死に様データベース
《病死》 《1084年》 《9月》 《22日》 《享年28歳》
右大臣源顕房とその正妻源隆子の娘。
白河天皇の中宮。
延久3年(1071)3月、15歳のとき、
賢子は左大臣藤原師実の養女として、皇太子貞仁親王に祗候した。
貞仁はこのとき18歳。
翌年、貞仁が即位すると(白河天皇)、
翌々年の延久5年(1073)7月、賢子は女御となって従四位下に叙され、
翌延久6年(1074)6月、立后して中宮となった。
承保元年(1075)12月には、第一皇子の敦文親王を産んでいる(ただし早逝)。
応徳元年(1084)9月15日、
中宮賢子はにわかに健康を害した。
「邪気の所為」と診断されたという(『扶桑略記』)。
実父の右大臣源顕房は、人相見であり、
その少し前、娘賢子のもとに参上したおり、
娘の薄命を悟って、その一両年の余命を予感していた。
顕房の妻は「縁起でもない、こんなに元気なのに」と夫を難じたが、
顕房は、
美麗によるべからざるなり。
生気なく成り給いたるものを。
として、今年か来年を越せないだろう、と言ったという(『古事談』巻6)。
数日前から天王寺(現・大阪市天王寺区)や住吉社(現・同住吉区)の参詣に出かけていた実父顕房は、
娘の病を聞いて、予定を切り上げて帰洛した。
17日、養父母の関白師実・麗子夫妻も、賢子を見舞っている。
和歌会なども取りやめとなり、皆ひっそりと賢子の容態を見守ったが、
病状は重篤であった。
22日卯の刻(朝6時頃)、里内裏三条殿において、中宮賢子崩御。享年28。
「万人泣涕止み難し」(『後二条師通記』)。
後代の所伝によると、
白河天皇は内裏が死穢となることを厭わず、危篤の賢子を内裏に留め、
臨終の際も賢子の腰を抱いて、離れようとしなかった。
中宮大夫藤原俊明が、「天皇が臨終に立ち会う先例はない」と諫言して離席を促すと、
白河天皇は、
例はこれよりこそ始まらめ。
と突っぱねたという(『古事談』巻2)。
天皇はこのとき31歳。
実際、悲しみのあまり、天皇は数日の間食事を摂らず、24日、悶絶した。
程なく快復したというが、悲嘆の程が知れよう。
24日、賢子の遺骸は四条高倉の備後守高階経成の邸に移され、
10月1日、鳥辺野で火葬された。
白河天皇は、賢子の月命日の毎月22日のたびに、
丈六(1丈6尺、5m弱、仏像の標準サイズ)の阿弥陀如来像を造立し、曼荼羅供を修することを定め、
一周忌までの間は、天下の政を停止して、節会や宴会の類も悉く中止とした。
この間、世間でも波風の立つような騒動など起きず、
人々は、
およびなく影も見ざりし月なれど雲隠るゝは悲しかりけり
と謳い、
翌年9月に右大弁藤原通俊は、
しぐれつゝ朽ちにし袖はいかゞするあはれうかりし秋は来にけり
と詠んだという(『栄花物語』巻40)。
いずれも賢子の他界を悲しむ歌だが、
かたや、雲の上の賢子を見たことのない月に喩え、
かたや、一年経っても涙がしぐれて袖が朽ちる、と嘆いてみせる。
これらを、いつまでも悲嘆に暮れて世の賑わいを消した白河天皇への皮肉と読むのは、
いささか邪推に過ぎようか。
なお、内裏女房で歌人の周防内侍も、賢子を偲んで、
浅茅原はかなくおきし草の上の露をかたみと思ひかけきや
いかにしてそらに知るらん世の中のこの月まではくもるべしとは
と詠んでいる。
翌応徳2年(1085)7月10日、
賢子の遺骨は、醍醐寺に新造された円光院という堂に納められた。
白河天皇はこのほか、
比叡山の麓に円徳院、同山内の飯室に勝楽院、洛東白河の法勝寺に常行堂を建てて、
賢子の菩提を弔った。
寛治元年(1087)12月には、実子の堀河天皇によって、賢子に太皇太后の称号が贈られている。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 扶桑略記 帝王編年紀』(吉川弘文館、1932年)
『日本古典文学大系 栄花物語 下』(岩波書店、1965年)
『新日本古典文学大系 古事談 続古事談』(岩波書店、2005年)
東京大学史料編纂所データベース
古池由美「堀河天皇の父と母―堀河天皇誕生から即位まで―」(『安田女子大学大学院文学研究科紀要』4集4号、1999年)
右大臣源顕房とその正妻源隆子の娘。
白河天皇の中宮。
延久3年(1071)3月、15歳のとき、
賢子は左大臣藤原師実の養女として、皇太子貞仁親王に祗候した。
貞仁はこのとき18歳。
翌年、貞仁が即位すると(白河天皇)、
翌々年の延久5年(1073)7月、賢子は女御となって従四位下に叙され、
翌延久6年(1074)6月、立后して中宮となった。
承保元年(1075)12月には、第一皇子の敦文親王を産んでいる(ただし早逝)。
応徳元年(1084)9月15日、
中宮賢子はにわかに健康を害した。
「邪気の所為」と診断されたという(『扶桑略記』)。
実父の右大臣源顕房は、人相見であり、
その少し前、娘賢子のもとに参上したおり、
娘の薄命を悟って、その一両年の余命を予感していた。
顕房の妻は「縁起でもない、こんなに元気なのに」と夫を難じたが、
顕房は、
美麗によるべからざるなり。
生気なく成り給いたるものを。
として、今年か来年を越せないだろう、と言ったという(『古事談』巻6)。
数日前から天王寺(現・大阪市天王寺区)や住吉社(現・同住吉区)の参詣に出かけていた実父顕房は、
娘の病を聞いて、予定を切り上げて帰洛した。
17日、養父母の関白師実・麗子夫妻も、賢子を見舞っている。
和歌会なども取りやめとなり、皆ひっそりと賢子の容態を見守ったが、
病状は重篤であった。
22日卯の刻(朝6時頃)、里内裏三条殿において、中宮賢子崩御。享年28。
「万人泣涕止み難し」(『後二条師通記』)。
後代の所伝によると、
白河天皇は内裏が死穢となることを厭わず、危篤の賢子を内裏に留め、
臨終の際も賢子の腰を抱いて、離れようとしなかった。
中宮大夫藤原俊明が、「天皇が臨終に立ち会う先例はない」と諫言して離席を促すと、
白河天皇は、
例はこれよりこそ始まらめ。
と突っぱねたという(『古事談』巻2)。
天皇はこのとき31歳。
実際、悲しみのあまり、天皇は数日の間食事を摂らず、24日、悶絶した。
程なく快復したというが、悲嘆の程が知れよう。
24日、賢子の遺骸は四条高倉の備後守高階経成の邸に移され、
10月1日、鳥辺野で火葬された。
白河天皇は、賢子の月命日の毎月22日のたびに、
丈六(1丈6尺、5m弱、仏像の標準サイズ)の阿弥陀如来像を造立し、曼荼羅供を修することを定め、
一周忌までの間は、天下の政を停止して、節会や宴会の類も悉く中止とした。
この間、世間でも波風の立つような騒動など起きず、
人々は、
およびなく影も見ざりし月なれど雲隠るゝは悲しかりけり
と謳い、
翌年9月に右大弁藤原通俊は、
しぐれつゝ朽ちにし袖はいかゞするあはれうかりし秋は来にけり
と詠んだという(『栄花物語』巻40)。
いずれも賢子の他界を悲しむ歌だが、
かたや、雲の上の賢子を見たことのない月に喩え、
かたや、一年経っても涙がしぐれて袖が朽ちる、と嘆いてみせる。
これらを、いつまでも悲嘆に暮れて世の賑わいを消した白河天皇への皮肉と読むのは、
いささか邪推に過ぎようか。
なお、内裏女房で歌人の周防内侍も、賢子を偲んで、
浅茅原はかなくおきし草の上の露をかたみと思ひかけきや
いかにしてそらに知るらん世の中のこの月まではくもるべしとは
と詠んでいる。
翌応徳2年(1085)7月10日、
賢子の遺骨は、醍醐寺に新造された円光院という堂に納められた。
白河天皇はこのほか、
比叡山の麓に円徳院、同山内の飯室に勝楽院、洛東白河の法勝寺に常行堂を建てて、
賢子の菩提を弔った。
寛治元年(1087)12月には、実子の堀河天皇によって、賢子に太皇太后の称号が贈られている。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 扶桑略記 帝王編年紀』(吉川弘文館、1932年)
『日本古典文学大系 栄花物語 下』(岩波書店、1965年)
『新日本古典文学大系 古事談 続古事談』(岩波書店、2005年)
東京大学史料編纂所データベース
古池由美「堀河天皇の父と母―堀河天皇誕生から即位まで―」(『安田女子大学大学院文学研究科紀要』4集4号、1999年)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 ~1299
1084 | ||
1095 | ||
1105 | ||
1150 | ||
1151 | ||
1177 | 1178 | |
1186 | ||
1188 | ||
1200 | ||
1207 | ||
1212 | 1213 | |
1225 | ||
1227 | ||
1230 | ||
1234 | ||
1242 | ||
1245 | ||
1250 | ||
1257 |
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
6歳 | ||
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
享年 50代~
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本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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