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死に様データベース
《誅殺》 《1431年》 《正月》 《5日》 《享年11歳》


醍醐寺三宝院の小童。
大納言葉室長忠の子。


永享3年(1431)正月3日戌の刻の終わり(夜9時頃)、
三宝院の小童祢々丸は、
妙法院より帰る途次、三宝院の小門内にて、
何者かに頭部を斬りつけられた。
侍法師の祐尊に抱えられて、部屋の中まで運び込まれたが、
右側頭部、耳の上の三寸ほどの傷からは、
血がだらだらと流れ、
「目も当てられず」というありさまであった。

祢々丸は、駆けつけた師の三宝院満済を見ると、
嬉しそうに、
「死せんかのう」(死ぬんでしょうか)とつぶやいた。
満済は、涙をおさえて、
そんなことはない、と答えるしかなかった。

夜中のことで、近くに傷を診られる医者はおらず、
代わりに観音堂の住僧を呼んで、治療をさせた。
出血は甚だしかったが、
祢々丸は少しも苦しそうな様子を見せず、
受け答えもはきはきとしていた。
そのけなげなさまが、いっそう師満済の涙を誘うのであった。


祢々丸の証言によれば、
犯人は幸順寺主の中間の男だというが、
すでに逃れていて、捜索の手にかかることはなかった。
動機も不明。


翌4日、
祢々丸の容態は変わらず、
流血の不浄のため、沐浴させて、
道場にて回復のための修法が行われた。
さらに、
卯の刻の末(朝7時30分頃)、
三宝院より妙法院に移された。


翌5日辰の半刻(朝8時頃)、
祢々丸、帰寂。享年11歳。
法名を聖蓮禅師とし、
出家受戒を遂げたこととして、弔われた。
6日、火葬。


8歳の頃より、満済に仕え、
満済もこれをかわいがって、昼夜を問わず身辺に置いた。

 この体この式何年忘るべきか、
 万々悲涙、

 歎いて余りあり余りあり

 返す返すも祢々丸の事、
 久遠劫を経るといえども、
 この哀慟休まるべきか、
 万行の涙に溺れ、
 千回の腸を断つばかりなり (いずれも『満済准后日記』)

と、満済の慟哭はやまない。


2月10日、三十五日、
同月25日、中陰結願。
いずれも満済は、頓写経や諷誦文を作成している。



〔参考〕
『続群書類従 補遺一 満済准后日記(下)』 (続群書類従完成会 1928年)
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