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死に様データベース
《戦死》 《1506年》 《9月》 《19日》 《享年42歳》


越後守護代。
一時、主君の越後守護上杉房能と対立することもあったが、
その後は主君に随い、越後国内や関東を転戦した。


永正3年(1506)、
加賀・能登・越前・越中・美濃・尾張等、
諸国の一向一揆がいっせいに蜂起した。
加賀の隣国である越前・越中では、特に激しかったらしい。
すでに加賀では、
長享2年(1488)、守護富樫政親を滅ぼして以来、
一向一揆による一国支配が行われており、
加賀の一揆勢が、どっと隣国へ攻め寄せたのと呼応して、
国内の一向衆も蜂起したのである。

越前では、さっそく朝倉貞景らが鎮圧に乗り出し、
各所で激戦が繰り広げられた。

越中でも、守護代神保慶宗や遊佐慶親が鎮圧にあたったが、
思うように進まず、
隣国越後に援軍を頼ることとなった。

7月に越後を発ち、越中に入った長尾能景の軍勢は、
神保慶宗勢と合流し、
8月、越中蓮台寺の戦いで一揆勢を撃破。
9月18日、中村・般若野等で再び両勢は激突。
その乱戦のなか、能景は討死した。
一揆勢の意気は、ますます上がったという。


一向一揆の勢力が越後へ及ぶことを危惧して、出兵したとはいえ、
これまた、他人の巻き添えのような死。

一説に、
援軍を依頼したはずの神保慶宗が、後方で裏切ったとも。
これを信じた能景の子為景は、
のち、神保慶宗を親の仇として討つこととなるが、
それはまた別の話。



〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅴ』 (石川県 2006)
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