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死に様データベース
《病死》 《1514年》 《8月》 《24日》 《享年72歳》


白井長尾氏。
武蔵鉢形・日野城主。


長尾景春の祖父、長尾景仲は、
関東管領山内上杉氏の家宰をつとめた人物で、
上杉氏勢力の中核として、
鎌倉公方足利成氏(のち古河公方)と対立し、
享徳の大乱を原因をつくったひとりであった。

景仲ののち、鎌倉長尾実景を経て、
山内上杉氏の家宰職は、
景仲の嫡子景信が継承した。
景信は、父と同じく、
古河公方足利成氏と戦い続けた。


文明5年(1473)6月、
景信が死ぬと、
山内上杉氏の家宰職は、
景信の嫡子景春が継ぐはずだった。
ところが、
若き主人山内上杉顕定や、宿老寺尾憲明・海野佐渡守の談合によって、
家宰職は、
景信の弟(景春の叔父)惣社長尾忠景が継ぐこととなってしまった。
この恨みが、
景春を飽くなき闘争へと駆り立てることとなる。


文明6年(1474)頃、
景春は、上杉氏の本拠武蔵五十子陣の糧道を塞いで、
上杉方を困窮させた。
翌文明7年(1475)、
この、上杉方内部分裂の危機に、
扇谷上杉氏の家宰太田道灌が仲介に入るが、
その甲斐なく、不穏な状況が続く。

そして、文明8年(1476)、
景春は、ついに五十子陣を退去し、
武蔵鉢形城を築いて、立て籠もった。
山内上杉氏内部には、
当主顕定や家宰惣社長尾忠景らに不満を抱く者が、少なからずいたようで、
景春与党は、2、3000人に上った。

文明9年(1477)正月18日、
景春は、鉢形城より、眼下の五十子陣を急襲。
五十子陣は崩壊し、
主人山内上杉顕定・扇谷上杉定正・長尾忠景・太田道灌らは、
北方の上野へ退いた。
下剋上である。


景春は、鉢形城を拠点に、
与党を武蔵・相模全土に募り、
さらに、古河公方足利成氏の支援も得て、
上杉方を窮地に追い込んだ。
だが、
太田道灌の東奔西走、
および、上杉方と足利成氏の停戦協定によって、
徐々に掃討されていった。
景春は、反上杉の強硬派千葉孝胤と結び、
なおも反抗を続けたが、
文明10年(1478)7月には、
足利成氏も、景春討伐に協力するに至った。

武蔵秩父で、細々とゲリラ戦を展開していた景春は、
文明12年(1480)1月、
武蔵児玉で、ふたたび蜂起。
ここにきて、足利成氏がふたたび景春を支援に動く。
成氏は、景春を交渉役として、
対立していた室町幕府との和睦を模索しつつ、
景春を軍事的に支援したが、
6月24日、
景春の本拠秩父日野城を、太田道灌に陥され、
景春は没落した。
ここに、景春の最初の反抗が終息する。


没落した景春は、
しばらく古河公方足利成氏のもとにあったとされる。

その間、
成氏と幕府の和睦による、享徳の大乱の終結、
太田道灌の憤死を経て、
関東は、山内上杉氏と扇谷上杉氏の対立(長享の乱)という、
新たな戦乱に突入した。
古河公方足利氏が、この対立に定見なく介入したため、
戦乱はより複雑・長期化していく。


長享2年(1488)、
景春は、扇谷上杉氏・古河公方方として、長享の乱に参加。
6月7日の武蔵須賀谷原合戦、
11月15日の武蔵高見原合戦で、
景春は、古河公方足利政氏(成氏の子)の部将として、
扇谷上杉定正とともに、旧主山内上杉顕定と戦い、活躍した。
ところが、
明応3年(1494)、
古河公方足利政氏が、山内上杉氏支援に転じると、
景春は、政氏から離れて、扇谷方に留まった。
あくまで山内上杉氏には与さない、
という、頑なな姿勢である。
景春の嫡子景英は、山内方に従ったため、
父子は相争うこととなった。

上野・武蔵・相模で繰り広げられた長享の乱は、
永正2年(1505)3月、
扇谷方の敗北によって終結。
これにより、
景春は、およそ30年ぶりに山内上杉顕定に帰参。
2度目の反抗、終わり。


永正3年(1506)、
今度は、古河公方足利政氏・高基父子の対立(永正の乱)が、
関東を戦乱の渦に巻き込んだ。
山内・扇谷上杉氏は、足利政氏に味方したが、
永正4年(1507)、
越後で、長尾為景が、
山内上杉顕定の弟越後上杉房能を、下剋上で討ち、
永正6年(1509)
伊豆の伊勢宗瑞が、長尾為景と結んで、
扇谷上杉氏より離叛、相模・武蔵へ侵攻。
そして、永正7年(1510)、
長尾景春は、
長尾為景・伊勢宗瑞と組んで、山内上杉氏から離叛した。
景春、3度目の反抗。

為景や宗瑞と連携しつつ、
景春は、相模や武蔵、上野で、山内・扇谷上杉氏と戦った。
永正8年(1511)、
敗走先の甲斐都留より、武蔵に進攻するも、
また敗れて、駿河の伊勢宗瑞のもとにに退去した。

永正11年(1514)8月24日、
執念の鬼、不死鳥のごとき景春も、ついに死す。
72歳。
場所は伝わらないが、退去先の何処かとされている。


3度も主家に反抗して、
関東を戦乱にひきずりこみながら、
景春は、畳の上で死んだ。
かつての宿敵、太田道灌とは、ずいぶん対照的である。
死に様が、必ずしも生き様を映すとは限らない。

しかし、世が戦国の世へと進んでいくなかで、
景春は、下剋上を成功させながら、
長尾為景(上杉謙信の父)や、伊勢宗瑞(後北条氏の祖)と異なり、
戦国大名へと脱皮することはできなかった。
独立的な権力、まとまった“領国”を、持つことができなかったのである。
景春が、そのことをどう考えていたのか、
今日知るすべはない。



〔参考〕
黒田基樹編『長尾景春 (シリーズ・中世関東武士の研究)』 (戎光祥出版 2010)
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