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死に様データベース
《誅殺》 《1365年》 《正月》 《24日》 《享年不明》


下総香取社(千葉県香取市)の神人。
神人とは、下級の神職のことで、
大禰宜などの上級神職に集団で仕えて、神社の武力を構成したとされる。


南北朝時代の香取社は、
神官内部の対立と、下総守護千葉氏の家臣による横暴に悩まされていた。
なかでも、千葉氏家臣の中村聖阿やその子胤幹は、
神官の一族の大中臣実持・実秋らと結託して、香取社の社領を侵犯し、
大禰宜(神官のトップ)の大中臣長房らとの対立を深めていた。


貞治4年(1365)正月24日、
中村胤幹は、多勢を率いて境内に押し寄せ、
社殿や神官らの居所に放火した。
神官たちは神輿を振りかざして対抗しようとしたが、
中村らに矢を射かけられ、
八龍神の木像も切り砕かれた。
その混乱のなかで、多くの神人も殺害されたのである。

中村らは、半月後の2月11日にも同様の事件を起こし、
神官らを逼塞させて、香取社を追い詰めることとなった。

なお、大禰宜大中臣長房の訴状には、
社殿や神官らの居所に放った火が、神殿にも燃え移ったこと、
神輿に矢を射かけたこと、
神像を切り砕いたことに次いで、
神人らの殺害、刃傷が記されている。
上級神職にとっては、神殿や神輿など神威の安泰こそが重大事であって、
下級神職の生死は二の次であったようだ。


さらに悪いことに、
同年9月、千葉氏の当主氏胤が美濃で客死し、
幼少の竹寿丸(のちの満胤)が当主の座に就くと、
家臣たちの統制はますますきかなくなっていった。
千葉氏の庶流の一族たちが中心となって、
竹寿丸を支えていくこととなったが、
重臣の円城寺氏政以下は、露骨にこれに反抗し、
中村胤幹らの横暴は、ますますひどくなっていった。


窮した香取社は、鎌倉府に訴えを起こしたが、
貞治6年(1367)4月には鎌倉公方足利基氏が病没し、
翌応安元年(1368)には、平一揆・宇都宮氏綱の乱も起こると、
鎌倉府はその対応に追われて、
香取社への裁定はなかなか下されなかった。

しびれを切らせた香取社が、
本所である藤原摂関家に訴えて、京都を巻き込みつつ、
鎌倉に神輿を振りかざして、鎌倉府に嗷訴して、
ようやく事態の鎮静化に漕ぎつけたのは、
事件から9年を経た応安7年(1374)のことである。


〔参考〕
小国浩寿「香取社応安訴訟事件の一背景―貞冶・応安期鎌倉府の守護・国人政策―」(『鎌倉府体制と東国』吉川弘文館 2001年)
『南北朝遺文 関東編 5』(東京堂出版 2012年)
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