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死に様データベース
《自害》 《1408年》 《5月》 《25日》 《享年不明》


慧春尼は南北朝末期から室町初期のひとだが、
その生涯は、江戸時代に編まれた高僧の伝記集、「重続日域洞上諸祖伝」巻2「日本洞上聯灯録」巻4に詳しい。
多分に伝説化している面もあろうが、
以下、これによりつつその事績をたどりたい。

*****以下、性的加害の描写があります。閲覧に十分ご注意ください。*****


曹洞宗の尼僧。
相模の糟谷氏出身。
兄は、相模足柄の大雄山最乗寺(現・神奈川県南足柄市)を開いた了庵慧明。


類いまれな容姿をもっていた慧春は、俗世に生きることを好まず、
30歳を過ぎるころ、兄了庵に師事して出家しようとした。
しかし、了庵は、
「出家は大丈夫(成人男性)のなすことであり、
 女子供は、自律できずに流されやすい。
 安易に女人を出家させて、法門を汚す者が多い」
の望みを却けた。
そこで慧春は、焼けた火箸を自らの顔に押し当てて容貌を変じ、再び出家を望んだ。
そのため、了庵はやむをえず出家を認めた。

慧春は大雄山で禅に励んで了庵の印可を得、やがてその力量を広く知られるようになった。


あるとき、了庵が鎌倉円覚寺に使者を派遣しようとしたところ、
弟子の男僧たちは、エリートの円覚寺僧との禅問答を嫌がって行こうとしなかった。
そこで、慧春が使者の役を買って出て、鎌倉へ赴いた。

慧春の俊英ぶりを知っていた円覚寺の僧たちは、虚を突いてその気を挫こうと企て、
ひとりの男僧が石段の途中で慧春を待ち構えた。
やってきた慧春に、その僧は衣の裾をからげて「陰を怒らせて」立ちふさがり、
「老僧の物三尺」
と言った。
そこで慧春もすかさず衣の裾をからげて、「牝戸」を開いて見せながら、
「尼の物底なし」
と応じた。
僧は恥じ入って、どこかへ退散してしまった。

山上に至り、住持に対面すると、
侍者が手洗い用の鉢に茶を点てて持ってきた。
慧春は動じず、
「これは和尚の日用の茶碗でしょう。どうぞお飲みください」
と返した。
住持は答えに窮し、応じえなかった。

これらの問答により、慧春の名望はさらにあがったという。


火箸で顔を焼いたとはいえ、慧春の容貌に心を動かすものは少なくなく、
あるとき、ひとりの男僧が慧春に「その情」を密かに告げ、「その欲」を遂げることを求めた。
慧春は「たやすいことだ」と応じ、ただ約束を違えないよう伝えたため、
その僧は「願いを聞き届けてくれるなら、湯火も辞さないどころではない」と喜んだ。
ところが、
ある日、師の了庵が堂に僧衆を集めたおり、
慧春は一糸まとわぬ「赤赤裸裸」の姿で「傲然」と現れ、
声高にその僧を呼び、
「汝と約あり。すみやかに来りて我につき汝の欲をほしいままにすべし」
と言った。
仰天したその僧は、ほどなく寺から逐電した。


慧春は晩年、大雄山の麓に摂取庵という庵をむすび、往来の人々に応対したという。


応永15年(1408)5月25日、
慧春は大雄山の三門前の盤石に、薪を積んで柴棚を作り、
自ら点火して火焔のうちに入滅した。
火と煙の勢いが増していくおり、兄で師の了庵が「熱いか」と尋ねると、
燃えさかる炎のなかで、慧春は声をあげて次のように答えたという。

 冷熱は生道人の知るところに非ず。

そうして、慧春は平然として火焔のなかで遷化し、
人々はその遺骨を拾って摂取庵に塔をつくり、弔ったとされる。
大雄山最乗寺の境内の片隅には、今も慧春尼堂が建っている。


慧春が生前、男僧から受けた仕打ちの数々は、慧春の高潔さを示す挿話として描かれているが、
その実、寺院という男性社会において女性が活動することの困難さを表している。
近世の創作だとしても、近世の寺院社会におけるジェンダー観を示すものにほかならない。
そもそも優れた容貌の持ち主だったというのも、
これら暴力の要因を慧春に転嫁し、
男僧の加害を“しかたのないもの”と見せるための方便に過ぎない。
その容貌を自ら傷つけたのも、
そこまでしなければ女性の決心が伝わらないという、コミュニケーション上の格差や、
女性は男性の宗教活動を妨げる存在であり、主体たりえないという、立場の断絶など、
性差別を克服するために取らざるをえなかった行為とされている。
慧春は、挿話に描かれるとおり強く賢かったからこそ、
男性中心の寺院社会でも生き延び、大悟しえたのかもしれないが、
彼女を取り巻いていたものの異様さにこそ、目を向けざるをえない。



〔参考〕
仏教刊行会編『大日本仏教全書』110(仏教刊行会、1914年)
藤谷俊雄「慧春尼伝」(『日本史研究』39、1958年)
三山進『太平寺滅亡―鎌倉尼五山秘話』(有隣新書、有隣堂、1979年)
前田昌宏『慧春尼伝』(献書刊行会、1988年)
東隆真『禅と女性たち』(青山社、2000年)
瀬野美佐「顔を灼く女たち―慧春尼伝説に見る性のアンビバレンツ―」(『教化研修』47、2003年)
西山美香「顔を焼く女たち」(奥田勲編『日本文学 女性へのまなざし』風間書房、2004年)
竹下ルッジェリ・アンナ「ジェンダーに対する江戸時代の臨済宗―白隠禅師を中心として―」(南山宗教文化研究所『研究所報』31、2021年)
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《病死》 《1227年》 《11月》 《4日》 《享年不明》


北条時政の娘、政子・義時の姉妹。

源頼朝の異母弟阿野全成の妻となり、頼朝・政子とは兄弟姉妹どうしで夫婦だった。
建久3年(1192)8月、
阿波局は生まれたばかりの甥千幡(のちの源実朝)の乳母に選ばれ、
将軍御所に伺候した。


建仁3年(1203)5月、
夫の全成は、甥の2代将軍源頼家に謀反の罪を着せられ、流罪のうえ殺害される。
このとき頼家は、その妻阿波局も尋問しようとしたが、
政子が、
「このようなことを女性に関知させるべきでない」(『吾妻鏡』)
と庇ったため、御所への奉公を続けた。

それ以前の正治元年(1199)冬に、阿波局は、
御家人結城朝光へ梶原景時の讒言を忠告して、景時失脚のきっかけをつくり、
建仁3年(1203)9月には、
新将軍実朝の近くに、父時政の後妻牧の方がいるのは不穏当だ、と姉政子に進言し、
実朝を政子邸へ引き取らせている。
将軍家の乳母として、また政子の姉妹として、
彼女が幕政に少なからず影響力をもっていたことがうかがえよう。


建保7年(1219)正月、実朝は、甥の公暁に殺害され、
翌月、阿波局の息子阿野時元は将軍の座を狙って挙兵し、
叔父の執権北条義時に討たれた。
乳母子と実子をほぼ同時に喪った阿波局は、
その後も御所へ仕えたとおぼしい。


安貞元年(1227)11月4日、卒。
60歳前後だったろうか。
執権北条泰時は、重臣尾藤景綱の家に移り、
叔母のため30日間喪に服した。



〔参考〕
『新訂増補国史大系 第33巻 吾妻鏡 後篇』(国史大系刊行会ほか、1933年)
田端泰子『乳母の力 歴史を支えた女たち』(歴史文化ライブラリー、吉川弘文館、2005年)
《病死》 《1368年》 《8月》 《2日》 《享年58歳》


史料上に「愛甲三品夫人」とのみあるが、
夫の「愛甲三品」(「三品」は三位の意)は、鎌倉公方の近習であることのほか未詳。
横山党の愛甲氏は、鎌倉時代に滅んでおり、
相模国愛甲荘(現・神奈川県厚木市)を領した足利氏の一門か譜代被官にあたろうか。
(あるいは、「三品」は「三刕(三州)」=三河守の誤写だろうか。)
夫人の出自等はなお不詳である。


愛甲三品夫人は、高僧夢窓疎石に就いて受衣するなど、生前より禅宗に傾倒し、
鎌倉でも夢窓の弟子義堂周信と親しくしていた。
応安元年(1368)8月2日、
病の篤くなった夫人は、義堂の来訪を受け落髪を求める、という夢を見た。
目覚めてから急ぎ義堂を呼んだが、落髪するには間に合わず、
臨終の際に、義堂から次のように問われた。

 汝は日ごろから、国師(夢窓疎石)が示していた即心即仏の公案に取り組んできた。
 今、それを会得し、境地を得たか。

「即心即仏」とは、
「衆生のいまの心がそのまま仏であること。心の体は仏と異なるものでない、ということ」(『仏教語大辞典』)
という。
この問いに夫人は頷いて、卒した。
享年58。


5日、愛甲氏の菩提寺、愛甲郡津久井の宝積寺(のち光明寺、現・相模原市)で葬儀が行われ、
義堂が火葬を取り仕切った。
法名は「如転禅尼(『義堂和尚語録』巻第3)とされる。



〔参考〕
蔭木英雄『訓注 空華日用工夫略集―中世禅僧の生活と文学―』(思文閣出版、1982年)
川本慎自「光明寺と二つの宝積寺」(『特別展 津久井光明寺 知られざる夢窓疎石ゆかりの禅院―2つの宝積寺を訪ねて』神奈川県立金沢文庫、2015年)
SAT大正新脩大藏經テキストデータベース
《病死》 《1342年》 《12月》 《23日》 《享年74歳》


上杉頼重の娘。
父の奉公先である足利家に仕え、
嘉元3年(1305)、36歳の年、当主貞氏との間に、息子高氏を、
その翌々年、次男高国を産んだ。
貞氏には別に正妻がおり、その間には嫡男も生まれていたが、
その嫡男が早世してしまったことから、高氏が足利家の跡取りとなり、
清子も当主の母となった。

いわずもがな、
その高氏こそ、室町幕府初代将軍足利尊氏その人であり、
次男高国改め直義が、草創期足利政権の立役者であることも、多言を要すまい。
清子はその二人の母として、「大方殿」「大方禅尼」と呼ばれ、
丁重に遇された。
あわせて、清子の兄憲房や甥の重能・朝定・憲顕らも、政権中枢で活躍し、
上杉氏繁栄の礎をなした。


60代半ばを過ぎての身辺の急変を、
清子はどのように受け止めたのだろうか。
当時の史料からは、
清子が京都錦小路に居を構え、
宣政門院(後醍醐の娘、光厳院室)らと交わり、
宮廷歌壇にもかかわったことがうかがえる。

また、建武5年(1338)5月27日付けの清子書状では、

 5月22日、天王寺(大阪市天王寺区)と和泉堺(堺市堺区)で、
 陸奥国司北畠顕家が討たれ、その首級が京都に運ばれました。
 この合戦に、八幡神や住吉大神のご加勢があったことは明らかで、
 不思議なことに、船が6艘も焼けて沈んだそうです。
 ひとえに神々の思し召しであるでしょう。
 今後もたのもしい限りです。
 …細川兵部少輔(顕氏)と武蔵守(高師直)の高名とのことで、
 南朝の紀伊の軍勢も敗走したそうです。
 この2人だからこそのことでしょう。(「上杉家文書」)

と、畿内の戦況を伝えている。
関東にいる親族の上杉一族に宛てたものと思われ、
女性が合戦のようすを伝えた、珍しいものとされている。
都鄙の連絡に、清子も重要な役割を果たしていた、といえようか。


康永元年(1342)12月23日、京都にて病没。
74歳とされる。
法名は雪庭
はじめ等持院殿と追号されたが、
その後、この号は息子尊氏に転用され、
清子果証院殿と改められた。
法要には、竺仙梵僊など名だたる高僧が列した。

北朝では、喪に服して30日間雑訴を停止し、
正月行事の節会も、鳴り物を中止した。

将軍実母の死去に、
各地の足利方諸将も、弔問に上洛したらしい。
ただ、越後出陣中の甥憲顕は、戦陣を離れることができず、
代わりに嫡男憲将を上洛させて、主君直義に慰められている。
南朝方は、足利方の動きが鈍くなったこの機を逃すまいと、
特に、奥羽での動きを活発化させており、
越後ではその対応のため、緊迫した状況が続いたようだ。


翌年3月、
清子に従二位が追贈された。

貞和4年(1348)、七回忌に行われた等持院の法華八講も、
佐々木導誉・二階堂時綱・長井広秀以下幕府の重臣5名が奉行をつとめるなど、
盛大に行われた。


没後に編纂された勅撰集『風雅和歌集』には、
次の清子の歌が収められている。

 空にのみ散る計りにて今日幾か日をふる雪の積らざるらん



〔参考〕
東京大学史料編纂所データベース
清水克行『〈人を歩く〉足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013年)
山家浩樹「無外如大と無着」(『金沢文庫研究』301、1998年)
GERHART Karen M., "Reconstructing the Life of Uesugi Kiyoko", Japan review: Journal of the International Research Center for Japanese Studies, 31(2017)
《病死》 《1433年》 《閏7月》 《13日》 《享年39歳》


足利義満の娘。
母は寧福院(源春子)。
大慈院門主。

父義満の寵愛を受けた栄山聖久(幼名未詳)は、
父の正妻日野康子の猶子となったのち、
崇賢門院(広橋仲子、後光厳院室、後円融院母)の猶子となり、
その遺産を継ぐことが約束された。
北山殿の愛娘として、貴族社会でも厚く遇され、
ふたりの養母の没後は、
予定どおり、康子の邸宅南御所と、崇賢門院が建てた大慈院を継承し、
「南御所」あるいは「大慈院殿」と呼ばれた。

尼門跡となった大慈院には、
聖久とその同母妹聖紹以下、将軍家の娘が入れられ、
聖久には姪にあたる、義持の娘と義教の娘も、
それぞれ聖久の弟子として入寺した。
ただし、このうち義教の娘は、
永享3年(1431)に3歳で夭逝してしまっている。


永享5年(1433)秋、痢病に苦しんでいた聖久は、
閏7月初旬ごろから危篤に陥り、
13日朝、息を引き取った。
39歳。

当時の室町殿は、聖久の異母兄足利義教である。
本来ならば、室町殿の妹が身罷ったということで、
諸人が弔問に訪れるところだが、
入寺していた義教の娘が夭折していたことで、
兄妹の関係は微妙なものになっていたらしい。
そのため、義教はもとより、ほかの兄弟たちも弔問に赴かず、
生前の盛んなころに比べれば、実に寂しい没後であった。
義教の命令により、中陰も早々に切り上げられたという。


大慈院の所領は、3,000貫分と莫大なものであり、
その継承のゆくえも注目されたが、
義教の命を待つこととなり、
結局、聖久の妹聖紹ののち、義持の娘が継いだようである。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 4』(宮内庁書陵部、2008年)
臼井信義『足利義満〈人物叢書〉』(吉川弘文館、1960年)
湯之上隆「足利氏の女性たちと比丘尼御所」(『日本中世の政治権力と仏教』思文閣出版、2001年)
小川剛生『足利義満 公武に君臨した室町将軍』(中公新書、2012年)
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