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死に様データベース
《誅殺》 《1479年》 《5月》 《5日》 《享年不明》


*****ドメスティック・バイオレンスに関する記事です。閲覧にご注意ください。*****


応仁・文明の乱の余燼がまだ消えやらぬ文明11年(1479)のころ、
京都四条西洞院の北西の角に、とある「在家」の一家が住んでいた。
「在家」とは、ここでは庶民(の家)といったほどの意味であろう。
夫婦には幼い子もあったが、
夫はなんと、「妾」も同居させていたらしい。

5月5日、
妻は「妾」のことで、夫を激しく責め立てた。
「妾」を妬んでのことであったというが、
日ごろより思うところがあり、それが募ったすえであろう。
しかし、夫は逆上したのか、妻を殺害。
さらに、幼子にも手をかけた。
「希代の所行」(「晴富宿禰記」)

騒ぎを聞きつけた人々が、所司代に通報しようとしたところ、
夫は逐電。
「妾」の顚末も知れない。


女性の主張は、“嫉妬”とかたづけられ、
身内への暴力は、いともたやすく激化する。
およそ「耐えられるDV」などというものは、この世に存在しない。


〔参考〕
『図書寮叢刊 晴富宿禰記』(宮内庁書陵部、1971年)
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《誅殺》 《1478年》 《2月》 《12日》 《享年不明》


一向宗宇治金品寺の尼僧
故前住持の妻。


文明10年(1478)2月12日、
宇治金品寺のは、なにがしかの用があったか、
綾小路坊城の洛中の住まいから、「御構」へ出向いていた。
「御構」とは、
応仁・文明の乱時の、北小路室町の室町第を中心とする室町幕府・東軍の拠点エリアのこと。
前年に乱は終結していたが、「御構」での生活は残っていたようである。

用が済んだのか、このは「御構」から綾小路坊城の住まいに帰る途中、
四条坊門堀川辺りで「盗人」に襲われた。
着物を剥ぎ取られ、「打擲」を受けた。
頭部を「破損」、同地で死去(以上「晴富宿禰記」)



〔参考〕
『図書寮叢刊 晴富宿禰記』(宮内庁書陵部、1971年)
《誅殺》 《1479年》 《閏9月》 《10日》 《享年不明》


*****ドメスティック・バイオレンスに関する記事です。閲覧にご注意ください。*****


京都の輿丁(輿かき)の妻。


応仁・文明の乱の余燼くすぶる文明11年(1479)のころ、
京都の三条西亭の近所には、輿丁の夫婦が住んでいた。
は妊娠中で、出産も間近なようすであった。

閏9月10日、輿丁の夫がを「打擲」。
は「頓滅」してしまった(『実隆公記』)
胎児のことはいうまでもない。


DV(ドメスティック・バイオレンス)ということばがなかろうと、DVは存在する。
およそ「耐えられるDV」などというものはない。


〔参考〕
『実隆公記 巻1』(1931年) →該当箇所
《病死》 《1477年》 《正月》 《10日》 《享年42歳》


永享8年(1436)生まれ。出自は未詳。
はじめ三条西家の女房、
のち、内裏の右衛門内侍の女房。


三条西実隆が3歳か4歳のころ、
つまり長禄元年(1457)か同2年(1458)ごろ、
小督は三条西亭にあって、実隆の父公保に仕えていた。
小督が22、23歳のことである。
当時は別の女房名で呼ばれていたか。

長禄4年(1460)正月、主の公保が死んでしまうと、
その妻(実隆の母、甘露寺房長の娘)の計らいにより、
その年の秋より、内裏の右衛門内侍こと四辻春子に仕えることとなった。
文正元年(1466)4月、春子は勾当内侍に就任するが、
小督は有能な女官として、春子を支え続けたようである。
実隆との交流も続いたが、
小督にしてみれば、実隆はいつまでも昔の主家の坊ちゃんだっただろう。


文明8年(1476)12月13日、小督は母を亡くし、内裏を一時退去した。
実はこのとき、小督は妊娠していた。
権大納言庭田雅行とひそかに関係をもっていたらしい。
翌9年(1477)正月6日、ひどい難産のすえに女児を出産したが、
その子はまもなく死んでしまった。

難産は、小督自身の体も傷めた。
小督の産後の回復は思わしくなく、
正月10日子の下刻(夜0~1時頃)、逝去。
42歳であった。
中世の時代としては、かなりの高齢出産であっただろう。

勤続18年に及んだ小督の死に、春子の悲嘆ぶりはいかばかりか、
と実隆は同情しつつ、
自身も、日ごろのつきあいは浅からず、
「当時(いま)歎嗟の思い、忍びがたきのみ。
 有為の世界厭うべし。
 悲しむべし悲しむべし。」(『実隆公記』)
と、悲嘆に暮れている。
戒名は、玉峯珪蓮

正月28日、小督の供養のため、実隆は法華経の提婆達多品を卒塔婆に記してたむけた。
「多年官女の好、近来交友の睦、
 誠にもって忘れがたきものなり。
 よって寸丹の志を抽んずるのみ。」(『実隆公記』)


〔参考〕
『実隆公記 巻1』(1931年)
吉野芳恵「室町時代の禁裏の女房―勾当内侍を中心として―」(『國學院大學大學院紀要―文学研究科―』13、1982年)
松薗斉『中世禁裏女房の研究』(思文閣出版、2018年)
《病死》 《1526年》 《4月》 《13日》 《享年48歳》


従一位・権大納言庭田雅行の娘。
母は「院庁」(『二水記』)とあるが、未詳。
内裏女房、新典侍局。


文明11年(1479)、権大納言庭田雅行とその妻の間に生まれたは、
鬢そぎ(成人)を済ませた16歳の年、
明応3年(1494)のころより、後土御門天皇の第一皇子勝仁親王に仕えて、
御愛局と呼ばれ、
明応9年(1500)10月、勝仁親王が践祚(後柏原天皇)すると、
従五位下に叙されて典侍に任じられ、源子(もとこ)と名付けられた。
このとき、同僚の御阿茶局(勧修寺教秀の娘)も、従五位下・典侍となり、
藤子と名付けられている。
どちらの名前も文章博士東坊城和長の撰進だったようだが、
源姓の者に源子、藤原姓の者に藤子とは、ずいぶん安直な名付けである。

そうして典侍として後柏原天皇に仕え、新典侍局と呼ばれた源子は、
御室門主覚道法親王、大慈光院覚音尼、梶井門主彦胤入道親王の皇子女を産んだ。

永正18年(1521)には、新大納言典侍藤子とともに正五位下に昇っている。


源子は、大永5年(1525)冬ごろより健康を損じた。
しばらくは宮中に祗候し、
翌大永6年(1526)2月25日には、宮中で三条西実隆の見舞いを受けているが、
一向に快方に向かうようすは見えず、
3月5日、内裏を退去した。
実家の庭田家に戻ったと思われるが、父母はもとより兄重経もすでにこの世になく、
縁続きの中山家出身の重親が庭田家を継いでいた。
源子にとって、落ち着ける場所であったかどうか。
あるいは、3年前に母が没したときと同様、
娘覚音尼がいる大慈光院に移ったのかもしれない。

その後も源子は医師の診察を受けるなどしたが、
11日に実隆が再度見舞った際には、
「もってのほかに憔悴のてい」(『実隆公記』)であった。
14日には、前権中納言鷲尾隆康や息子の彦胤入道親王の見舞いを受けている。

ところが、ほどなくして今度は後柏原天皇の体調が悪化した。
もともと「積聚」(癪)の持病があったが、
昨年より食欲が落ち、医師たちの治療や護持僧たちの祈祷もむなしく、
3月下旬には、何も口にできなくなった。
4月5日、後柏原天皇は危篤に陥り、このときはしばらくして意識を取り戻したが、
翌6日、再び意識を失い、やはりほどなく回復したものの、
玉体は畳に乗せられて、小御所北の間に移された。

そうして、源子が内裏を退去してからひと月ほど後の4月7日、
後柏原天皇は崩御してしまった。63歳。
翌8日、源子は落髪。
そして、天皇の初七日が行われる4月13日の卯の刻(朝6時頃)、
源子もこの世を去った。享年48。
「所労数十日、よって久しく竜顔を拝されず、ついに薨ぜらる。
 哀れなる哉、哀れなる哉。」(『二水記』)
源子は天皇の死に目にはあえなかったが、
まさしく跡を追うような逝きかたをしたのであった。

戒名は西松妙忍禅定尼とされ、速成就院に葬られた(『厳助大僧正記』『実隆公記』)
6月、従二位が贈られている。


いっぽう、御阿茶局改め新大納言典侍こと勧修寺藤子は、
源子に遅れること17日、4月25日にようやく落髪。
新帝後奈良天皇の生母として、従三位に叙され、
5月には、准后宣下を受けた。


〔参考〕
松薗斉「戦国時代の禁裏女房(一)―上級女房―」(『中世禁裏女房の研究』思文閣出版、2018年、初出2015年)
『大日本古記録 後法成寺関白記 3』(岩波書店、2007年)
『大日本古記録 二水記 3』(岩波書店、1994年)
『実隆公記 巻6下』(続群書類従完成会、1962年)
「厳助大僧正記上」『続群書類従 第30輯上』(続群書類従完成会、1925年)
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