忍者ブログ
死に様データベース
《誅殺》 《1441年》 《6月》 《24日》 《享年48歳》


第6代室町幕府将軍。


3代将軍義満の庶子として、はじめ僧籍に入れられたが、
後継者を決めぬまま室町殿足利義持が世を去った後、
神前でのくじ引きによって決められた、希代の将軍である。

その自負、あるいは負い目からか、
政治へ意欲的に取り組んだが、
徐々に、気に食わぬ者は罰するという、「万人恐怖」の政治へ傾いていった。
公家・武家・僧を問わず、
この将軍足利義教によって、
討たれた者、所領を召し上げられた者、放逐された者、籠居を余儀なくされた者は、
数知れない。


嘉吉元年(1441)6月24日、
雨の降るこの日の未の斜め(午後3時頃)、
義教は、播磨・美作・備前守護赤松満祐の子教康に、
結城合戦の戦勝祝いとして招かれ、その屋形に赴いた。
管領細川持之をはじめ、諸大名がこれに相伴した。


前日の23日
義教の腰刀が鞘走った。
他のものに取り替えさせたが、
またこれも鞘走った。
このことに、義教はたいそう腹を立てたというが、
これが不吉の兆しであったらしい。


一献ニ献と盃を重ね、猿楽が始まろうという時分、
にわかに屋敷内に騒ぎが起こった。
義教が、
「何事ぞ」
と周囲に尋ねると、
そばにいた正親町三条実雅が、
「雷鳴でしょうか」
と答えた。
その途端、
義教の背後の障子が、がらりと開いて、
武装した武士が数十人飛び出し、
たちまちに義教を討ち取ってしまった。
公家の三条実雅は、
引き出物として御前にあった金覆輪の太刀を引き抜き、防戦したが、
転倒して斬り伏せられた。
山名煕貴は、防戦のすえ、討死。
細川持春も、腰刀で防戦したが、
片腕を斬り落とされ、赤松邸を脱出。
同じく抜刀、防戦し、負傷した大内持世・京極高数・遠山某は、
帰邸したところで、絶命。
細川持之・持常・一色教親・赤松貞村らは、闘わずして逃走。
そのほか、人々は右往左往して逃げ惑い、
義教の御前で殉じる者はいなかったという。


「将軍かくのごとき犬死、古来その例を聞かざることなり。」(『看聞日記』)


「次討たれるのは自分だ」という危惧から、この所業に及んだらしい赤松一族は、
屋敷での一戦を覚悟したが、
諸大名のうちで、これを討とうというものはなかった。
それゆえ、
彼らは自邸に火を放ち、
義教の首を抱えて、悠々と洛中を抜け、
本国播磨へ下っていった。

義教の死骸は、翌25日、焼け跡より探し出され、
等持院へ移されたのち、
7月1日、荼毘。
首は、摂津中嶋に置き捨てられたものを、拾ってきたらしい。


6月26日、
義教に嫌われて罰せられていた人々の赦免があり、
ようやく幕府軍が、赤松討伐の途につくのは、
7月11日のこと。



〔参考〕
『大日本古記録 建内記 3』 (岩波書店 1968年)
『史料纂集 77 師郷記 3』 (続群書類従完成会 1986年)
『図書寮叢刊 看聞日記 6』 (宮内庁書陵部 2012年)
今谷明『籤引き将軍足利義教』 (講談社 2003年)
森茂暁『室町幕府崩壊 将軍義教の野望と挫折 (角川選書)』 (角川学芸出版 2011年)
PR
Comment
Name:
Title:
Color:
Mail:
URL:
Comment:
Pass:   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
102  101  100  99  98  97  96  95  94  93  92 
ブログ内検索
死因
病死

 :病気やその他体調の変化による死去。
戦死

 :戦場での戦闘による落命。
誅殺

 :処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害

 :切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死

 :事故・災害等による不慮の死。
不詳

 :謎の死。
本サイトについて
 本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
 当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
 内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
最新コメント
[10/20 世良 康雄]
[08/18 記主]
[09/05 記主]
[04/29 記主]
[03/07 記主]
[01/24 記主]
[03/18 記主]
[03/20 記主]
[07/19 記主]
[06/13 記主]
アクセス解析
忍者アナライズ
P R
Admin / Write
忍者ブログ [PR]