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死に様データベース
《誅殺》 《1489年》 《4月》 《29日》 《享年22歳》


従五位下、侍従。
父は正三位・権中納言の烏丸益光。


烏丸資敦は、
日野流烏丸家の当主益光の実子として、
烏丸家を相続するはずであった。
しかし、腰痛の持病を患ったため、
その器でないとして、仏門に入れられてしまった。

文明7年(1475)末、父益光が30代半ばで病没すると、
まだ存命であった祖父資任は、
日野本宗家の勝光の実子冬光を養子に迎え、
烏丸家を継がせた。


ところが、
それから10数年、資敦の腰病は本復する。
資敦は還俗し、
長享2年(1488)、元服を果たした。

そして、
烏丸家の当主冬光に所領の分割を要求し、
訴訟を起こしたのである。
訴えを受けた室町殿足利義政は、資敦の要求を認めて、
冬光に所領の分割を命じたが、
冬光は応じようとしなかった。

この間、無収入の資敦は、
京都正親町烏丸に「不思儀の小屋」(『宣胤卿記』)を借りて、
青侍や雑色と暮らしていたという。


延徳元年(1489)4月29日夜、
資敦は夜盗に襲われ、青侍と雑色とともに殺害された。
22歳という(一説に16歳)。
冬光の差し金だとしきりに噂されたが、
冬光が罰せられた様子はない。


翌年には、同じ日野流の竹屋治光の子が、
資敦の跡継ぎと称して出仕しようとしたが、
取り合われることはなかった。



〔参考〕
東京大学史料編纂所データベース
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