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死に様データベース
《誅殺》 《1448年》 《8月》 《8日》 《享年49歳》


室町幕府奉公衆。
播磨・備前・美作守護赤松満祐の弟。


嘉吉元年(1441)6月24日、
兄満祐と甥教康が、
将軍足利義教を自邸に招いて謀殺した。
主を欠いた幕府は、
混乱の末、ようやく赤松討伐軍を派遣し、
播磨国境各所で、激しい戦闘が行われた。

赤松則繁も、
兄弟とともに幕府軍と戦い、
8月26日の播磨蟹坂合戦で、敗れて退却する折、
加古川渡河に失敗し、溺死。
とされたが、
実際には生き延び、
赤松方最後の拠点、城山城の籠城戦にも参加、
落城の際には、甥教康とともに城を脱出した。


その後のしぶとさが興味深い。


行方知れずとなっていた則繁の足取りがつかめるのは、
翌々年の嘉吉3年(1443)のこと。
九州の菊池氏を頼ったのち、
朝鮮半島に渡り、散々に暴れ回っていた。
「一ヶ国を打ち取り」(『建内記』)というほどの、
広範な暴れぶりだったらしい。
その年の6月、
朝鮮王朝が、使者を室町幕府に遣わし、
則繁の討伐を訴えたのであった。


則繁は、その後再び九州に出没する。
当時、九州北部では、
幕府の支持を得つつ勢力を伸張させていた大内氏と、
対馬より筑前の奪回を狙っていた少弐氏が争っていた。
則繁はこの争いに首をつっこみ、
文安5年(1448)正月、
少弐嘉頼に与して、大内教弘と戦い、敗退している。
傭兵の頭目のような存在だったのだろうか。


しぶとい則繁であったが、
幕切れは意外にあっさりとしている。

同じ文安5年(1448)の8月、則繁は、
河内当麻にて、甥の赤松則尚に討たれた。
赤松氏は、一族の再興を目指して共闘していたが、
阿波守護細川持常から赤松則尚へ、
則繁の討伐と赦免等を引き換えとする誘引があり、
その結果、裏切られたという。

8月8日、
則繁と郎党大西某・魚住某の首が、京都に到着し、
18日未の刻(午後2時頃)、
将軍足利義成以下、管領細川勝元・畠山持国らによる首実検が行われ、
六条河原に晒された。


倭寇の時代、
国内外での広範な活動は珍しくないが、
こと大名家の親類というのは、
稀有な例ではなかろうか。



〔参考〕
『大日本古記録 建内記 5』 (岩波書店 1972年)
『大日本古記録 建内記 6』 (岩波書店 1974年)
『増補史料大成 康富記 2』 (臨川書店 1965年)
高坂好『赤松円心・満祐(人物叢書)』 (吉川弘文館 1970年)
東京大学史料編纂所データベース
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