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死に様データベース
《病死》 《1443年》 《7月》 《21日》 《享年10歳》


第7代室町幕府将軍。


足利義勝は、
嘉吉元年(1441)6月の父義教の横死により、
管領細川持之らに擁されて、8歳で将軍となった。


嘉吉3年(1443)7月12日、
義勝、赤痢発病。
16日には、食事のできぬほどに悪化したが、
翌17日、医師和気茂成の献じた秘薬によって、やや回復。

医師茂成の見立てによれば、
腹の痢病自体は治まりつつあるが、
「邪気」がひどく、回復を妨げているという。
その「邪気」の正体というのが、
義教によって殺された人々の怨霊であり、
一色義貫や足利持氏、赤松満祐らの怨霊が、義教から7代後までとり殺す、
ということであった。

19日は、容態は比較的安定していたが、
20日、危篤に陥り、下血。
21日明け方、没。
わずか10歳。
雷が激しく鳴り、雨がひどく降る日であったという。


23日、
遺骸は足利家の菩提寺等持院に移され、
29日晩、荼毘。
称号は慶雲院、道号栄山、法名道春。


利発な性格であり、将来を嘱望されていただけに、
みな悲歎に暮れた。
烏丸資任が養育していた弟三春(のちの義政)が、
早々に後継者に定められた。


この後、将軍邸や大名家、寺社で奇怪なことが相次ぐ。
石清水八幡宮の大木が、風もないのに倒れた。
山名持豊の厩の馬がものを言った。
京極持清邸の畳の上に蔬が生えた。
常在光院に一色義貫の亡霊が現れた。
管領畠山持国の厩の馬がものを言い、烏に食いついた。
特に、将軍邸には、
身長7尺ばかり(約210cm)の女房や大入道、人食い妖怪が徘徊し、
女中も番衆も、とても暮らしておれず、
別の地に新たに御所を造営することになった。


頻発する火事や、慢性的な飢饉、悪党の跋扈等、
洛中には終末感が漂っている。



〔参考〕
『続群書類従 補遺 4 看聞御記 下』 (続群書類従完成会 1930年)
『増補史料大成 37 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
『大日本古記録 建内記 6』 (岩波書店 1974年)
『史料纂集 77 師郷記 3』 (続群書類従完成会 1986年)
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