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死に様データベース
《病死》 《1526年》 《4月》 《13日》 《享年48歳》


従一位・権大納言庭田雅行の娘。
母は「院庁」(『二水記』)とあるが、未詳。
内裏女房、新典侍局。


文明11年(1479)、権大納言庭田雅行とその妻の間に生まれたは、
鬢そぎ(成人)を済ませた16歳の年、
明応3年(1494)のころより、後土御門天皇の第一皇子勝仁親王に仕えて、
御愛局と呼ばれ、
明応9年(1500)10月、勝仁親王が践祚(後柏原天皇)すると、
従五位下に叙されて典侍に任じられ、源子(もとこ)と名付けられた。
このとき、同僚の御阿茶局(勧修寺教秀の娘)も、従五位下・典侍となり、
藤子と名付けられている。
どちらの名前も文章博士東坊城和長の撰進だったようだが、
源姓の者に源子、藤原姓の者に藤子とは、ずいぶん安直な名付けである。

そうして典侍として後柏原天皇に仕え、新典侍局と呼ばれた源子は、
御室門主覚道法親王、大慈光院覚音尼、梶井門主彦胤入道親王の皇子女を産んだ。

永正18年(1521)には、新大納言典侍藤子とともに正五位下に昇っている。


源子は、大永5年(1525)冬ごろより健康を損じた。
しばらくは宮中に祗候し、
翌大永6年(1526)2月25日には、宮中で三条西実隆の見舞いを受けているが、
一向に快方に向かうようすは見えず、
3月5日、内裏を退去した。
実家の庭田家に戻ったと思われるが、父母はもとより兄重経もすでにこの世になく、
縁続きの中山家出身の重親が庭田家を継いでいた。
源子にとって、落ち着ける場所であったかどうか。
あるいは、3年前に母が没したときと同様、
娘覚音尼がいる大慈光院に移ったのかもしれない。

その後も源子は医師の診察を受けるなどしたが、
11日に実隆が再度見舞った際には、
「もってのほかに憔悴のてい」(『実隆公記』)であった。
14日には、前権中納言鷲尾隆康や息子の彦胤入道親王の見舞いを受けている。

ところが、ほどなくして今度は後柏原天皇の体調が悪化した。
もともと「積聚」(癪)の持病があったが、
昨年より食欲が落ち、医師たちの治療や護持僧たちの祈祷もむなしく、
3月下旬には、何も口にできなくなった。
4月5日、後柏原天皇は危篤に陥り、このときはしばらくして意識を取り戻したが、
翌6日、再び意識を失い、やはりほどなく回復したものの、
玉体は畳に乗せられて、小御所北の間に移された。

そうして、源子が内裏を退去してからひと月ほど後の4月7日、
後柏原天皇は崩御してしまった。63歳。
翌8日、源子は落髪。
そして、天皇の初七日が行われる4月13日の卯の刻(朝6時頃)、
源子もこの世を去った。享年48。
「所労数十日、よって久しく竜顔を拝されず、ついに薨ぜらる。
 哀れなる哉、哀れなる哉。」(『二水記』)
源子は天皇の死に目にはあえなかったが、
まさしく跡を追うような逝きかたをしたのであった。

戒名は西松妙忍禅定尼とされ、速成就院に葬られた(『厳助大僧正記』『実隆公記』)
6月、従二位が贈られている。


いっぽう、御阿茶局改め新大納言典侍こと勧修寺藤子は、
源子に遅れること17日、4月25日にようやく落髪。
新帝後奈良天皇の生母として、従三位に叙され、
5月には、准后宣下を受けた。


〔参考〕
松薗斉「戦国時代の禁裏女房(一)―上級女房―」(『中世禁裏女房の研究』思文閣出版、2018年、初出2015年)
『大日本古記録 後法成寺関白記 3』(岩波書店、2007年)
『大日本古記録 二水記 3』(岩波書店、1994年)
『実隆公記 巻6下』(続群書類従完成会、1962年)
「厳助大僧正記上」『続群書類従 第30輯上』(続群書類従完成会、1925年)
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《自害》 《1447年》 《某月》 《某日》 《享年15歳》


二階堂治部大輔の娘、二階堂為氏の妻。
同時代史料で存在を確かめられる人物でないが、
陸奥南部の領主須賀川二階堂氏の興亡を描いた軍記物『藤葉栄衰記』などから、
その三千代姫をめぐる物語を見てみたい。


藤原姓二階堂氏の一族で、陸奥国岩瀬郡(現・福島県中通り中南部)を所領とする一流は、
当主が鎌倉で鎌倉公方に仕えつつ、
一族が須賀川(現・同須賀川市)に入って岩瀬郡を治めていた。


この岩瀬二階堂氏は、永享の乱で鎌倉公方足利持氏に与し、一時没落の憂き目を見たが、
嘉吉3年(1443)、二階堂為氏がわずか12歳で当主となり、
家の存亡はその幼い双肩にかけられた。
ところが、
須賀川に入っていた一族の治部大輔は、本家の為氏を軽んじて専横を重ね、
鎌倉への年貢運上も怠ったうえ、新たな課役を勝手にかけるなど、
領民からの搾取も行ったという。
為氏は、叔父の民部大輔を須賀川に派遣し、治部大輔を詰問させたが、
民部大輔はかえって丸め込まれ、治部大輔に饗応を受ける始末だった。
そればかりか、
治部大輔の妹で「容色世にすぐれ、嬋媚類いなかりける」といわれた千歳御前を妻に迎え、
すっかり本来の責務を忘れるありさまだった。

治部大輔の驕慢さはとどまることを知らず、
ついに、為氏みずから須賀川に下り、治部大輔を譴責することとした。
文安元年(1444)3月、為氏は一族・宿老以下400余騎を引き連れて鎌倉を発ち、
岩瀬に着いて、須賀川に討ち入ろうとしたが、
治部大輔も防備を固めていたために攻めあぐね、
南東方の和田城に留まらざるを得なかった。
治部大輔も、いまさら降伏したとて命はないものとわかっており、
必死の抵抗をしたのである。


治部大輔には、12歳になる愛娘がいた。
これまた「楊貴妃・西施も粧を恥じん容顔美麗にして、世に並びなし」といわれ、
また書や歌にも通じ、孝心も愛敬も廉直さも備えた娘だったという。
『藤葉栄衰記』にその名は示されていないが、
所伝によれば三千代姫といったという。
二階堂家のゆくすえを危ぶんだ宿老たちは、
この三千代姫を為氏の正妻とし、
為氏と治部大輔を聟・舅の間柄とすることで、
争いを収めようと画策した。
岩瀬郡の周辺には侵食を狙う勢力もあり、
いつまでも内輪もめを続けているわけにはいかなかったのである。

為氏も治部大輔もこの提案を受け入れ、3年の後、ようやく為氏と三千代姫の婚儀がなった。
『藤葉栄衰記』は、祝言に臨んだ三千代姫の姿を、
  帳の隙よりこの御前の御容を密かに見たてまつるに、
  漢の李夫人を写せし画も、是を画かば、ついに筆の及ばざることを怪しみ、
  一度笑める眸には、金谷千樹の華、薫りを恥じて四方の嵐に誘われ、
  風に見たる容貌は、銀漢万里の月も、粧いを妬みて五更の霧に沈むべし
     (読み下し、一部修正)
と、『太平記』「北野通夜物語事」の楊貴妃をたたえることばそのままに、褒めそやしている。
為氏も三千代姫にすっかり心を許し、ふたりは睦まじく暮らしたという。
文安4年(1447)頃のこと。為氏は16歳、三千代姫は15歳であった。


ところが、
治部大輔は岩瀬郡を為氏に明け渡して隠居するという約束を反故にし、
須賀川城に居座って為氏を軽んじ続けた。
為氏は三千代姫を慮って、強硬策をとらなかったが、
為氏の宿老たちは、国を傾けた楊貴妃や西施の例をあげ、
三千代姫を須賀川に送り返して、治部大輔を追討すべきだと主張した。
彼らの必死の諫言に、為氏もついに了承し、
三千代姫を離縁して、宗像越中らの使者を添えて須賀川へ送り出した。

その動きを察知していた治部大輔も黙ってはいない。
道中の岩間あたりに兵を潜ませて、一行を襲わせた。
伏兵は、使者の倭文半内・宍草与市郎らを討ち取り、護衛の兵たちを逃げ散らせた。
だが、にわかの落雷に遭って、三千代姫を確保せずに須賀川に逃げ帰ってしまった。
三千代姫の乗った輿は、
須賀川城手前の栗谷沢(「暮谷沢」)のあたりに打ち捨てられた。


三千代姫は、須賀川へ向かうことも和田へ戻ることもせず、
ここで自らの死を覚悟したという。
お付きの女房たちを呼び寄せ、
「この唐鏡は母へ、金泥観音経と阿弥陀経は父治部大輔へ、
 藤原定家筆の古今和歌集と伊勢物語は、おばの千歳御前へ」
とそれぞれ形見を託し、
手箱や小袖なども女房たちに分け与えた。
また、譜代の岩桐藤内左衛門に懐中の守刀の粟田口吉光を与え、
自分の命日に拈香を捧げてくれるよう頼んだ。
女房や乳母たちは涙にむせび、三千代姫に殉じようとしたが、
「独り来たり独り帰る道なれば、伴うことなし。死して益なきことなり。
 汝らおのおの命を全うして、須賀川へ行きて形見の物を捧げて、
 かくのごとき有り様をも申し、
 念仏の一返も回向して、後世を弔わんこと第一の忠孝なるべし。」
三千代姫にとどめられた。
まもなく、輿のうちより「南無」と唱える声がかすかに聞こえたかと思うと、
三千代姫は脇差しを自らの体に突き立てて自害した。
輿のうちには、

 思ひきや問はば岩間の涙橋ながさで暇くれやさわとは
 (「人問はば岩間の下の涙橋流さでいとま暮谷沢とは」とも)
 限りある心の月の雲晴れて光とともにいる西のそら

という辞世の二首が記されてあったという。

三千代姫の死を見届けた乳母は、
三千代姫が自刃に用いた脇差しを口に含んで自害を図ったが、果たせず、
肩に突き立て直して絶命した。
それを見た岩桐藤内左衛門は、
「女儀なれども自害の様こそ清けれ。
 我男と生まれ、いかでか女の心に劣るべし。
 たといこのたび命生きて、須賀川の御城に立て籠もり、
 為氏公の御勢に向かい、比類なき働きを仕りたりとも、
 我何の面目あって、人に面を見することを得ん。
 人たとい言わずとも、我独り心に愧じず。
 また心も発さぬ出家入道も見苦しかるべし。
 今は浮世に思い置くことなし。」
と思い直し、声高に念仏を十遍唱えて、腹を十文字に搔き破り、
さらに喉を搔き切って、座ったまま絶命した。

取り残された女房たちは、泣く泣く形見の物を抱えて須賀川に行き、
三千代姫と乳母と藤内左衛門の自害のさまを報告した。
このことは和田城にも伝わり、為氏はひどく消沈したという。
為氏と治部大輔の抗争が本格化するのは、まもなくのことであった。


冒頭でも述べたとおり、
いずれも同時代史料から確認できる話ではなく、
為氏や三千代姫の存在すら定かでない。
これらを伝える『藤葉栄衰記』は、二階堂家旧臣のうちの所伝をもとに、
近世初期までに成立した作品とされる。
三千代姫や千歳御前の容貌をことさら取り上げる語り口。
夫為氏に離縁され、父治部大輔にも厄介者扱いをされ、挙げ句に雑兵に置き捨てられて、
よすがを失い、死を選ぶほかなかった三千代姫の絶望。
「男に生まれて女に劣ってなるものか」という岩桐藤内左衛門の観念や虚栄。
いずれも中世末期から近世初期のジェンダー観をたしかに映している。

須賀川市栗谷沢には、三千代姫を弔う三千代姫堂が建っている。




〔参考〕
『続群書類従 第22輯上』(続群書類従完成会、1943年)
『須賀川市史 中世―二階堂領時代―』(福島県須賀川市教育委員会、1973年)
垣内和孝「須賀川二階堂氏の成立」(『室町期南奥の政治秩序と抗争』岩田書院、2006年、初出2005年)
《誅殺》 《1400年》 《11月》 《29日》 《享年不明》


少将。歌人。
父は『新後拾遺和歌集』の撰者権中納言為重。


俊成・定家に始まる御子左家は、
やがて、嫡流の二条家、庶流の京極家・冷泉家に分かれながら、
鎌倉時代に和歌の家として栄えた。
二条為右は、二条家の傍系に属するが、
父為重ともども、その力量により、南北朝期の京都の歌壇で重きをなした。

以下、為右の顛末については、小川剛生氏の論考に詳しい。


応永7年(1400)11月頃、
為右は、明国出身の女性テルと密通し、妊娠させた。
テルは、北山殿足利義満に仕える女房であったらしい。

露顕を恐れた為右は、
所領の近江国小野荘(現滋賀県彦根市)に産所を設けたといって、テルを連れ出し、
自身も公家らしからぬ変装をして、ともに京都を出た。

ふたりが、琵琶湖南端にかかる勢多橋(現滋賀県大津市)にさしかかったところ、
為右は突如、テルを湖に突き落とした。
為右は、当初よりそのつもりで、
テルを殺害することで、事態の隠滅を図ったのだろう。


ところが、悪事は思うようにはいかない。
テルは旅人か漁師かに救助され、一命をとりとめたのである。
テルは、日頃から経を読むなど、崇仏の行いが篤かったといい、
溺れている際に、何者かに口と耳をつかまれ、
「命ばかりは助くべし」(『吉田家日次記』)
と言われ、やがて意識を失ったという。
人びとは、仏が化現したものだと噂し合った。


ともかく、
これにより事の顛末は露顕し、
人びとは「先代未聞の所行」(『吉田家日次記』)為右を指弾した。
当然ながら、北山殿義満の耳にも入り、激怒させた。

11月20日、
為右は侍所所司代浦上助景のもとに拘留され、
佐渡国へ配流されることとなり、
佐渡守護上野民部大輔入道に引き渡された。
護送中の近江西坂本辺にて、誅殺。
父為重の年齢からすると、40~50歳代あたりとなりそうだが、
官位からすると、今少し若かったであろうか。
なお、当時は、
流人は護送中に殺害されるのが常であり、
流罪は、実質的に死罪を意味していた。


思慮の浅い悪行による当然の報いのようにも思うが、
密通により武家が公家を死罪に処した例は、古今に例がなかったという。
「造意の企て、常篇に絶え、罪責遁るるに所無き事か。
 然りと雖も、当時道(歌道)の宗匠たり。
 死罪もっとも不便(ふびん)か。」(『吉田家日次記』)

テル誘殺の口実に使った近江国小野荘は、
一門の冷泉為尹に与えられた。
為尹の子持為(はじめ持和)が密通・殺害事件を起こすのは、
また別の話。


ちなみに、
為右の父為重は、夜討に襲われ横死、
祖父為冬は、南北朝内乱で戦死。
和歌の家ではありながら、
いや、政治性を色濃く有する和歌の家であるゆえか、
3代続けて、安泰な死に方はしていない。



〔参考〕
小川剛生「為右の最期―二条家の断絶と冷泉家の逼塞」 (『中世和歌史の研究』 塙書房 2017年)
小川剛生『足利義満―公武に君臨した室町将軍(中公新書)』 (中央公論新社 2012年)
清水克行「室町幕府「流罪」考―失脚者の末路をめぐる法慣習―」 (『室町社会の騒擾と秩序』 吉川弘文館 2004年)
《誅殺》 《1431年》 《正月》 《5日》 《享年11歳》


醍醐寺三宝院の小童。
大納言葉室長忠の子。


永享3年(1431)正月3日戌の刻の終わり(夜9時頃)、
三宝院の小童祢々丸は、
妙法院より帰る途次、三宝院の小門内にて、
何者かに頭部を斬りつけられた。
侍法師の祐尊に抱えられて、部屋の中まで運び込まれたが、
右側頭部、耳の上の三寸ほどの傷からは、
血がだらだらと流れ、
「目も当てられず」というありさまであった。

祢々丸は、駆けつけた師の三宝院満済を見ると、
嬉しそうに、
「死せんかのう」(死ぬんでしょうか)とつぶやいた。
満済は、涙をおさえて、
そんなことはない、と答えるしかなかった。

夜中のことで、近くに傷を診られる医者はおらず、
代わりに観音堂の住僧を呼んで、治療をさせた。
出血は甚だしかったが、
祢々丸は少しも苦しそうな様子を見せず、
受け答えもはきはきとしていた。
そのけなげなさまが、いっそう師満済の涙を誘うのであった。


祢々丸の証言によれば、
犯人は幸順寺主の中間の男だというが、
すでに逃れていて、捜索の手にかかることはなかった。
動機も不明。


翌4日、
祢々丸の容態は変わらず、
流血の不浄のため、沐浴させて、
道場にて回復のための修法が行われた。
さらに、
卯の刻の末(朝7時30分頃)、
三宝院より妙法院に移された。


翌5日辰の半刻(朝8時頃)、
祢々丸、帰寂。享年11歳。
法名を聖蓮禅師とし、
出家受戒を遂げたこととして、弔われた。
6日、火葬。


8歳の頃より、満済に仕え、
満済もこれをかわいがって、昼夜を問わず身辺に置いた。

 この体この式何年忘るべきか、
 万々悲涙、

 歎いて余りあり余りあり

 返す返すも祢々丸の事、
 久遠劫を経るといえども、
 この哀慟休まるべきか、
 万行の涙に溺れ、
 千回の腸を断つばかりなり (いずれも『満済准后日記』)

と、満済の慟哭はやまない。


2月10日、三十五日、
同月25日、中陰結願。
いずれも満済は、頓写経や諷誦文を作成している。



〔参考〕
『続群書類従 補遺一 満済准后日記(下)』 (続群書類従完成会 1928年)
《戦死》 《1355年》 《3月》 《12日》 《享年不明》


那須資藤は、
下野の豪族那須氏の一族であるが、
惣領ではなく、有力な庶流ではないかとされている。


観応3年(1352)、
足利尊氏は、弟直義との対立に決着をつけたものの、
この間に、雌伏していた南朝方が息を吹き返し、
さらには、
敗れた旧直義党が、南朝方と手を組んだため、
戦争はなお収まることがなかった。

ことに、
京都をめぐる南朝方と足利方(北朝方)の争いは、激しさを増しており、
一時は、
光厳・光明・崇光三上皇と東宮直仁親王を、南朝方に拉致されるなど、
北朝は苦境に陥っている。
尊氏・義詮と南朝・旧直義党の京都争奪戦は、
苛烈をきわめたのであった。


文和3年末、
南朝方と旧直義党の軍勢が京に迫った。
尊氏とその子義詮は、
防衛に不向きな京都を去り、
それぞれ近江・播磨に移り、挟撃の態勢をとった。

翌文和4年(1355)正月、
からっぽの京都に、
直義党の桃井直常・斯波氏頼らが入った。
ついで、
足利直冬と山名時氏・石塔頼房らも入京。
観応3年(1352)、文和2年(1353)、そして今回と、
南朝方、実に3度目の京都占領であった。


尊氏・義詮は、東西からじりじりと包囲の輪を縮め、
対する京都側は、
東寺実相院に足利直冬、
石清水八幡宮の男山に楠木正儀、
西山に山名時氏が陣を張り、
防衛線を構築した。


2月6日、
摂津芥川・山崎・神無山辺で、
義詮軍の赤松則祐・佐々木導誉らと楠木勢が衝突。

この激戦で南朝方を破った義詮は、京都に迫り、
戦場は市街地に移っていった。
尊氏も、西坂本より東山、ついで清水坂へ陣を移し、
洛中の南朝方を背後から脅かした。
この頃、
京都ではあちこちで、小競り合いや遭遇戦が起きている。


3月12日、
新日吉に陣し、洛中への橋頭堡を確保した尊氏は、
南朝方の本陣東寺へ、京都奪回の総攻撃をしかけた。
尊氏方は数千の大軍であったが、
南朝方は東寺八幡宮に立て籠もり、激戦となった。
雌雄は容易に決せず、
所々にあがった火の手は、京都の空を煙で覆い、
未の刻の初め(午後1時頃)でも真っ暗だったという。


この激戦の中、
那須資藤は尊氏の陣中にあった。


以下、『太平記』。

 この陣の寄せ手、ややもすれば懸け立てらるる体に見えければ、
 将軍(尊氏)より使者を立てられて、
 「那須五郎(資藤)を罷り向かうべし。」と仰せられける。
 那須は、この合戦に打ち出でけるはじめ、
 故郷の老母の許へ、人を下して、
 「今度の合戦にもし討死仕らば、親に先立つ身となりて、
  草の陰、苔の下までもお歎きあらんを、
  見奉らんずることこそ、思いやるも悲しく存じ候え。」
 と、申し遣わしたりければ、
 老母泣く泣く委細に返事を書きて、申し送りけるは、
 「いにしえより今に至るまで、
  武士の家に生まるる人、名を惜しみて命を惜しまず、
  皆これ妻子に名残を慕い、父母に別れを悲しむといえども、
  家を思い、嘲りを恥ずるゆえに、
  惜しかるべき命を捨つるものなり。
  はじめ身体髪膚を我に受けて、損ない破らざりしかば、
  その孝すでに顕れぬ。
  今また身を立ちて、道を行うて、名を後の世に揚げるは、
  これ孝の終りたるべし。
  されば、今度の合戦に相構えて、
  身命を軽んじて、先祖の名を失うべからず。
  これは元暦のいにしえ、曩祖那須与一資高は、
  屋島の合戦のとき、扇を射て名を揚げたりしときの母衣なり。」
 とて、
 薄紅の母衣を、錦の袋に入れてぞ送りたりける。
 さらでだに戦場に臨みて、いつも命を軽んずる那須五郎が、
 老母に義を勧められて、いよいよ気を励ましけるところに、
 将軍より別して使いを立てられ、
 「この陣の戦い難儀に及ぶ。向かいて敵を払え。」
 と、余儀もなく仰せられければ、
 那須、かつて一儀も申さず、畏まって領状す。
 ただいま味方の大勢ども、立つ足もなくまくり立てられ、
 敵みな勇み進める真ん中へ、会釈もなく懸け入りて、
 兄弟二人一族郎従三十六騎、一足もひかず討死しける。


一方で、『源威集』の記述。

 夜になりて帰陣すべしとて、
 手勢ばかり錣(しころ)を傾けて、ならび居たりしところに、
 もとの油小路より一手、後ろ塩小路より一手、
 大勢寄せ来たる間、
 当手ばかりにて、火を散じ、一足もひかず、
 資藤・忠資叔父甥、そのほか一族家人、
 討死手負い数輩なり。
 敵も手強く戦う間、討死手負い同前なり。
 敵本陣におさまりしかば、
 七条合戦は、やぶれにけり。
 資藤、息の下少しく通しければ、
 《金+崔》をもおろさず、母衣懸けながら、
 広戸にかい載せられて、
 将軍(尊氏)の御前へ参りたりければ、
 じかに数ヶ所の疵をご覧ぜられて、
 今度の振る舞い神妙の由、御感ありければ、
 忝くもお詞耳に入るかと覚えて、
 目をはたと見開き、
 血の付いたる手を合わせて、胸に置き、
 恐れ入りたるていにて、うちうなずきうちうなずき、
 命をおとしける。
 武将(尊氏)これをご覧ぜられて、
 お泪を浮かぶ。
 建武三、九州御下向の時、
 東国に一人の味方なかりしに、
 この資藤が父資忠一人、高館に籠りて、
 忠節せしことまで仰せられしぞ、忝し。


難戦への突入を「余儀もなく」命じた尊氏と、
瀕死の資藤の手をとり、涙ながらに軍功を褒する尊氏。
かたや親子の情を描きつつ、
一方では、主従の絆の話になっている。

死は、
その後の演出次第。


13日寅の刻(午前4時頃)、
多大な損害をこうむった南朝方は、
東寺から陣をひき、淀や石清水方面へ没落していった。
以降、南朝方が京都を占領することはない。



〔参考〕
『大日本史料』第6編 第19冊
江田郁夫「鎌倉・南北朝時代の那須惣領家」 (『中世東国の街道と武士団』 岩田書院 2010年)
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事故死

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不詳

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