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死に様データベース
《病死》 《1234年》 《7月》 《27日》 《享年32歳》


名は「鞠子」ともいわれるが、不詳。
鎌倉幕府2代将軍源頼家の娘。
4代将軍藤原頼経の室。
初代将軍源頼朝の孫にあたる。


父頼家や兄弟たち、また叔父実朝らが、
政争によって非業の死を遂げていくなかで、
竹御所は源家将軍の血統をひく者として、北条政子の後継者となり、
その没後は、鎌倉幕府の御家人をまとめる要のような存在となった。


寛喜2年(1230)12月、
3代将軍実朝の横死後、
京都の九条家から迎えられた4代将軍藤原頼経に嫁した。
竹御所、28歳。頼経、13歳。


文暦元年(1234)3月1日、
身ごもった竹御所は、着帯の儀を行った。
7月26日、
臨月を迎えた竹御所は、御産所として大叔父北条時房の邸に入った。
子の刻(深夜0時ごろ)、産気づき、
源家将軍の血をひく子の誕生を喜ぶ御家人たちが、
鳴弦役として祗候した。
しかし、
翌27日寅の刻(早朝4時頃)、男児を死産。
難産だったためか、竹御所自身も産後に回復せず、
辰の刻(朝8時頃)、逝去。
32歳。
当時としては、高齢出産だっただろう。


殿中は、悲しみのあまり、
女児の笑い声すら絶え、
ひっそりとして、悲嘆に暮れたという。

これによって、
源頼朝の血統をひく者は、まったく絶えてしまった。
御家人たちにも動揺が広がり、
京都に詰めていた御家人たちも、みな急ぎ鎌倉へ下っていった。


藤原定家は、
「源家将軍の血が絶えたのは、
 頼朝が平家の子どもたちを根絶やしにした、
 その報いではなかろうか。」(『明月記』)
と日記に記している。
京都では前年、後堀河天皇の中宮藻璧門院が、
難産の末、母子ともに薨じたばかりだった。



〔参考〕
『大日本史料 第五編之九』 (東京大学出版会 1971)
佐藤和彦・谷口榮編『吾妻鏡事典』 (東京堂出版 2007)
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