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死に様データベース
《自害》 《1488年》 《6月》 《9日》 《享年34歳》


加賀守護。

富樫家の家督をめぐる泰高と成春の争いは、
成春の子政親にも引き継がれ、
泰高と政親は、加賀国内で争った。
泰高の隠居後、
政親は富樫家の家督におさまったが、
今度は、応仁・文明の乱と絡んで、
弟幸千代との抗争が勃発。

文明5年(1475)、
政親は、一度は加賀を逐われたものの、
翌6年(1474)10月、
本願寺門徒や白山衆徒の支援を得、
幸千代を加賀より駆逐。


だが、
このことで本願寺門徒(一向一揆)の力を知り、
その伸長を恐れた政親は、
これと対立するに至る。

文明7年(1475)3月、政親は一向一揆を破り、
本願寺蓮如は、越前吉崎を逃れて、河内出口に移った。


ところが、
長享元年(1487)9月、
政親が、将軍足利義尚の六角高頼討伐に随って、
近江に出陣している隙をついて、
加賀一向一揆は、勢力を盛り返してきた。
12月、政親は雪路の中を慌てて帰国し、
加賀高尾城に入って、一向一揆と対峙。

一揆側は、富樫一族の山川高藤をとおして和議を申し入れたが、
政親はこれを聞かず、
長享2年(1488)5月、全面的な衝突に至った。


隣国越前の朝倉氏は、
室町幕府から政親への支援を命じられて出兵したが、
「一揆衆二十万人」(『蔭涼軒日録』)が高尾城を取り囲み、
支援できなかったという。

一向一揆についてしるした後代の書『官地論』には、
攻城側の陣容が記されている。
金剣・白山衆徒2,000は、諏訪口、
洲崎慶覚ら10,000は、上久安、
笠間家次7,000は、野市馬市、
安吉家長・河原衆8,000は、額口、
山本円正ら10,000は、山科山王林、
高橋新左衛門尉ら5,000は、押野山王林、
山八人衆ら諸勢は、山々峰々に隙間なく陣取り、
能美郡の勢50,000も、野市諏訪森に陣を張った。
合計で、92,000人超。

一揆勢は、加賀のみならず能登・越中の者も加わり、
「数万人に及ぶ」(『後法興院政家記』)とも。

実際の数字はよくわからないが、
6月初めまでに、相当な大軍が高尾城を取り囲んだことだけは、よくわかる。


『官地論』が書く、戦の推移が興味深い。

6月6日早朝、一揆勢は軍議をなし、
無駄な犠牲は出さず、兵糧攻めにしよう、
7・8日は日取りが悪い、
等々、さまざまに議論がなされ、
結局、7日早朝に力攻めで陥す、ということになった。
「骸を城の麓に晒し、名を末代まで残そう」
という言葉が、一同の意を決したという。

7日朝、額口をはじめ、各所で戦端が開かれ、
富樫政親は、「今日の合戦は国の分け目である」と全軍を鼓舞。
寄せ手も、今夜中に陥さんと猛攻をしかけ、
各所に放った火は、たちまちにして城を取り囲んだ。
城方の討死した将兵は数知れず。
その夜、政親は城内で、家臣たちや女房衆と、
最期の酒宴を開いた。

8日、政親は、一揆勢に妻女の助命を頼み、
自害しようとする妻を宥めて、
娘には、形見として琵琶の撥と尺八を渡し、
2人を輿に乗せて、城外に落とした。
別れ際の妻の歌、
 秋風の露の草葉を吹分けて同く消ぬ身を如何せん
政親の返歌、
 神懸て末の世契る梓弓引留へき袖にあらねば
妻はその後、越中を経て京都に上り、尼となった。

この日、翌日の攻撃に備えて
寄せ手は兵馬の息を休め、夜が明けるのを待った。

9日早朝、
政親のもとに300余人が集まり、最期の時を待った。
大手・搦め手で激戦が繰り広げられ、
血が城山を赤く染めた。

政親は、重臣たちの自害を見届けたのち、自害。
9寸5分(約29㎝)の鎧通しを、
左脇に突き立て、右手で引き回し、
引き抜いたのち、みぞおちからへそ下へ突き下ろした。
鮮血で、
 五蘊本空なりければ何者か借て来らん借て返さん
と辞世を詠み、
刀の切っ先を口に含み、貫いた。
子息千代松丸が死を見届けて、屋形を火に包んだ。
32歳とも、34歳とも、36歳ともいう。


この政親に代わって、
一向一揆に加賀守護・富樫惣領として担ぎ出されたのは、
誰あろう、かつて政親と対立し、隠居した泰高であった。
政親の首実検をした泰高は、
 思きや老木の花は残りつつ若木の桜先づ散んとは
と詠んで、涙を流した。


泰高が立てられたとはいえ、傀儡であった。
加賀一国は、一向一揆の支配下となったのである。
以降100年あまり続く、「百姓の持ちたる国」の始まりである。



〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅲ』 (石川県 2003)
『国史大辞典 第10巻 (と-にそ)』 (吉川弘文館 1989)
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