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死に様データベース
《誅殺》 《1318年》 《11月》 《24日》 《享年35歳》


前参議、従三位。
綾小路家は、宇多源氏の一流で、
代々、郢曲(宮廷音楽のうちの歌いもの)を家業とした。

さて、今回の一件は、渡辺あゆみ氏の専論に詳しいので、
それに拠りつつ見てゆこう。


綾小路家の当主信有の嫡男であった有時は、
文保2年(1318)11月24日に行われる、
後醍醐天皇の清暑堂御遊の拍子役を命じられていた。
清暑堂御遊とは、天皇の代始に行われる音楽行事であり、
雅楽を家業とする家の者にとって、最重要の儀式であった。
30代半ばの有時は、
楽家の跡取りとして、これまでのキャリアもじゅうぶんであり、
満を持しての大役、ということであったようだ。


御遊当日の24日の夜、
有時が、会場となる内野(大内裏の跡地)に到着したとき、
事件はおこった。
鎌倉時代の歴史物語『増鏡』には次のように書かれている。
(仮名は適宜漢字に改めた。)

 清暑堂の御神楽の拍子の為に、綾小路宰相有時と言ふ人、
 大内(大内裏)へ参り侍るとて、車より降りられける程に、
 いとすくよかなる田舎侍めく物、太刀を抜きて走り寄る侭に、
 あや無く討ちてけり。
 さばかり立ちこみたる人の中にて、いと珍かにあさまし。
 さて拍子俄に異人承る。
 大事共果てて後、尋ね沙汰ある程に、
 紙屋川三位顕香と言ふ人の、
 此の拍子をいどみて、我こそつとむべけれと思ひければ、
 かかる事をせさせけり。
 道に好ける程はやさしけれども、いとむくつけし。(『増鏡』)

内野に入ったところで、牛車を下りようとしたところ、
屈強な田舎侍らしき人物が、太刀を抜いて走ってきて、
あっという間に有時をうち殺してしまった。
場所は、待賢門内とも郁芳門内とも、
有時は35歳とも36歳ともいわれている。


不慮の事件により、突如空席となってしまった拍子役に、
無慈悲な後醍醐天皇は、有時の弟で24歳になる有頼を当てようとしたが、
有頼は「悲歎」(『御遊抄』)により辞退し、
代わって参議中御門冬定がつとめることとなった。


その後、捜査が進められた結果、
従三位の紙屋川顕香という公卿が、
刺客を放った犯人である、とのことがわかった。
紙屋川顕香が有時の命を狙ったのは、拍子役を争ったため、
と、『増鏡』や『尊卑分脈』などは伝えているが、
顕香と有時とでは、雅楽界における経歴が比べものにならず、
とうていライバルにはなりえない、ともいう。
特に顕香は、公家のなかでも傍流の傍流に属する人物で、
故実に通じず、儀式での所作を間違えるなど、
公家社会では問題を起こす人物であったらしい。
有時とも、この直前に何らかのトラブルをおこしていたのではないか、
と推測されている。


捕えられた顕香は、武家に引き渡されて関東に護送され、
元亨元年(1321)8月付けで流罪となった。



〔参考文献〕
渡辺あゆみ「文保二年の綾小路有時殺害事件について」(『創価大学大学院紀要』32 2010年)
東京大学史料編纂所データベース
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