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死に様データベース
《誅殺》 《1334年》 《12月》 《28日》 《享年68歳》


鎌倉幕府政所執事、
建武政権雑訴決断所所衆。
法名、道蘊


鎌倉幕府の高官二階堂貞藤は、才覚優れた人として知られていたようだが、
「我が口において賢人と称する」(『金沢文庫文書』)
といわれたように、
驕るようなふるまいもあったらしい。


貞藤は幕府の重臣として、正中の変などの対応に当たり、
激化する持明院・大覚寺両皇統の対立に際しては、
元徳元年(1329)に、幕府の使者として上洛し、
その調停につとめた。
ただし、
幕府の指示に従わず、独断専行もあったらしく、
不仲の金沢貞顕からは、
「言語道断」(『金沢文庫文書』)
と批判されている。

元徳3年(1331)にも、後醍醐天皇に譲位を勧める使者として上洛。
その後の元弘の乱では、
楠木正成の拠る千早城攻めにも参加した。


鎌倉幕府崩壊後、
「朝敵の最一」(『太平記』)であったが、
「賢才」(同)により死罪一等を減じられ、
雑訴決断所の一員として、建武政権に加わった。


だが、それからわずか1年あまりのち、
陰謀加担の嫌疑がかけられ、
建武元年(1334)12月28日、
京都六条河原にて、子兼藤・孫3人とともに斬られた。
68歳。一説に62歳。


僧日静は、
「誠に以って不慮の外に候」(『上総藻原寺所蔵金剛集第六巻裏書』)
と述べている。



〔参考〕
『大日本史料 第6編之2』 (東京大学出版会 1968年)
『鎌倉遺文 古文書編 39』 (東京堂出版 1989年)
『南北朝遺文 関東編 1』 (東京堂出版 2007年)
『国史大辞典 10 (と-にそ)』 (吉川弘文館 1989年)
永井晋『金沢貞顕』 (吉川弘文館 2003年)
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