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死に様データベース
《病死》 《1242年》 《6月》 《15日》 《享年60歳》


第3代鎌倉幕府執権。

承久3年(1221)の承久の乱では、
幕府軍の総大将として上洛し、
乱を鎮定後も、六波羅探題北方として、
京都・畿内・西国の支配に当たった。

元仁元年(1224)6月、
2代執権である父義時の死をうけて、
鎌倉に帰り、執権となった。
その後、連署・評定衆を設置するなど、
幕府政治の刷新を図り、
貞永元年(1232)には、
武家最初の法典『御成敗式目』を制定。
鎌倉周辺の街道・港湾の整備、
鎌倉大仏建立の支援などもしている。

北条泰時は、鎌倉幕府権力確立の立役者として名高い。


仁治3年(1242)、
泰時は所労により、病臥した。
5月8日、出家。
10日には、
小康状態となり、食事も摂ったが、
翌11日より悪化、
12日、さらに悪化し、
15日未の刻(午後2時頃)から、人事不省、発熱。
高熱のあまり、人を寄せ付けず、
亥の刻(夜10時頃)、苦しみ悶えて事切れた。
赤痢にも罹ったらしい。


泰時病臥・死去の報は、京都の公家たちも動揺させ、
噂や密談がしきりと飛び交った。
承久の乱で敗れた後鳥羽上皇の祟りだ、とも言われている。
京都では、触穢のため、朝儀が30日間停止された。


勘解由小路経光は、
「近年、国家の重大事は、
 彼の取り計らいによっていたが、
 廉直な人柄で、道理をまず立て、
 堯舜の生まれ変わりのようであった。」(『経光卿記抄』)
と褒めちぎっている。
が、
高熱に苦しみ、独り死んだのは、
帝に弓をひいた「極重悪人」だからであって、
東大寺・興福寺を焼いた、平清盛の臨終の際と似ている、
としている。


なお、
父義時の命日が、6月13日、
承久の乱での幕府軍入京が、6月14日。
6月には何かが起きる。
この奇妙な符合は、当時の人々を震撼させた。



〔参考〕
『大日本史料 第五編之十四』 (東京大学出版会 1952)
『国史大辞典 第12巻 (ふ-ほ)』 (吉川弘文館 1991)
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