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死に様データベース
《病死》 《1178年》 《7月》 《16日》 《享年33歳》



兵部権大輔平時信の娘、
平清盛の息子宗盛の妻。


平清子については、
高松百香「平宗盛の妻―平清子の人生とその意義―」に詳しいので、
それによりつつ紹介したい。


久安2年(1146)、
鳥羽院に仕えた平時信と、院近臣藤原顕頼の娘祐子との間に生まれた清子は、
異母姉の時子に推されてか、
時子とその夫平清盛の子、すなわち清子にとって甥にあたる平宗盛の妻となった。
夫宗盛は清子の1歳下。
年齢からすると、婚議は永暦元年(1160)か翌応保元年(1161)ごろのことだったろうか。
清子の同母姉滋子は、後白河上皇の寵妃となって、このころ皇子憲仁を産んでおり、
その同母妹の清子を宗盛と娶せることで、後白河と宗盛は時子の実家を挟んで相婿となる。
こうした差配によって、
清盛の妻時子は、平家の将来を盤石なものにしようとしたという。

仁安3年(1168)3月、
清子は甥の憲仁親王(高倉天皇)の即位に際して、
義兄で舅の清盛の猶子として、従五位下に叙され、典侍に任じられた。
清子」の名は、このとき養父清盛の名に因んで付けられたものだろう。
宮仕えに際しては、中納言三位局と呼ばれた。

嘉応2年(1170)には、夫宗盛との間に長男清宗を産んでいる。


清盛と時子の娘である徳子(のち建礼門院)が入内して、高倉天皇の中宮となり、
治承2年(1178)5月に懐妊すると、
清子はその乳母に内定した。
33歳のことであった。
中世の乳母は、その名に反して必ずしも授乳役ではなく、最側近の養育役というべきもので、
当時の政治社会においては、その存在や影響力は大きく、
清子の将来は、次代天皇の乳母として約束されたようなものであった。

6月28日、徳子の着帯の儀当日、
乳母となる清子と右近衛大将の夫宗盛は、それぞれに儀式に参列する予定だったが、
清子は遅参し、参列したのは帯の献上が終わったころであった。
この間、さきに参列していた夫宗盛も、
ひとけのないところへ退いて清子を待ち、その到着を見守って列に戻ったようである。

清子の遅参の理由には、彼女が抱えていた病があったらしい。
6月20日ごろより、清子の「髪」に「腫物」ができていたというから(『山槐記』)
頭部の頭皮に近いところに異常があったのだろう。
28日の着帯の儀までに治らず、腫れ物を抱えたまま儀式に臨んだのである。
腫れ物は悪性だったようで、
まもなく清子は八条北高倉の新亭で療養に入った。
閏6月11日には、容態は「大事」に至ったという(『玉葉』)
13日、医師の和気定長が灸を勧めたが、清子は受け付けず、
しかたなく和気貞説が膏薬を塗った。
医師の勧める最善の治療を拒んだまま病状は悪化し、
15日、天命を悟ってか、清子は出家。
19日には、右大臣藤原兼実も、
典薬頭和気定成(定長の父)との雑談で清子の病状を話題にしており、
京都の人々に注目されていたことがうかがえる。
23日、但馬国から来た但馬君という医僧が治療し、腫れ物の切除に成功した。
だが、清子の衰弱は甚だしく、余命はいくばくもないようだった。

7月10日、夫宗盛は、の病を理由に右近衛大将を辞任する。
妻の病気を理由に官職を辞する例は珍しく、
ふたりの関係や宗盛の人柄を示すエピソードともされるが、果たして。

16日、清子没。33歳。


一周忌の迫った翌治承3年(1179)6月3日、
宗盛は法性寺一橋西の辺りに堂を建てて、清子の菩提を弔った。
この堂は、平家滅亡後もしばらく住僧が維持していたが、
正治2年(1200)閏2月に取り壊されることとなり、
清子の乳母子であった木工権頭源仲国という人物が引き受けて、
四天王寺に移築されたという。



なお、
清子が乳母となるはずだった皇子が、のちの安徳天皇である。
打倒平家の挙兵が始まって、治承・寿永の内乱、いわゆる源平合戦が勃発するのは、
清子の没後2年、治承4年(1180)のこと。
安徳天皇が壇ノ浦の波間に沈み、宗盛が源氏の捕虜となるのは、
それからさらに5年後のことである。



〔参考〕
『増補史料大成 山槐記 2』(臨川書店、1989年)
『図書寮叢刊 〈九条家本〉玉葉 5』(宮内庁書陵部、1998年)
高松百香「平宗盛の妻―平清子の人生とその意義―」
 (細川涼一編『〈生活と文化の歴史学7〉生・成長・老い・死』竹林舎、2016年)
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《病死》 《1447年》 《4月》 《27日》 《享年37歳》


内裏女房、掌侍。
前参議高倉永藤の娘、右兵衛督高倉永豊の妹。


応永32年(1425)11月、高倉藤子は15歳で掌侍として称光天皇に出仕し、
「新内侍」、ついで「藤内侍」と呼ばれた。
次の後花園天皇の代にもそのまま仕え続け、
永享2年(1429)正月に、従五位下、
同年末に、従五位上に叙されている。
父永藤の名にちなむ藤子の名は、出仕の際か叙位の折につけられたものだろう。


文安4年(1447)4月26日朝、
数日続いた「腹所労」により、藤子は内裏を退出した。
ほどなく危篤に陥り、翌27日、他界。
出仕から20年余、「禁中不断祗候」(『建内記』)といわれたが、
発病、退出からあっという間の死であった。
「不便々々(ふびんふびん)」(『建内記』)


兄の高倉永豊のもとを弔問に訪れた官人中原師郷は、
人づてに滋野井実益の卒中のことを聞いている。


〔参考〕
『増補史料大成 康富記 2』(臨川書店、1965年)
『大日本古記録 建内記 8』(岩波書店、1978年)
『史料纂集 師郷記 4』(続群書類従完成会、1987年)
松薗斉「室町時代の禁裏女房―後花園天皇の時代を中心に―」(『中世禁裏女房の研究』思文閣出版、2018年、初出2016年)
《病死》 《1357年》 《閏7月》 《19日》 《享年55歳》


左大臣洞院実泰の娘。
嘉元元年(1303)の生まれで、母は中務大輔藤原兼頼の娘。
異母兄に北朝の太政大臣洞院公賢、同母弟に南朝の左大臣洞院公泰がいる。

鎌倉時代末期、後醍醐天皇に仕えて、皇子女を産んだ。
そのうち皇子の玄助法親王は、のちに興福寺一乗院門主となったが、
いずれも早世したようである。
いつのころか、従二位に叙されている。
建武3年(1336)に後醍醐天皇が吉野に出奔した際の、守子の動向は定かでないが、
兄弟の公賢・公泰らと同じく、京都に留まったか。
またいつのころか、出家している。
正平6年(1351)末、同母弟公泰が南朝へ奔った際にも、守子は京都に留まっていたようで、
延文2年(1357)6月からは、
異母兄公賢の居邸の北隣に住していた。


その転居から2ヶ月後の閏7月18日の夕刻、
守子は大中風を起こして危篤となり、よその寺院に移された。
この間、いびきをかき続けていたという。
「不可説のことなり。」(『園太暦』)
翌19日、「頓死」(同前)
55歳。
いびきというから、脳梗塞だろうか。

異母兄公賢は、
「不運の人なり。ふびんふびん。」(同前)
と記すのみ。
皇子女の母ともなれば、国母や女院の望みもありえたが、
混乱の時代にあって、子女にも先立たれ、
たしかに「不運の人」であったのかもしれない。



〔参考〕
『史料纂集 園太暦 巻6』(続群書類従完成会、1985年)
東京大学史料編纂所データベース
《病死》 《1424年》 《8月》 《28日》 《享年不明》


内裏女房。
藤原南家の一流高倉家の出身かと推測される。


当初は、伏見宮栄仁親王に仕えてその寵愛を得たらしいが、
のち、内裏に出仕して後小松・称光両天皇に掌侍(内侍司の三等官)として仕え、
たびたび参内する北山殿足利義満にも愛された。
栄仁の子貞成親王には、「吾が継母」のひとりとされている(『看聞日記』)

応永初年ごろには、勾当内侍(掌侍の第一﨟)になっていたとされ、
応永22年(1415)に正五位下、その翌々年には従四位下に昇っている(「叙位除目女叙位文書」、『兼宣公記』ほか)
能子」の名は、これらの叙位にあたって付けられたものだろう。
「能」は父の名の一字であろうか。


能子はその立場上、諸方の事情に通じることから、
伏見宮家と内裏・仙洞・室町殿との橋渡しをつとめた。
郊外に逼塞する伏見宮家にとって、その間の調整にあたった能子の功績は大きい。


応永25年(1418)7月、伏見宮家を巻き込んで起こった内裏女房新内侍の密通疑惑事件は、
その局親(女房の擬制的な親)である能子の身にも及んだ。
称光天皇の怒りを受けた能子は、勾当内侍を更迭されそうになったが、
室町殿足利義持のとりなしでどうにか収まった。
事件の背景には、
皇統をめぐる後光厳流(後小松・称光)から崇光流(伏見宮家)への敵愾心があったとされる。


応永27年(1420)3月上旬、能子は体調を崩した。
はやり病であったらしい。
能子は勾当内侍の座などを、仙洞女房の姪右衛門督局に譲ることを望み、
後小松上皇と室町殿義持より安堵を得た。
3月16日、病身の能子は典侍(内侍司の二等官)に叙され、即日これを辞して落髪した。

また、能子は伏見宮家から、一期分(一代限り)として播磨国比地御祈保(現・兵庫県宍粟市)を与えられていたが、
それを弟の円光院尭範に譲与することを、本所の貞成親王に願い出た。
貞成は、面識のない尭範に所領がわたることに難色を示したが、
翌4月、能子のこれまでの奉公に報いて、尭範一期に限ってこれを許した。
ただ、このころ能子の病気は本復している。

その後、能子は宮仕えに復さず、旧里への籠居を続けた。


能子の不遇は続く。
応永29年(1422)6月、姪の右衛門督局が、ライバルの仙洞女房別当局(東坊城茂子)に勾当内侍の座を逐われた。
自身の籠居と姪の落魄を、貞成親王は「老後の恥辱もっともふびん」と憂い、

 故北山殿(足利義満)の御時、寵愛を蒙り栄幸にあう。
 暫時思い出づるに夢のごとし。天上五衰なげかるるものか。(『看聞日記』)

と述懐を続けている。


応永31年(1424)6月ごろ、能子は再び病を得て、8月、容態を悪化させた。
8月8日、伏見宮家の女房東御方が見舞いに訪れると、「存命不定」の状態だったという。
18日には同じく宮家女房の廊御方が見舞い、「言語分明に昔物語に及」んだが、
食欲はないようで、何もものを口にしなかった(『看聞日記』)

28日、他界。
貞成より年長とすれば、60歳前後だったろうか。
姪右衛門督局への相続は後小松上皇に改めて認められたが、
勅勘は解けぬまま、不遇のうちの死去であった。
貞成が、天人五衰(天人の死に臨んで現れるという五つの兆し)になぞらえたのも、
往時の栄華からの凋落ぶりを思えば、無理なかろうか。
ただし、
その「栄幸」は男性権力者の「寵愛」に依り、
その零落は、天人のごとき麗しさの“衰え”に例えられた。


おばと同じく籠居していた右衛門督局は、ほどなく仙洞への帰参を許された。
所領を譲り受けた弟の尭範は、翌32年(1425)10月、姉を追うように病没した。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』(宮内庁書陵部、2002年)
『図書寮叢刊 看聞日記 2』(宮内庁書陵部、2004年)
『図書寮叢刊 看聞日記 3』(宮内庁書陵部、2006年)
小川剛生『足利義満 公武に君臨した室町将軍』(中公新書、2012年)
松薗斉『中世禁裏女房の研究』(思文閣出版、2018年)
村井章介「『看聞日記』人名考証三題」(『日本歴史』882、2021年)
東京大学史料編纂所データベース
《事故死》 《1212年》 《8月》 《16日》 《享年53歳》


前大膳大夫、正四位下。
もと後白河法皇の近臣。


建暦2年(1212)のころのことか、
平業忠は藤原忠綱と相撲をとった際、頸の骨を悪くした。
それ以来、回復しない日々が続き、
8月16日、他界。享年53。

病死ではあるが、病因より事故死に分類した。


業忠は、さほど出世には関心がなかったが、
15歳のときから毎日法華経を読むなど、信心深かったという。



〔参考〕
『冷泉家時雨亭叢書 別巻3 翻刻 明月記 2』 (朝日新聞出版 2014年)
『新訂増補国史大系 第32巻 吾妻鑑 前編』(国史大系刊行会 1932年)
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