死に様データベース
《病死》 《1476年》 《6月》 《15日》 《享年48歳》
西行の和歌、
ねがはくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ
にもあるように、
中世の人々は、
15日の夜、つまり満月の夜に往生することを願った、という。
前内大臣日野勝光も、15日往生を求めたひとりだった。
日野流の分家裏松政光の嫡男として生まれた日野勝光の幼少期は、
祖父義資の横死や宗家の有光の失脚、有光の子資親の処刑など、
日野家受難の時代であった。
勝光は、廃絶した日野宗家の家督を継いで、その再興を果たすと、
やがて受難の時代は去り、
勝光は順調に昇進したばかりでなく、
妹富子が、8代将軍足利義政の正室、9代将軍義尚の母、
さらに、娘が義尚の正室となり、
将軍家の外戚という、かつての日野家の位置を取り戻した。
そればかりか、
応仁・文明の乱という政治の混乱期にも暗躍し、
足利義政・義尚の側近くにあって、大いに権勢をふるった。
蓄財もすさまじく、
「和漢の重宝を山岳の如く集め置」(『長興宿祢記』)いた。
文明8年(1476)4月下旬、
勝光は「雑熱」(『親長卿記』『実隆公記』)に冒されていた。
原因は、「腫物癰」(『長興宿祢記』)だったらしい。
医師は大事ないと診断したが、容体は悪化の一途をたどったようで、
5月10日頃には、「難儀」(『親長卿記』)、「危急之体」(『実隆公記』)となり、
妹の富子が兄のもとに駆けつけた。
14日には、平癒のため陰陽師によって泰山府君祭が行われている。
この頃から、勝光は死への準備を着々と進めている。
往生のことや葬儀のことなどを、あれこれと差配し、
300貫という多額のお布施を準備している。
また、5月16日には、日野家ではじめて左大臣に任じられた。
日野家の家格では、本来左大臣に昇ることはできないが、
足利将軍家の執奏によって、はじめて実現したのである。
6月に入ると、病状は一時安定し、食欲も回復したようだが、
8日夕、医師竹田昭慶の処方した薬を服用したところ、
たちまち容体は一変した。
勝光は、
もし今回の病で命ながらえるようなことがあれば、竹田昭慶の子孫は医師をやめよ(『雅久宿祢記』)
と、周囲に言い散らしていたといい、
勝光の病状安定に慌てた昭慶が毒を盛った、との噂が流れた。
勝光の発言の真意はよくわからないが、
入念な往生の準備に水を差されることが、嫌だったのだろうか。
10日、「腫物」は病勢を増し、
ついに勝光は、目の前の人を認知することすらできなくなった。
11日には、視線を交わす程度のことはできたようだが、
14日に、義政・富子・義尚一家が見舞いに訪れたのを、理解していたかどうか。
かくして、6月15日未明、
知恩寺の僧4、5人が念仏を勧めるなか、
南枕で西を向いて横たわり、8歳の嫡男政資が水を供える前で、
勝光は息を引き取った。
享年48歳。
年来勝光は、15日に往生したいと願っていたという。
「不思議の事なり。」(『親長卿記』)
なお、供水は死後に行うことだが、
幼い政資が「死面」(『雅久宿祢記』)を怖がったため、
勝光が眠っているときに行ったのだという。
明け方、遺体は知恩寺に移され、
19日辰の刻(朝8時頃)、葬儀が行われて、
同寺法誉上人の沙汰により、千本歓喜寺に土葬された。
院号は、遺言により「唯称院」。
所領の分配はこれも遺言により、吉田兼倶に一任された。
朝儀の停滞を避けるため、
公家全般は、触穢としない旨が通達されたが、
当然ながら、日野一家の人々は触穢とされた。
ただし、日野家のうちでも柳原量光のみは、
父資綱が神事にかかわる関係から、触穢とされていない。
義政は、乙穢(穢れの及ぶ範囲に関する等級のひとつ)とされている。
大乗院尋尊は、
勝光が左大臣に任じられてから、30日に満たずに死んだのを、
「希有の神罰」(『大乗院寺社雑事記』)と酷評している。
敵の多い人生ではあっただろうけれど、
これはいささか言いがかりのような気がしなくもない。
〔参考文献〕
黒田智「弘法大師の十五夜―願われた死の日時―」 (藤巻和宏編『聖地と聖人の東西―起源はいかに語られるか―』勉誠出版 2011年)
『大日本史料』第8編之8 (東京大学出版会 1970年)
西行の和歌、
ねがはくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ
にもあるように、
中世の人々は、
15日の夜、つまり満月の夜に往生することを願った、という。
前内大臣日野勝光も、15日往生を求めたひとりだった。
日野流の分家裏松政光の嫡男として生まれた日野勝光の幼少期は、
祖父義資の横死や宗家の有光の失脚、有光の子資親の処刑など、
日野家受難の時代であった。
勝光は、廃絶した日野宗家の家督を継いで、その再興を果たすと、
やがて受難の時代は去り、
勝光は順調に昇進したばかりでなく、
妹富子が、8代将軍足利義政の正室、9代将軍義尚の母、
さらに、娘が義尚の正室となり、
将軍家の外戚という、かつての日野家の位置を取り戻した。
そればかりか、
応仁・文明の乱という政治の混乱期にも暗躍し、
足利義政・義尚の側近くにあって、大いに権勢をふるった。
蓄財もすさまじく、
「和漢の重宝を山岳の如く集め置」(『長興宿祢記』)いた。
文明8年(1476)4月下旬、
勝光は「雑熱」(『親長卿記』『実隆公記』)に冒されていた。
原因は、「腫物癰」(『長興宿祢記』)だったらしい。
医師は大事ないと診断したが、容体は悪化の一途をたどったようで、
5月10日頃には、「難儀」(『親長卿記』)、「危急之体」(『実隆公記』)となり、
妹の富子が兄のもとに駆けつけた。
14日には、平癒のため陰陽師によって泰山府君祭が行われている。
この頃から、勝光は死への準備を着々と進めている。
往生のことや葬儀のことなどを、あれこれと差配し、
300貫という多額のお布施を準備している。
また、5月16日には、日野家ではじめて左大臣に任じられた。
日野家の家格では、本来左大臣に昇ることはできないが、
足利将軍家の執奏によって、はじめて実現したのである。
6月に入ると、病状は一時安定し、食欲も回復したようだが、
8日夕、医師竹田昭慶の処方した薬を服用したところ、
たちまち容体は一変した。
勝光は、
もし今回の病で命ながらえるようなことがあれば、竹田昭慶の子孫は医師をやめよ(『雅久宿祢記』)
と、周囲に言い散らしていたといい、
勝光の病状安定に慌てた昭慶が毒を盛った、との噂が流れた。
勝光の発言の真意はよくわからないが、
入念な往生の準備に水を差されることが、嫌だったのだろうか。
10日、「腫物」は病勢を増し、
ついに勝光は、目の前の人を認知することすらできなくなった。
11日には、視線を交わす程度のことはできたようだが、
14日に、義政・富子・義尚一家が見舞いに訪れたのを、理解していたかどうか。
かくして、6月15日未明、
知恩寺の僧4、5人が念仏を勧めるなか、
南枕で西を向いて横たわり、8歳の嫡男政資が水を供える前で、
勝光は息を引き取った。
享年48歳。
年来勝光は、15日に往生したいと願っていたという。
「不思議の事なり。」(『親長卿記』)
なお、供水は死後に行うことだが、
幼い政資が「死面」(『雅久宿祢記』)を怖がったため、
勝光が眠っているときに行ったのだという。
明け方、遺体は知恩寺に移され、
19日辰の刻(朝8時頃)、葬儀が行われて、
同寺法誉上人の沙汰により、千本歓喜寺に土葬された。
院号は、遺言により「唯称院」。
所領の分配はこれも遺言により、吉田兼倶に一任された。
朝儀の停滞を避けるため、
公家全般は、触穢としない旨が通達されたが、
当然ながら、日野一家の人々は触穢とされた。
ただし、日野家のうちでも柳原量光のみは、
父資綱が神事にかかわる関係から、触穢とされていない。
義政は、乙穢(穢れの及ぶ範囲に関する等級のひとつ)とされている。
大乗院尋尊は、
勝光が左大臣に任じられてから、30日に満たずに死んだのを、
「希有の神罰」(『大乗院寺社雑事記』)と酷評している。
敵の多い人生ではあっただろうけれど、
これはいささか言いがかりのような気がしなくもない。
〔参考文献〕
黒田智「弘法大師の十五夜―願われた死の日時―」 (藤巻和宏編『聖地と聖人の東西―起源はいかに語られるか―』勉誠出版 2011年)
『大日本史料』第8編之8 (東京大学出版会 1970年)
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《自害》 《1475年》 《10月》 《某日》 《享年53歳》
南方の海のかなたには、
「補陀落」と呼ばれる観音の浄土がある、とされた。
浄土を目指す人々は、熊野や土佐の海岸から船に乗り、補陀落に向かった。
古来より幾人もの人々が、黒潮の荒い太平洋に小舟で漕ぎ出で、
「補陀落渡海」を遂げたのである。
さて、万里小路冬房。
従一位、准大臣。
万里小路時房の嫡男。
はじめは成房と名乗った。
伝奏として公武の間で活躍した父時房と同じく、
冬房もまた弁官や蔵人頭を経て、伝奏もつとめ、
後花園上皇や室町殿足利義政の信任を得ていたと思しい。
妻は、同じく伝奏をつとめた広橋兼郷の娘。
応仁元年(1467)9月、
おりからの洛中の戦乱(応仁・文明の乱)を前に、
世を儚んだ後花園上皇が突然の出家を遂げると、
従一位、准大臣に叙されたばかりの冬房も、
その他の上皇の近臣たちとともに出家を果たした。
法名を弘房、あるいは弘円としたという。
万里小路家は、甘露寺家から迎えた養子の春房が継ぐこととなったが、
この春房も、数年後に出奔、出家をしている。
出家後の冬房の足取りはよくわからない。
出家から9年後の文明8年(1476)のこと、
3月27日の夜、女官の権大納言典侍(万里小路命子)が、
「父冬房が去年の10月頃、補陀落山に参詣した」(『実隆公記』)として、籠居した。
同じ年の6月中旬、
春房に代わる万里小路家の跡取り、阿子丸(のちの賢房)の除服(忌明け)について、
公家たちの間で調整がなされている(『親長卿記』)。
義姉権大納言典侍と同じく、養父冬房の死により服喪していたのだろう。
『尊卑分脈』が記すとおり、
どうやら冬房は、「菩提心」により熊野那智より「補陀落渡海」を遂げたようだ。
隠遁後とはいえ、もと公卿の補陀落渡海は希有なことだろう。
なお、
『尊卑分脈』には、文明17年(1476)12月21日のことと年次に混乱があり、
『続史愚抄』には、文明7年(1475)11月22日のこととあるが、
本頁では、上記の『実隆公記』によって10月某日とした。
〔参考文献〕
根井浄『補陀落渡海史』 (法蔵館 2001年)
根井浄『観音浄土に船出した人びと―熊野と補陀落渡海―』 (歴史文化ライブラリー 吉川弘文館 2008年)
『増補史料大成 親長卿記 2』 (臨川書店 1985年)
東京大学史料編纂所データベース
南方の海のかなたには、
「補陀落」と呼ばれる観音の浄土がある、とされた。
浄土を目指す人々は、熊野や土佐の海岸から船に乗り、補陀落に向かった。
古来より幾人もの人々が、黒潮の荒い太平洋に小舟で漕ぎ出で、
「補陀落渡海」を遂げたのである。
さて、万里小路冬房。
従一位、准大臣。
万里小路時房の嫡男。
はじめは成房と名乗った。
伝奏として公武の間で活躍した父時房と同じく、
冬房もまた弁官や蔵人頭を経て、伝奏もつとめ、
後花園上皇や室町殿足利義政の信任を得ていたと思しい。
妻は、同じく伝奏をつとめた広橋兼郷の娘。
応仁元年(1467)9月、
おりからの洛中の戦乱(応仁・文明の乱)を前に、
世を儚んだ後花園上皇が突然の出家を遂げると、
従一位、准大臣に叙されたばかりの冬房も、
その他の上皇の近臣たちとともに出家を果たした。
法名を弘房、あるいは弘円としたという。
万里小路家は、甘露寺家から迎えた養子の春房が継ぐこととなったが、
この春房も、数年後に出奔、出家をしている。
出家後の冬房の足取りはよくわからない。
出家から9年後の文明8年(1476)のこと、
3月27日の夜、女官の権大納言典侍(万里小路命子)が、
「父冬房が去年の10月頃、補陀落山に参詣した」(『実隆公記』)として、籠居した。
同じ年の6月中旬、
春房に代わる万里小路家の跡取り、阿子丸(のちの賢房)の除服(忌明け)について、
公家たちの間で調整がなされている(『親長卿記』)。
義姉権大納言典侍と同じく、養父冬房の死により服喪していたのだろう。
『尊卑分脈』が記すとおり、
どうやら冬房は、「菩提心」により熊野那智より「補陀落渡海」を遂げたようだ。
隠遁後とはいえ、もと公卿の補陀落渡海は希有なことだろう。
なお、
『尊卑分脈』には、文明17年(1476)12月21日のことと年次に混乱があり、
『続史愚抄』には、文明7年(1475)11月22日のこととあるが、
本頁では、上記の『実隆公記』によって10月某日とした。
〔参考文献〕
根井浄『補陀落渡海史』 (法蔵館 2001年)
根井浄『観音浄土に船出した人びと―熊野と補陀落渡海―』 (歴史文化ライブラリー 吉川弘文館 2008年)
『増補史料大成 親長卿記 2』 (臨川書店 1985年)
東京大学史料編纂所データベース
《誅殺》 《1381年》 《8月》 《14日》 《享年不明》
真下勘解由左衛門尉の外居(ほかい、食べ物を入れる蓋付きの容器)を運んでいた人夫。
永徳元年(1381)8月14日、夕暮れ時、
日野一門の中納言裏松資康の家人の右衛門太郎という男の家へ、
賊が押し入った。
犯人は、資康の弟日野資教の家人である堀川範弘の息子弾正忠某。
右衛門太郎とその息子虎熊は、それぞれ頭部や右腕に深手を負いながらも防戦し、
弾正忠に傷を負わせて追い出した。
弾正忠の目当ては、右衛門太郎の殺害であったらしい。
しかし、虎熊の奮戦にあえなく撤退したため、
いよいよ恨みを募らせて、
今度は人数を引き連れて、右衛門太郎宅へ押し寄せた。
しかし、右衛門太郎父子も馬鹿ではない。
再来することを予想して、家の中で待ち構えていた。
右衛門太郎の家の前で、入るに入れない弾正忠方は、
その場で虎熊の下人を殺害した。
さらに、怒りに任せて、
たまたま通りかかった将軍足利義満の近習真下勘解由左衛門尉の人夫をも、
殺害したのである。
「およそ濫吹(乱暴狼藉)の至り、言語道断の次第也、」(『後愚昧記』)
激怒した右衛門太郎の主人裏松資康は、将軍義満へ訴え、
義満は日野資教へ、弾正忠の父堀川範弘をどう処罰するのか、と迫った。
しかし、
堀川範弘はすでに行方をくらましてしまっており、
処罰することはできなかった。
右衛門太郎父子の負傷を不憫に思った義満は、
医師を遣わして治療に当たらせた。
これにて右衛門太郎は大いに面目を施したという。
日野家の資康・資教兄弟は、
妹業子が義満の正室となったことで、将軍家の姻戚として権勢を誇り、
前々年(康暦元年)の正月にも、官人とのもめ事に対して、
「武家権威」による「傍若無人の下知」(『後愚昧記』)を下すなど、
問題を起こしていた。
傍若無人の頂上決戦は、無用な巻き添えを出しておきながら、
うやむやのまま流されたようである。
〔参考文献〕
『大日本古記録 後愚昧記 3』(岩波書店 1988年)
真下勘解由左衛門尉の外居(ほかい、食べ物を入れる蓋付きの容器)を運んでいた人夫。
永徳元年(1381)8月14日、夕暮れ時、
日野一門の中納言裏松資康の家人の右衛門太郎という男の家へ、
賊が押し入った。
犯人は、資康の弟日野資教の家人である堀川範弘の息子弾正忠某。
右衛門太郎とその息子虎熊は、それぞれ頭部や右腕に深手を負いながらも防戦し、
弾正忠に傷を負わせて追い出した。
弾正忠の目当ては、右衛門太郎の殺害であったらしい。
しかし、虎熊の奮戦にあえなく撤退したため、
いよいよ恨みを募らせて、
今度は人数を引き連れて、右衛門太郎宅へ押し寄せた。
しかし、右衛門太郎父子も馬鹿ではない。
再来することを予想して、家の中で待ち構えていた。
右衛門太郎の家の前で、入るに入れない弾正忠方は、
その場で虎熊の下人を殺害した。
さらに、怒りに任せて、
たまたま通りかかった将軍足利義満の近習真下勘解由左衛門尉の人夫をも、
殺害したのである。
「およそ濫吹(乱暴狼藉)の至り、言語道断の次第也、」(『後愚昧記』)
激怒した右衛門太郎の主人裏松資康は、将軍義満へ訴え、
義満は日野資教へ、弾正忠の父堀川範弘をどう処罰するのか、と迫った。
しかし、
堀川範弘はすでに行方をくらましてしまっており、
処罰することはできなかった。
右衛門太郎父子の負傷を不憫に思った義満は、
医師を遣わして治療に当たらせた。
これにて右衛門太郎は大いに面目を施したという。
日野家の資康・資教兄弟は、
妹業子が義満の正室となったことで、将軍家の姻戚として権勢を誇り、
前々年(康暦元年)の正月にも、官人とのもめ事に対して、
「武家権威」による「傍若無人の下知」(『後愚昧記』)を下すなど、
問題を起こしていた。
傍若無人の頂上決戦は、無用な巻き添えを出しておきながら、
うやむやのまま流されたようである。
〔参考文献〕
『大日本古記録 後愚昧記 3』(岩波書店 1988年)
《誅殺》 《1318年》 《11月》 《24日》 《享年35歳》
前参議、従三位。
綾小路家は、宇多源氏の一流で、
代々、郢曲(宮廷音楽のうちの歌いもの)を家業とした。
さて、今回の一件は、渡辺あゆみ氏の専論に詳しいので、
それに拠りつつ見てゆこう。
綾小路家の当主信有の嫡男であった有時は、
文保2年(1318)11月24日に行われる、
後醍醐天皇の清暑堂御遊の拍子役を命じられていた。
清暑堂御遊とは、天皇の代始に行われる音楽行事であり、
雅楽を家業とする家の者にとって、最重要の儀式であった。
30代半ばの有時は、
楽家の跡取りとして、これまでのキャリアもじゅうぶんであり、
満を持しての大役、ということであったようだ。
御遊当日の24日の夜、
有時が、会場となる内野(大内裏の跡地)に到着したとき、
事件はおこった。
鎌倉時代の歴史物語『増鏡』には次のように書かれている。
(仮名は適宜漢字に改めた。)
清暑堂の御神楽の拍子の為に、綾小路宰相有時と言ふ人、
大内(大内裏)へ参り侍るとて、車より降りられける程に、
いとすくよかなる田舎侍めく物、太刀を抜きて走り寄る侭に、
あや無く討ちてけり。
さばかり立ちこみたる人の中にて、いと珍かにあさまし。
さて拍子俄に異人承る。
大事共果てて後、尋ね沙汰ある程に、
紙屋川三位顕香と言ふ人の、
此の拍子をいどみて、我こそつとむべけれと思ひければ、
かかる事をせさせけり。
道に好ける程はやさしけれども、いとむくつけし。(『増鏡』)
内野に入ったところで、牛車を下りようとしたところ、
屈強な田舎侍らしき人物が、太刀を抜いて走ってきて、
あっという間に有時をうち殺してしまった。
場所は、待賢門内とも郁芳門内とも、
有時は35歳とも36歳ともいわれている。
不慮の事件により、突如空席となってしまった拍子役に、
無慈悲な後醍醐天皇は、有時の弟で24歳になる有頼を当てようとしたが、
有頼は「悲歎」(『御遊抄』)により辞退し、
代わって参議中御門冬定がつとめることとなった。
その後、捜査が進められた結果、
従三位の紙屋川顕香という公卿が、
刺客を放った犯人である、とのことがわかった。
紙屋川顕香が有時の命を狙ったのは、拍子役を争ったため、
と、『増鏡』や『尊卑分脈』などは伝えているが、
顕香と有時とでは、雅楽界における経歴が比べものにならず、
とうていライバルにはなりえない、ともいう。
特に顕香は、公家のなかでも傍流の傍流に属する人物で、
故実に通じず、儀式での所作を間違えるなど、
公家社会では問題を起こす人物であったらしい。
有時とも、この直前に何らかのトラブルをおこしていたのではないか、
と推測されている。
捕えられた顕香は、武家に引き渡されて関東に護送され、
元亨元年(1321)8月付けで流罪となった。
〔参考文献〕
渡辺あゆみ「文保二年の綾小路有時殺害事件について」(『創価大学大学院紀要』32 2010年)
東京大学史料編纂所データベース
前参議、従三位。
綾小路家は、宇多源氏の一流で、
代々、郢曲(宮廷音楽のうちの歌いもの)を家業とした。
さて、今回の一件は、渡辺あゆみ氏の専論に詳しいので、
それに拠りつつ見てゆこう。
綾小路家の当主信有の嫡男であった有時は、
文保2年(1318)11月24日に行われる、
後醍醐天皇の清暑堂御遊の拍子役を命じられていた。
清暑堂御遊とは、天皇の代始に行われる音楽行事であり、
雅楽を家業とする家の者にとって、最重要の儀式であった。
30代半ばの有時は、
楽家の跡取りとして、これまでのキャリアもじゅうぶんであり、
満を持しての大役、ということであったようだ。
御遊当日の24日の夜、
有時が、会場となる内野(大内裏の跡地)に到着したとき、
事件はおこった。
鎌倉時代の歴史物語『増鏡』には次のように書かれている。
(仮名は適宜漢字に改めた。)
清暑堂の御神楽の拍子の為に、綾小路宰相有時と言ふ人、
大内(大内裏)へ参り侍るとて、車より降りられける程に、
いとすくよかなる田舎侍めく物、太刀を抜きて走り寄る侭に、
あや無く討ちてけり。
さばかり立ちこみたる人の中にて、いと珍かにあさまし。
さて拍子俄に異人承る。
大事共果てて後、尋ね沙汰ある程に、
紙屋川三位顕香と言ふ人の、
此の拍子をいどみて、我こそつとむべけれと思ひければ、
かかる事をせさせけり。
道に好ける程はやさしけれども、いとむくつけし。(『増鏡』)
内野に入ったところで、牛車を下りようとしたところ、
屈強な田舎侍らしき人物が、太刀を抜いて走ってきて、
あっという間に有時をうち殺してしまった。
場所は、待賢門内とも郁芳門内とも、
有時は35歳とも36歳ともいわれている。
不慮の事件により、突如空席となってしまった拍子役に、
無慈悲な後醍醐天皇は、有時の弟で24歳になる有頼を当てようとしたが、
有頼は「悲歎」(『御遊抄』)により辞退し、
代わって参議中御門冬定がつとめることとなった。
その後、捜査が進められた結果、
従三位の紙屋川顕香という公卿が、
刺客を放った犯人である、とのことがわかった。
紙屋川顕香が有時の命を狙ったのは、拍子役を争ったため、
と、『増鏡』や『尊卑分脈』などは伝えているが、
顕香と有時とでは、雅楽界における経歴が比べものにならず、
とうていライバルにはなりえない、ともいう。
特に顕香は、公家のなかでも傍流の傍流に属する人物で、
故実に通じず、儀式での所作を間違えるなど、
公家社会では問題を起こす人物であったらしい。
有時とも、この直前に何らかのトラブルをおこしていたのではないか、
と推測されている。
捕えられた顕香は、武家に引き渡されて関東に護送され、
元亨元年(1321)8月付けで流罪となった。
〔参考文献〕
渡辺あゆみ「文保二年の綾小路有時殺害事件について」(『創価大学大学院紀要』32 2010年)
東京大学史料編纂所データベース
《誅殺》 《1489年》 《4月》 《29日》 《享年22歳》
従五位下、侍従。
父は正三位・権中納言の烏丸益光。
烏丸資敦は、
日野流烏丸家の当主益光の実子として、
烏丸家を相続するはずであった。
しかし、腰痛の持病を患ったため、
その器でないとして、仏門に入れられてしまった。
文明7年(1475)末、父益光が30代半ばで病没すると、
まだ存命であった祖父資任は、
日野本宗家の勝光の実子冬光を養子に迎え、
烏丸家を継がせた。
ところが、
それから10数年、資敦の腰病は本復する。
資敦は還俗し、
長享2年(1488)、元服を果たした。
そして、
烏丸家の当主冬光に所領の分割を要求し、
訴訟を起こしたのである。
訴えを受けた室町殿足利義政は、資敦の要求を認めて、
冬光に所領の分割を命じたが、
冬光は応じようとしなかった。
この間、無収入の資敦は、
京都正親町烏丸に「不思儀の小屋」(『宣胤卿記』)を借りて、
青侍や雑色と暮らしていたという。
延徳元年(1489)4月29日夜、
資敦は夜盗に襲われ、青侍と雑色とともに殺害された。
22歳という(一説に16歳)。
冬光の差し金だとしきりに噂されたが、
冬光が罰せられた様子はない。
翌年には、同じ日野流の竹屋治光の子が、
資敦の跡継ぎと称して出仕しようとしたが、
取り合われることはなかった。
〔参考〕
東京大学史料編纂所データベース
従五位下、侍従。
父は正三位・権中納言の烏丸益光。
烏丸資敦は、
日野流烏丸家の当主益光の実子として、
烏丸家を相続するはずであった。
しかし、腰痛の持病を患ったため、
その器でないとして、仏門に入れられてしまった。
文明7年(1475)末、父益光が30代半ばで病没すると、
まだ存命であった祖父資任は、
日野本宗家の勝光の実子冬光を養子に迎え、
烏丸家を継がせた。
ところが、
それから10数年、資敦の腰病は本復する。
資敦は還俗し、
長享2年(1488)、元服を果たした。
そして、
烏丸家の当主冬光に所領の分割を要求し、
訴訟を起こしたのである。
訴えを受けた室町殿足利義政は、資敦の要求を認めて、
冬光に所領の分割を命じたが、
冬光は応じようとしなかった。
この間、無収入の資敦は、
京都正親町烏丸に「不思儀の小屋」(『宣胤卿記』)を借りて、
青侍や雑色と暮らしていたという。
延徳元年(1489)4月29日夜、
資敦は夜盗に襲われ、青侍と雑色とともに殺害された。
22歳という(一説に16歳)。
冬光の差し金だとしきりに噂されたが、
冬光が罰せられた様子はない。
翌年には、同じ日野流の竹屋治光の子が、
資敦の跡継ぎと称して出仕しようとしたが、
取り合われることはなかった。
〔参考〕
東京大学史料編纂所データベース
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
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没年 1400~1429
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没年 1430~1459
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没年 1460~1499
没日
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4日 | 5日 | 6日 |
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某日 |
享年 ~40代
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37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
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