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死に様データベース
《病死》 《1447年》 《7月》 《12日》 《享年15歳》


権中納言広橋兼郷の三男。

祖父広橋兼宣は、室町殿足利義持の信任を得てその手足となり、
ついには准大臣に昇るなど、京都政界で権勢を振るった。
父兼郷もその勢いを継いで、
一時は本宗家の日野家家督を襲うほどだったが、
将軍足利義教の勘気を蒙って失脚し、
文安3年(1446)4月、失意のうちにこの世を去った。
長兄春龍丸は父に先だって夭逝しており、
広橋家の命運は、
16歳の次兄綱光と14歳の阿婦丸の、若き兄弟の肩にかかっていたのである。


「大様のもの」(『建内記』)と評されるような、ぼんやりした性格の兄綱光と違い、
阿婦丸の性格は父兼郷に似ていたという。
才気煥発で抜け目がなく、人を圧するような面があったのだろうか。
人々は阿婦丸を怖れたという。

中年の後花園天皇はこの阿婦丸の才能を愛したようで、側近くに仕えさせた。
阿婦丸は連日のように内裏に祗候し、
兄の綱光も阿婦丸に、天皇への取り次ぎを求めている。


文安4年(1447)、
室町幕府政治の混乱と、おりしもの天候不順などで、
京都近郊では土一揆が頻発していた。
さらに「三日病」とよばれる咳病も流行し、社会は混迷の度を増していた。

6月半ば、綱光・阿婦丸兄弟もこれに罹った。
綱光はほどなく癒えたものの、阿婦丸はついに癒えず、
翌7月12日、わずか15歳で世を去った。

同日、同じく後花園天皇に近仕していた高倉永知も、18歳で死去している。


4か月後の11月16日、
後花園天皇は、典侍綱子(阿婦丸の伯母)の申し出もあって、
阿婦丸の詠歌を宸筆で書き留め、その末尾に次の御製を記した。

 わかのうらに跡のみ残るもしほ草 かきあつめてもぬるゝ袖かな

阿婦丸亡きあとの悲しみのほどがしれようか。

これを聞いた兄綱光は、
「面目のいたりであり、
 過分のほどはなかなか申し上げようもない。
 とくに御製をいただいたことは、格別である。
 阿婦丸も眉目のいたりと、さぞありがたく思ったことだろう。」(『綱光公記』)
と喜び、
「猶々殊勝々々、思出泪落袖々々々、」(同上)
と偲んでいる。


もし阿婦丸が長命であったら、
室町時代政治史はいかばかりか変わっていたろうか。



〔参考〕
『大日本古記録 建内記 9』(岩波書店、1982年)
『史料纂集 師郷記 第4』(続群書類従完成会、1987年)
遠藤珠紀・須田牧子・田中奈保・桃崎有一郎「史料紹介 綱光公記―文安三年・四年暦記」(『東京大学史料編纂所研究紀要』20、2010年)
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