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死に様データベース
《戦死》 《1336年》 《11月》 《3日》 《享年不明》


下野佐野荘を本領とする国人領主。
佐野惣領家ではなく、
有力庶子家の出身だったようである。


建武2年(1335)、
鎌倉にあった足利尊氏が、
後醍醐天皇の建武政権からの決別を明らかにすると、
佐野義綱も、佐野にあって尊氏方へついた。


11月末から、
東海道にて、尊氏方と後醍醐方の戦端が開かれる。
当初は三河・遠江・駿河で、
尊氏の弟直義・高師泰が敗退するなど、
後醍醐方が優勢であったが、
12月中旬、箱根・竹ノ下の合戦で、
尊氏が新田義貞を破って以降、形勢は逆転する。


それから間もない12月19日、
義綱は、同族の阿曽沼朝綱に本領佐野荘へ乱入されたが、
佐野河原にてこれを追いかえした。

同月27日には、
足利氏一族の小俣少輔次郎に属して、
上野男山合戦に参戦。

28日、下野足利町河原合戦では、
敵2人を討ち取る。


この間の12月22日、
陸奥の北畠顕家が、大軍を率いて南下し、
鎌倉を攻撃しているから、
それにともなう戦争が、
関東各地で起きていたものと思われる。


年明けて建武3年(1336)正月9日、
上野新田城を攻め落とし、
笠懸原合戦では、敵1人を討ち取りつつ、乗馬を斬られた。

3月10日、
上野中野館でも、敵1人を討ち取り、
若党清弥九郎も、2人を討ち取った。


その後も義綱は、足利方に属して、
関東にて数々の戦功を立てた。


4月22日、上野利根川渡河戦では、
一族佐野清綱とともに、敵陣に先駆けし、
敵方阿代氏の被官五郎兵衛尉経政を討ち取る。

翌23日、上野板鼻合戦では、敵2人を討ち取りつつ、
乗馬を斬られる。

28日には、
父とともに、感状を与えられた。

29日、
下野沼和田合戦では、
旗差しの孫三郎が負傷。

6月20日、
下野古江山合戦で、
阿曽沼朝綱の被官土淵又六の肘を斬り落とす戦功。

8月9日にも、
下野天命堀籠で宿敵阿曽沼朝綱と戦い、
その家人飯土井四郎を斬った。

11月3日の宇都宮発向に際しては、
桃井直信麾下にあって、下野犬飼・栗崎合戦で先駆け、
武者1人、ほか2人を討ち取った。
だが、
敵の再襲を受け、義綱は討死。


翌月、
義綱の遺児安房一王丸は、父の戦功を室町幕府に訴え、
認められた。
「凡そ悲歎無極といえども、家名至極せしむるものや。」(「落合文書」)
元服前の幼い身とはいえ、安房一王丸にとって、
の戦死を嘆き悲しんでいる暇などなかったのである。
関東の南北朝内乱は、
義綱の死後、なお20年近く続く。


この佐野義綱の戦死は、
山内経之のように、時代の渦に巻き込まれた末の死のようにも見える。
だが、
本領佐野荘が隣接する阿曽沼郷の阿曽沼朝綱との幾度の争いというように、
近隣領主間の抗争という側面もあった。
南北朝内乱が、
上位権力(足利尊氏や後醍醐天皇など)の戦争であった半面、
実質的には、各地の領主たちの所領・境界をめぐる抗争という面も、
濃厚に有していたことを、示している。



〔参考〕
『南北朝遺文 関東編 1』 (東京堂出版 2007年)
櫻井彦『南北朝内乱と東国 (動乱の東国史)』 (吉川弘文館 2012年)
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