の才能を愛したようで、側近くに仕えさせた。
阿婦丸は連日のように内裏に祗候し、
兄の綱光も阿婦丸に、天皇への取り次ぎを求めている。


文安4年(1447)、
室町幕府政治の混乱と、おりしもの天候不順などで、
京都近郊では土一揆が頻発していた。
さらに「三日病」とよばれる咳病も流行し、社会は混迷の度を増していた。

6月半ば、綱光・阿婦丸兄弟もこれに罹った。
綱光はほどなく癒えたものの、阿婦丸はついに癒えず、
翌7月12日、わずか15歳で世を去った。

同日、同じく後花園天皇に近仕していた高倉永知も、18歳で死去している。


4か月後の11月16日、
後花園天皇は、典侍綱子(阿婦丸の伯母)の申し出もあって、
阿婦丸の詠歌を宸筆で書き留め、その末尾に次の御製を記した。

 わかのうらに跡のみ残るもしほ草 かきあつめてもぬるゝ袖かな

阿婦丸亡きあとの悲しみのほどがしれようか。

これを聞いた兄綱光は、
「面目のいたりであり、
 過分のほどはなかなか申し上げようもない。
 とくに御製をいただいたことは、格別である。
 阿婦丸も眉目のいたりと、さぞありがたく思ったことだろう。」(『綱光公記』)
と喜び、
「猶々殊勝々々、思出泪落袖々々々、」(同上)
と偲んでいる。


もし阿婦丸が長命であったら、
室町時代政治史はいかばかりか変わっていたろうか。



〔参考〕
『大日本古記録 建内記 9』(岩波書店、1982年)
『史料纂集 師郷記 第4』(続群書類従完成会、1987年)
遠藤珠紀・須田牧子・田中奈保・桃崎有一郎「史料紹介 綱光公記―文安三年・四年暦記」(『東京大学史料編纂所研究紀要』20、2010年)
《病死》 《1476年》 《6月》 《15日》 《享年48歳》


西行の和歌、
 ねがはくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ
にもあるように、
中世の人々は、
15日の夜、つまり満月の夜に往生することを願った、という。


前内大臣日野勝光も、15日往生を求めたひとりだった。

日野流の分家裏松政光の嫡男として生まれた日野勝光の幼少期は、
祖父義資の横死や宗家の有光の失脚、有光の子資親の処刑など、
日野家受難の時代であった。
勝光は、廃絶した日野宗家の家督を継いで、その再興を果たすと、
やがて受難の時代は去り、
勝光は順調に昇進したばかりでなく、
妹富子が、8代将軍足利義政の正室、9代将軍義尚の母、
さらに、娘が義尚の正室となり、
将軍家の外戚という、かつての日野家の位置を取り戻した。
そればかりか、
応仁・文明の乱という政治の混乱期にも暗躍し、
足利義政・義尚の側近くにあって、大いに権勢をふるった。
蓄財もすさまじく、
「和漢の重宝を山岳の如く集め置」(『長興宿祢記』)いた。


文明8年(1476)4月下旬、
勝光は「雑熱」(『親長卿記』『実隆公記』)に冒されていた。
原因は、「腫物癰」(『長興宿祢記』)だったらしい。
医師は大事ないと診断したが、容体は悪化の一途をたどったようで、
5月10日頃には、「難儀」(『親長卿記』)、「危急之体」(『実隆公記』)となり、
娘の富子が父のもとに駆けつけた。
14日には、平癒のため陰陽師によって泰山府君祭が行われている。

この頃から、勝光は死への準備を着々と進めている。
往生のことや葬儀のことなどを、あれこれと差配し、
300貫という多額のお布施を準備している。
また、5月16日には、日野家ではじめて左大臣に任じられた。
日野家の家格では、本来左大臣に昇ることはできないが、
足利将軍家の執奏によって、はじめて実現したのである。


6月に入ると、病状は一時安定し、食欲も回復したようだが、
8日夕、医師竹田昭慶の処方した薬を服用したところ、
たちまち容体は一変した。
勝光は、
 もし今回の病で命ながらえるようなことがあれば、竹田昭慶の子孫は医師をやめよ(『雅久宿祢記』)
と、周囲に言い散らしていたといい、
勝光の病状安定に慌てた昭慶が毒を盛った、との噂が流れた。
勝光の発言の真意はよくわからないが、
入念な往生の準備に水を差されることが、嫌だったのだろうか。

10日、「腫物」は病勢を増し、
ついに勝光は、目の前の人を認知することすらできなくなった。
11日には、視線を交わす程度のことはできたようだが、
14日に、義政・富子・義尚一家が見舞いに訪れたのを、理解していたかどうか。


かくして、6月15日未明、
知恩寺の僧4、5人が念仏を勧めるなか、
南枕で西を向いて横たわり、8歳の嫡男政資が水を供える前で、
勝光は息を引き取った。
享年48歳。
年来勝光は、15日に往生したいと願っていたという。
「不思議の事なり。」(『親長卿記』)

なお、供水は死後に行うことだが、
幼い政資が「死面」(『雅久宿祢記』)を怖がったため、
勝光が眠っているときに行ったのだという。

明け方、遺体は知恩寺に移され、
19日辰の刻(朝8時頃)、葬儀が行われて、
同寺法誉上人の沙汰により、千本歓喜寺に土葬された。
院号は、遺言により「唯称院」。
所領の分配はこれも遺言により、吉田兼倶に一任された。


朝儀の停滞を避けるため、
公家全般は、触穢としない旨が通達されたが、
当然ながら、日野一家の人々は触穢とされた。
ただし、日野家のうちでも柳原量光のみは、
父資綱が神事にかかわる関係から、触穢とされていない。
義政は、乙穢(穢れの及ぶ範囲に関する等級のひとつ)とされている。


大乗院尋尊は、
勝光が左大臣に任じられてから、30日に満たずに死んだのを、
「希有の神罰」(『大乗院寺社雑事記』)と酷評している。
敵の多い人生ではあっただろうけれど、
これはいささか言いがかりのような気がしなくもない。



〔参考文献〕
黒田智「弘法大師の十五夜―願われた死の日時―」 (藤巻和宏編『聖地と聖人の東西―起源はいかに語られるか―』勉誠出版 2011年)
『大日本史料』第8編之8 (東京大学出版会 1970年)
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