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死に様データベース
《誅殺》 《1245年》 《12月》 《7日》 《享年不明》


山城禅定寺の寄人。


寛元3年(1245)12月7日、
山城宇治の禅定寺の寄人6人が、
用あって上京した。

その途次、法性寺の辺りで、
山城木幡の住人8人と行き会い、
七条河原辺で、馬の走り競いをすることになった。
その際、禅定寺寄人方が、
跳ねて暴れる木幡住人方の馬を、牽き抑えた。

この行動が、木幡住人の怒りに触れたらしい。
寄人の尻を蹴り上げ、
首をつかんで散々に打ちつけた。
この仕打ちに、
寄人たちも野次馬も驚いたが、
衆寡敵せず、寄人たちは引き下がった。

まだ腹の虫がおさまらない木幡住人たちは、
木幡周辺で待ち伏せし、
帰路にあった寄人たちを襲撃。
乱闘の末、
深夜子の刻(8日深夜0時頃)、
寄人の美乃という名の男が、一坂にて死亡。
いま一人も、瀕死の重傷を負った。
木幡住人たちは、あろうことか、
寄人たちの金銭を奪い取って、山中へ逃亡した。


禅定寺は、憤慨して猛抗議。
本寺の宇治平等院も、摂関家に訴え出た。
犯人の身柄引き渡しを要求した禅定寺方は、
「木幡山において頸を切り懸くるべく候、」(『禅定寺文書』)
と、息巻いたが、
木幡住人の中六・藤三郎という男2人が、
検非違使庁に差し出され、禁獄、
というほかは、よくわからない。


中世人の沸点は低く、恐ろしい。



〔参考〕
古代学協会『禅定寺文書』 (吉川弘文館 1979年)
朝比奈新「摂関家領荘園の領域形成と地域」(歴史学研究会中世史部会報告レジュメ 2012年2月)
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記主 2016/03/18(Fri)01:38 編集
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