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死に様データベース
《誅殺》 《1420年》 《10月》 《某日》 《享年不明》


医師。
高間とも書かれる。


応永27年(1420)8月下旬頃より、
室町殿足利義持は、体調を崩していた。

9月になっても、義持の病は癒えなかった。
食が進まず、苦しげであったという。
坂士仏と高天良覚という2人の医師が診察し、
士仏は「疫病」と診断し、薬は処方せず、
良覚は「シキ(病だれに食)」「傷風」(風邪の一種)と診断し、
薬を進上していった。
しかし、この良覚、なかなか怪しい人物だったようで、
当初から狐憑きとの噂が立っていた。


病状が日増しに悪化していた9月9日、
義持の御台日野栄子のもとで、験者が加持を行っていたところ、
狐2匹が、御所から脱走。
すぐさま捕獲されて殺されたが、
これが、狐憑きの呪詛に使われていたものだとして、
良覚による義持呪詛の露顕、と相成った。

翌10日朝、
良覚は、父や子弟3人とともに、
管領畠山満家に捕らえられた。
同日昼頃、
一味の陰陽師賀茂定棟も、
細川義之に召し捕らえられた。

尋問の末、
良覚は、狐憑きのことを白状。

13日、
良覚の身柄は、侍所に移され、
さらなる尋問により、
新たに、一味の医師・陰陽師・修験僧ら8人の関与が判明。
目薬師の松井や、宗福寺の長老、清水堂の坊主のほか、
二条家の諸大夫高階俊経も、含まれていた。
いずれも逮捕され、
23日にも、新たに僧2人が捕らえられた。


10月に入って、
義持の病状が快復に向かいはじめた頃、
良覚・賀茂定棟・高階俊経は、
それぞれ四国に配流されることが決まった。
8日、配流先の讃岐へと連行される途中、
良覚、某所にて殺害される。

この時代、
流罪とは、法の下の保護からの放逐を意味しており、
流人の生殺与奪は、流刑を執行する側に一切が握られていた。
生かすも殺すも自由、ということは、
流罪と死罪は、ほとんど同じことを意味していたのである。


なお、
一味とされた高階俊経は、秋野道場で出家を遂げて、誅殺を免れ、
賀茂定棟も、その後の存命がうかがえる。
処刑されたのは、良覚1人だったようである。
また、
良覚に代わって、義持の診察を独占した士仏は、
義持から褒美をたんまりと貰った。
「毎事人間の憂喜は定まらず、」(『看聞日記』)
とは、伏見宮貞成王の言。


釈放される前、
賀茂定棟は、獄中で次の歌を詠んだという。

 かゝるとも道の道たる御代ならば晴らでや雲の月は照らさむ(『康富記』)

身の無実を訴え、政道の理非を糺すこの歌からは、
覚えのないスキャンダルに巻き込まれたことの、
怨嗟の声が聞こえてくる。

侍医のなかでの主導権をめぐる争いに、
周囲が巻き込まれた、というあたりが実際のところだろうか。



〔参考〕
『増補史料大成 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2004年)
清水克行『室町社会の騒擾と秩序』 (吉川弘文館 2004年)
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記事タイトル・本文を修正いたしました。

〔参考文献〕
服部敏良『室町安土桃山時代医学史の研究』(吉川弘文館、1971年)
記主 2020/09/05(Sat)23:28 編集
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