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死に様データベース
《病死》 《1338年》 《11月》 《7日》 《享年不明》


内大臣中院通重の娘。
後二条天皇の皇孫で「禅林寺宮」と呼ばれた木寺宮康仁親王に仕えて、その鍾愛を受けた。
「南御方」は、女房名のうちでも最高位のひとつであり、
その遇されようがうかがえる。
康仁親王とともに、参議六条有光の邸に住んだという。


建武5年(1338)7月、
南御方の懐妊が判明し、
25日未の刻(午後2時頃)、実家中院家のもとで着帯の儀が行われた。
帯の加持は、兄弟の真光院成助がつとめた。
子の父親の康仁親王は、元弘元年(1331)に、
両統迭立を遵守する鎌倉幕府によって持明院統光厳天皇の皇太子に立てられたが、
翌々年、倒幕を果たした大叔父後醍醐天皇によって廃太子された経歴をもつ。
南北両朝が併立してからは、大覚寺統ながら親北朝(持明院統)の立場をとったが、
そうした一筋縄ではいかない事情もあってか、
着帯の儀は内々に略儀をもって行われたようである。

ところが、4ヶ月余りのち(閏7月をはさむ)の11月7日、
南御方は、難産のすえに死去してしまった。
康仁親王は当時19歳であったから、
さほど歳が離れていないとすれば、10代後半から20歳前後であったろうか。
子の行く末も知られないから、死産か夭逝であったとみられる。
甥の権中納言中院通冬は、
おそらく年下の叔母の死を、「悲歎比類なきものなり」(『中院一品記』)と惜しんでいる。

通冬は縁者として軽度の喪に服することとなったが、
おりしも北朝は直後に光明天皇の大嘗会をひかえており、
現任公卿の通冬は、一連の儀式に出仕しなければならなかった。
同じころ、関白一条経通の北政所洞院綸子が逝去していたが、
その兄洞院実夏は大嘗会の清暑堂御神楽への参勤を命じられており、
同様に通冬の出仕も問題ないとされた。
とはいうものの、通冬は希望していた役に選ばれなかったとして、出仕を見送っている。


人の死が生者にもたらすのは、哀惜と服喪ばかりではない。
参議六条有光は、邸内で南御方が死去したために、触穢となったが、
大嘗会の官司行幸に供奉して、剣璽を持つ役をつとめ、
璽の箱を取り落とすという失態を犯した。
触穢なのに供奉したからとして、
  希代の珍事なり。
  頗る先代未聞の怪異なり。
  不信の至り不可説と云々。(『中院一品記』)
と、通冬の非難は手厳しい。
この不始末によって、有光は参議を罷免された。


なお、歴史物語の『増鏡』によれば、
中院通重の娘が、康仁の父邦良親王に仕えて王子を産んだけれども、
ほどなく母子ともに死んでしまった、としている。
邦良・康仁の混同や、南御方逝去の誤伝など、なんらかの錯誤があるかもしれないが、
もし事実とすれば、
南御方の姉と南御方が、邦良・康仁父子にそれぞれ仕えたものの、
どちらも産褥死してしまった、ということになる。


暦応3年(1340)11月7日、中院家では南御方の三回忌を営んでいる。



〔参考〕
『大日本古記録 中院一品記 上』(岩波書店、2018年)
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《自害》 《1475年》 《10月》 《某日》 《享年53歳》


南方の海のかなたには、
「補陀落」と呼ばれる観音の浄土がある、とされた。
浄土を目指す人々は、熊野や土佐の海岸から船に乗り、補陀落に向かった。
古来より幾人もの人々が、黒潮の荒い太平洋に小舟で漕ぎ出で、
「補陀落渡海」を遂げたのである。


さて、万里小路冬房

従一位、准大臣。
万里小路時房の嫡男。
はじめは成房と名乗った。

伝奏として公武の間で活躍した父時房と同じく、
冬房もまた弁官や蔵人頭を経て、伝奏もつとめ、
後花園上皇や室町殿足利義政の信任を得ていたと思しい。
妻は、同じく伝奏をつとめた広橋兼郷の娘。


応仁元年(1467)9月、
おりからの洛中の戦乱(応仁・文明の乱)を前に、
世を儚んだ後花園上皇が突然の出家を遂げると、
従一位、准大臣に叙されたばかりの冬房も、
その他の上皇の近臣たちとともに出家を果たした。
法名を弘房、あるいは弘円としたという。

万里小路家は、甘露寺家から迎えた養子の春房が継ぐこととなったが、
この春房も、数年後に出奔、出家をしている。


出家後の冬房の足取りはよくわからない。


出家から9年後の文明8年(1476)のこと、
3月27日の夜、女官の権大納言典侍(万里小路命子)が、
「父冬房が去年の10月頃、補陀落山に参詣した」(『実隆公記』)として、籠居した。
同じ年の6月中旬、
春房に代わる万里小路家の跡取り、阿子丸(のちの賢房)の除服(忌明け)について、
公家たちの間で調整がなされている(『親長卿記』)
義姉権大納言典侍と同じく、養父冬房の死により服喪していたのだろう。

『尊卑分脈』が記すとおり、
どうやら冬房は、「菩提心」により熊野那智より「補陀落渡海」を遂げたようだ。
隠遁後とはいえ、もと公卿の補陀落渡海は希有なことだろう。

なお、
『尊卑分脈』には、文明17年(1476)12月21日のことと年次に混乱があり、
『続史愚抄』には、文明7年(1475)11月22日のこととあるが、
本頁では、上記の『実隆公記』によって10月某日とした。



〔参考文献〕
根井浄『補陀落渡海史』 (法蔵館 2001年)
根井浄『観音浄土に船出した人びと―熊野と補陀落渡海―』 (歴史文化ライブラリー 吉川弘文館 2008年)
『増補史料大成 親長卿記 2』 (臨川書店 1985年)
東京大学史料編纂所データベース
《誅殺》 《1374年》 《2月》 《11日》 《享年33歳》


修理権大夫藤原親尹の子。
後光厳上皇の側近。


後光厳上皇が崩じて二七日も過ぎない、
応安7年(1374)2月11日の暁時、
上皇の旧居仙洞柳原殿の南土門脇にて、
男の斬殺死体が見つかった。
死体の主は、備前守藤原懐国(やすくに)、33歳。
犯人は不詳。


懐国は、代々徳大寺家の家人の家に生まれたが、
自身は、主家と疎遠になっており、
むしろ、北朝の後光厳院に近仕した。
在位時には、六位蔵人として長く仕え、
退位のおりに、五位にのぼり、
その後も、上北面として院に仕えたのである。

しかし、そのうちに懐国は、
後光厳の寵愛を受けた二位局(日野宣子)と密通し、
その権威をかさに、傍若無人のふるまいをなした。
あまりの行状に、後光厳の叡慮にも違うことも起こすようになり、
しだいに御前より遠ざけられたという。

当時の公家の日記も、
「彼局(日野宣子)最愛の間、権威を募り、毎時誇張、
 ほとんど傍若無人の体なり。」(『後愚昧記』)
「朝恩を誇り、年来過分の振る舞い、諸人目を側む。
 二品局(日野宣子)しきりに引汲の間、
 いよいよ傍若無人の思いを成すと云々。」(『愚管記』)
と、懐国評は手厳しい。


とかく、敵が多い人物だったらしい。
犯人についても、その後取り沙汰されていない。
懐国によって不遇をかこった人物の犯行だったのだろう。
専横を恣にしたすえの横死に、
周囲は「因果応報」「さもありなん」といった具合だったのだろうか。

しかし、
彼を知る者は、その死を悼んでいる。
「年少より見及ぶ者なり。
 不便々々(ふびんふびん)。」(『愚管記』)
「二七日中横死の条、不便々々。
 …たとい古敵たりといえども、情類あり。
 このときもっとも斟酌すべきものか。」(『保光卿記』)
もっとも、土御門保光のほうは、
複雑な心境であったようだが…。



〔参考〕
東京大学史料編纂所データベース
《病死》 《1416年》 《7月》 《20日》 《享年不明》


今出川公直の妻。
今出川公行の母。


応永23年(1416)7月12日、
西谷にある亡き夫今出川公直の墓所へ、
焼香へ行った南向は、
その帰邸後、痢病に罹り、
16日、重篤に陥った。
老体には堪えたらしい。

17日夜、
いよいよ臨終かとなって、末期の水をとらせようとしたところ、
わずかに息を吹き返した。
このとき、医師丹波頼直は、
早朝のためか、駆けつけることができなかった。

20日午の刻(正午0時頃)、
出家の後、逝去。


23日、東山法幢寺にて、荼毘に付される。


幼いころより今出川家で養育されていた伏見宮貞成王は、
南向を育ての母と思ってきた。
貞成が伏見宮邸に戻って以降、無沙汰となっていたが、
南向は、最後まで貞成のことを気にかけており、
これを知った貞成は、
「かたがたもって哀懃無極、」「哀傷少なからず、」(『看聞日記』)
と嘆き、悔やんでいる。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
《病死》 《1431年》 《8月》 《2日》 《享年34歳》


醍醐寺妙法院。大僧正。


永享2年(1430)末頃より、
妙法院賢長は、長患いをしていたらしい。


永享3年(1431)6月14日、
医師上池院胤能が、瘧気と診断し、
「200日以上も治療を受けながら、なかなか治らない。
 まずは早く瘧を落したほうがよい。」と、
栂尾高山寺にいる、瘧を落とすのが上手い僧を呼ぶことを勧めた。


17日、
賢長の病は重篤となる。
医師清阿は、
重態だが、今日、明日どうこうということではない、
と診断した。
申の終わり(夕方5時頃)には、
少し回復して、食事を摂ったという。


そして、この日の夕方、
瘧を落とすのが上手いという、栂尾高山寺の禅淳坊という律僧がやってきた。
禅淳坊によれば、
落とすには50日ほど遅かった、ということだったが、
それでもやってみよう、と加持を引き受けたのである。

禅淳坊は、患者賢長の胸に、
「是大明王無其所居、但住衆生心想之中、」と墨書し、
その上下左右に、梵字を書いて、
独鈷杵で背中を打ち、加持を行った。
これは、白芥子の加持というもので、
白ケシを土器に盛り、ザクロなども用いて行うものだという。
禅淳坊は、この日から妙法院に泊り込み、
不動護摩なども焚いた。


なお、この日、
万一に備えて、
賢長跡の相続人として、葉室長忠の9歳の孫を入室させること、
その成人までの間は、金剛手院賢快が扶助することなどが、決められた。


翌18日、
今度は、
山名時煕の被官山口国衡が呼んだ医徳庵善逗という医僧が来て、
単なる積聚(腹痛・胸痛、癇癪)であって、瘧気ではない、と診断した。
医徳庵善逗は、
「人をよくなおす人」(「郡司文書」)
「(細川満久が病死したときも、)
 医徳庵が京都にいれば、助けられただろうに。」(同)
と、評判の医師であったらしいが、
このときは、
「治療をするのが遅すぎた。
 せめてもう20日早ければ、簡単に治ったものを。」
と「放言」(『満済准后日記』)したという。


また、賢長は、
医師寿阿より処方された薬をやめ、
清阿の処方したものに切り替えた。
この18日は、やや体調もよかったらしく、
食事も少し摂ったという。
見舞った三宝院満済は、それを聞いて少し安堵している。


19日、
賢長を診断した寿阿が、
近々急変するということはないが、もはやどうしようもない、と、
匙を投げた。


21日、
またしても賢長は重態に陥るが、一命を保った。
上池院胤能が、14日の時と同じように診断し、
「昨年10月についた瘧気によるものであり、
 脾臓に伏連という虫が入り込んで、悪さをしているのである。
 知らない者は、積聚と判断するだろう。」
と、医徳庵の診断を退けた。


22日、
禅僧の医師桂園が来診。
「脾臓の積聚とも考えられる。
 はやく落としたほうが良い。」
また、建蔵という医師も来て、
「脾臓の積聚であろうが、
 今は瘧気が表に出てきている。
 ただ、危険な瘧気ではない。」
と診断。


23日、
病床の賢長は、大僧正に昇進。

この日は、帥坊という医師が来た。
14日以来、実に7人目の医師。
「瘧気ではなく、脾臓の積聚で、
 かなり活発で、危険な状態ではあるが、
 治療は、絶対に諦めてはならない。」
と励ましのようなことを言った。


27日、
槙尾西明寺の律僧俊光坊が、瘧気を落とす加持を行い、
申の初め(午後3時頃)に始めて、
酉の半刻(夕方6時頃)には、悉く落とした、ということだった。


7月2日申の初め(午後3時頃)、
またしても容態が悪化。


5日、
22日の建蔵、来診。
「特に変わりはないが、
 内熱気が散じたのは喜ばしいことだ。
 だが、この病が回復に向かうのは、なかなか難しいだろう。」


13日、
室町殿足利義教の祈祷の期間中に、
護持僧満済の身内ともいうべき僧が死ぬのは不吉ではないか、
ということが、
義教周辺の三宝院満済や中納言広橋兼郷の間で話し合われたが、
やむを得まい、気にすまい、ということになったらしい。


17日、
奈良興福寺の大乗院経覚が、
賢長の容態を心配して上洛。


そうして、
8月2日、
治療の甲斐なく、賢長入滅。
34歳。
香袈裟を着て、端座正念して入滅したという。
「老後愁歎、法流衰微、
 周章、せんかたを失いおわんぬ。」(『満済准后日記』)


8日、
賢長の初七日の仏事を執り行った醍醐寺三宝院満済は、
「夢の如し。
 老心愁歎、憐れむべし憐れむべし。」(『満済准后日記』)
と述べている。
9月17日には、
賢長の跡を継いだ賢快が、その遺骨を携えて、
高野山に参詣した。


主治医をころころ替える患者、
呪術的な治療行為、
「手遅れ」と匙を投げる医者に、
「大事ない」と気休めをいう医師、
「あきらめるな」と励ます医師。
室町期の終末医療を考えるに、興味深い。




〔参考〕
『続群書類従 補遺 2 満済准后日記 下』 (続群書類従完成会 1928年)
服部敏良『室町安土桃山時代医学史の研究』 (吉川弘文館 1971年)
吉田賢司「在京大名の都鄙間交渉」 (『室町幕府軍制の構造と展開』吉川弘文館 2010年)
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