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死に様データベース
《戦死》 《1355年》 《3月》 《12日》 《享年不明》


那須資藤は、
下野の豪族那須氏の一族であるが、
惣領ではなく、有力な庶流ではないかとされている。


観応3年(1352)、
足利尊氏は、弟直義との対立に決着をつけたものの、
この間に、雌伏していた南朝方が息を吹き返し、
さらには、
敗れた旧直義党が、南朝方と手を組んだため、
戦争はなお収まることがなかった。

ことに、
京都をめぐる南朝方と足利方(北朝方)の争いは、激しさを増しており、
一時は、
光厳・光明・崇光三上皇と東宮直仁親王を、南朝方に拉致されるなど、
北朝は苦境に陥っている。
尊氏・義詮と南朝・旧直義党の京都争奪戦は、
苛烈をきわめたのであった。


文和3年末、
南朝方と旧直義党の軍勢が京に迫った。
尊氏とその子義詮は、
防衛に不向きな京都を去り、
それぞれ近江・播磨に移り、挟撃の態勢をとった。

翌文和4年(1355)正月、
からっぽの京都に、
直義党の桃井直常・斯波氏頼らが入った。
ついで、
足利直冬と山名時氏・石塔頼房らも入京。
観応3年(1352)、文和2年(1353)、そして今回と、
南朝方、実に3度目の京都占領であった。


尊氏・義詮は、東西からじりじりと包囲の輪を縮め、
対する京都側は、
東寺実相院に足利直冬、
石清水八幡宮の男山に楠木正儀、
西山に山名時氏が陣を張り、
防衛線を構築した。


2月6日、
摂津芥川・山崎・神無山辺で、
義詮軍の赤松則祐・佐々木導誉らと楠木勢が衝突。

この激戦で南朝方を破った義詮は、京都に迫り、
戦場は市街地に移っていった。
尊氏も、西坂本より東山、ついで清水坂へ陣を移し、
洛中の南朝方を背後から脅かした。
この頃、
京都ではあちこちで、小競り合いや遭遇戦が起きている。


3月12日、
新日吉に陣し、洛中への橋頭堡を確保した尊氏は、
南朝方の本陣東寺へ、京都奪回の総攻撃をしかけた。
尊氏方は数千の大軍であったが、
南朝方は東寺八幡宮に立て籠もり、激戦となった。
雌雄は容易に決せず、
所々にあがった火の手は、京都の空を煙で覆い、
未の刻の初め(午後1時頃)でも真っ暗だったという。


この激戦の中、
那須資藤は尊氏の陣中にあった。


以下、『太平記』。

 この陣の寄せ手、ややもすれば懸け立てらるる体に見えければ、
 将軍(尊氏)より使者を立てられて、
 「那須五郎(資藤)を罷り向かうべし。」と仰せられける。
 那須は、この合戦に打ち出でけるはじめ、
 故郷の老母の許へ、人を下して、
 「今度の合戦にもし討死仕らば、親に先立つ身となりて、
  草の陰、苔の下までもお歎きあらんを、
  見奉らんずることこそ、思いやるも悲しく存じ候え。」
 と、申し遣わしたりければ、
 老母泣く泣く委細に返事を書きて、申し送りけるは、
 「いにしえより今に至るまで、
  武士の家に生まるる人、名を惜しみて命を惜しまず、
  皆これ妻子に名残を慕い、父母に別れを悲しむといえども、
  家を思い、嘲りを恥ずるゆえに、
  惜しかるべき命を捨つるものなり。
  はじめ身体髪膚を我に受けて、損ない破らざりしかば、
  その孝すでに顕れぬ。
  今また身を立ちて、道を行うて、名を後の世に揚げるは、
  これ孝の終りたるべし。
  されば、今度の合戦に相構えて、
  身命を軽んじて、先祖の名を失うべからず。
  これは元暦のいにしえ、曩祖那須与一資高は、
  屋島の合戦のとき、扇を射て名を揚げたりしときの母衣なり。」
 とて、
 薄紅の母衣を、錦の袋に入れてぞ送りたりける。
 さらでだに戦場に臨みて、いつも命を軽んずる那須五郎が、
 老母に義を勧められて、いよいよ気を励ましけるところに、
 将軍より別して使いを立てられ、
 「この陣の戦い難儀に及ぶ。向かいて敵を払え。」
 と、余儀もなく仰せられければ、
 那須、かつて一儀も申さず、畏まって領状す。
 ただいま味方の大勢ども、立つ足もなくまくり立てられ、
 敵みな勇み進める真ん中へ、会釈もなく懸け入りて、
 兄弟二人一族郎従三十六騎、一足もひかず討死しける。


一方で、『源威集』の記述。

 夜になりて帰陣すべしとて、
 手勢ばかり錣(しころ)を傾けて、ならび居たりしところに、
 もとの油小路より一手、後ろ塩小路より一手、
 大勢寄せ来たる間、
 当手ばかりにて、火を散じ、一足もひかず、
 資藤・忠資叔父甥、そのほか一族家人、
 討死手負い数輩なり。
 敵も手強く戦う間、討死手負い同前なり。
 敵本陣におさまりしかば、
 七条合戦は、やぶれにけり。
 資藤、息の下少しく通しければ、
 《金+崔》をもおろさず、母衣懸けながら、
 広戸にかい載せられて、
 将軍(尊氏)の御前へ参りたりければ、
 じかに数ヶ所の疵をご覧ぜられて、
 今度の振る舞い神妙の由、御感ありければ、
 忝くもお詞耳に入るかと覚えて、
 目をはたと見開き、
 血の付いたる手を合わせて、胸に置き、
 恐れ入りたるていにて、うちうなずきうちうなずき、
 命をおとしける。
 武将(尊氏)これをご覧ぜられて、
 お泪を浮かぶ。
 建武三、九州御下向の時、
 東国に一人の味方なかりしに、
 この資藤が父資忠一人、高館に籠りて、
 忠節せしことまで仰せられしぞ、忝し。


難戦への突入を「余儀もなく」命じた尊氏と、
瀕死の資藤の手をとり、涙ながらに軍功を褒する尊氏。
かたや親子の情を描きつつ、
一方では、主従の絆の話になっている。

死は、
その後の演出次第。


13日寅の刻(午前4時頃)、
多大な損害をこうむった南朝方は、
東寺から陣をひき、淀や石清水方面へ没落していった。
以降、南朝方が京都を占領することはない。



〔参考〕
『大日本史料』第6編 第19冊
江田郁夫「鎌倉・南北朝時代の那須惣領家」 (『中世東国の街道と武士団』 岩田書院 2010年)
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