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死に様データベース
《病死》 《1372年》 《3月》 《29日》 《享年不明》


室町幕府問注所執事・引付方・評定衆、
鎌倉府問注所執事。


太田顕之は、鎌倉時代以来の法曹官僚の家に生まれ、
自らもその職能をもって、
南北朝内乱期の足利氏に仕えた。

貞和2年(1346)・同5年(1349)正月の将軍足利尊氏の評定始には、
高師直・佐々木導誉らとともに、参列している。


観応の擾乱では、
直義方につき、直義の北国落ちにも随ったが、
擾乱後、幕府に復帰し、
文和3年(1354)5月の足利義詮の評定始に、
仁木頼章・佐々木導誉らと参列している。


その後、京都から鎌倉に移り、
鎌倉公方足利基氏に、問注所執事として仕えたらしい。
隼人正入道沙弥善照」・「雪林善照居士」・「問注所雪林居士」の名で、
記録等に散見されるが、
その活動はあまり明らかでない。


応安5年(1372)3月29日、
急死。

火葬の際の火付け役を頼まれたが、
病気を理由に断った義堂周信は、
「嗚呼哀しい哉。
 天下安危は、一人にかかっていた。
 今後世の中はどうなるだろう。
 思えば、こんにち世の人で言動に慎み深いのは、
 だけであった。
 いまや、姦佞の者どものどこに、慎み深い者がいるだろうか。
 ましてや、我が宗門に頼むべき人などいるはずもない。」(『空華日用工夫略集』)
と、その死を嘆き悼んだ。


この周信の記より、
顕行が能吏であったことが、うかがえる。

そして、周信の恐れどおり、
「天下安危」を支えた顕行の死後、
鎌倉では、円覚寺と建長寺の僧侶の衝突が激化したり、
下総香取社の社人たちが、千葉氏の横暴を訴えて、神輿を担いで乗り込んだりと、
きな臭い、物騒なさわぎが続いた。

官僚の重みというものか。



〔参考〕
蔭木英雄『訓注空華日用工夫略集 中世禅僧の生活と文学』 (思文閣出版 1982)
新田一郎「「問注所氏」小考」 (『遥かなる中世』8 1987)
湯山学「鎌倉府と問注所執事三善氏」 (『鎌倉府の研究』 岩田書院 2011)
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