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死に様データベース
《誅殺》 《1400年》 《11月》 《29日》 《享年不明》


少将。歌人。
父は『新後拾遺和歌集』の撰者権中納言為重。


俊成・定家に始まる御子左家は、
やがて、嫡流の二条家、庶流の京極家・冷泉家に分かれながら、
鎌倉時代に和歌の家として栄えた。
二条為右は、二条家の傍系に属するが、
父為重ともども、その力量により、南北朝期の京都の歌壇で重きをなした。

以下、為右の顛末については、小川剛生氏の論考に詳しい。


応永7年(1400)11月頃、
為右は、明国出身の女性テルと密通し、妊娠させた。
テルは、北山殿足利義満に仕える女房であったらしい。

露顕を恐れた為右は、
所領の近江国小野荘(現滋賀県彦根市)に産所を設けたといって、テルを連れ出し、
自身も公家らしからぬ変装をして、ともに京都を出た。

ふたりが、琵琶湖南端にかかる勢多橋(現滋賀県大津市)にさしかかったところ、
為右は突如、テルを湖に突き落とした。
為右は、当初よりそのつもりで、
テルを殺害することで、事態の隠滅を図ったのだろう。


ところが、悪事は思うようにはいかない。
テルは旅人か漁師かに救助され、一命をとりとめたのである。
テルは、日頃から経を読むなど、崇仏の行いが篤かったといい、
溺れている際に、何者かに口と耳をつかまれ、
「命ばかりは助くべし」(『吉田家日次記』)
と言われ、やがて意識を失ったという。
人びとは、仏が化現したものだと噂し合った。


ともかく、
これにより事の顛末は露顕し、
人びとは「先代未聞の所行」(『吉田家日次記』)為右を指弾した。
当然ながら、北山殿義満の耳にも入り、激怒させた。

11月20日、
為右は侍所所司代浦上助景のもとに拘留され、
佐渡国へ配流されることとなり、
佐渡守護上野民部大輔入道に引き渡された。
護送中の近江西坂本辺にて、誅殺。
父為重の年齢からすると、40~50歳代あたりとなりそうだが、
官位からすると、今少し若かったであろうか。
なお、当時は、
流人は護送中に殺害されるのが常であり、
流罪は、実質的に死罪を意味していた。


思慮の浅い悪行による当然の報いのようにも思うが、
密通により武家が公家を死罪に処した例は、古今に例がなかったという。
「造意の企て、常篇に絶え、罪責遁るるに所無き事か。
 然りと雖も、当時道(歌道)の宗匠たり。
 死罪もっとも不便(ふびん)か。」(『吉田家日次記』)

テル誘殺の口実に使った近江国小野荘は、
一門の冷泉為尹に与えられた。
為尹の子持為(はじめ持和)が密通・殺害事件を起こすのは、
また別の話。


ちなみに、
為右の父為重は、夜討に襲われ横死、
祖父為冬は、南北朝内乱で戦死。
和歌の家ではありながら、
いや、政治性を色濃く有する和歌の家であるゆえか、
3代続けて、安泰な死に方はしていない。



〔参考〕
小川剛生「為右の最期―二条家の断絶と冷泉家の逼塞」 (『中世和歌史の研究』 塙書房 2017年)
小川剛生『足利義満―公武に君臨した室町将軍(中公新書)』 (中央公論新社 2012年)
清水克行「室町幕府「流罪」考―失脚者の末路をめぐる法慣習―」 (『室町社会の騒擾と秩序』 吉川弘文館 2004年)
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《自害》 《1371年》 《4月》 《1日》 《享年不明》


土佐国人佐川氏の若党。


応安4年(1371)、
幼い将軍を抱え、南朝の攻略を進める室町幕府の管領細川頼之は、
この年も出兵の計画を立て、
自身の守護国である四国各国にも、軍勢催促をかけた。


当時、上洛して京都北小路万里小路の智恵光院を宿所としていた、
土佐国の国人佐川某のもとへも、
頼之から出陣命令が届いた。
しかし、
佐川某はこれを固く拒否。
子息が南朝方であったためで、
頼之もそれを承知で、むしろ利用しようとして出陣を命じたらしい。


4月1日、
この命令違反に対して、
頼之は、自身の軍勢と幕府侍所佐々木京極高秀の軍勢を差し向け、
佐川の宿所智恵光院を囲んだ。
佐川某はすぐに逃亡したが、
寺内に残っていた佐川の親類・若党・中間ら4人は、
幕府の軍勢に囲まれ、自害した。
そのうち1人は、しばらく息があったが、
数日のうちに絶命した。
「勇敢の至り、感ずべし。」(『後愚昧記』)

幕府の軍勢は、逃亡した佐川を捜索し、
近隣は大変な騒ぎになったという。

智恵光院の長老や僧たちも、事情聴取のために侍所へ連行された。
一両日中には釈放されたものの、
その間に寺内の財産を押収されるなど、
散々な目にあった。



この騒動には、おまけがつく。

自害した佐川の若党らの遺体は、
河原者に引き取られ、衣類などは彼らの手に渡ったが、
祇園社の犬神人たちが、それらの権利を主張し、
騒動から3日後の4月4日、
智恵光院に押し寄せたのである。
犬神人たちは、火をつけるなどと脅して、智恵光院に詰め寄り、
寺側の退去要請も聞かず、数刻にわたって居座った。

すると今度は、
それを聞いた河原者たちが、智恵光院を助けようと、
武装して集まってきた。

結局、犬神人たちは引き下がり、
侍所において、河原者の権利を認めるとの審判が下ることとなる。


人の死もまた、得分となる。



〔参考〕
『大日本古記録 後愚昧記 2』 (岩波書店 1984年)
《誅殺》 《1370年》 《9月》 《25日》 《享年不明》


葉室家青侍。


応安3年(1370)9月26日、
北朝の右大弁葉室長宗の弟民部大輔某は、
青侍の男と双六を打っていた。
主従といえど、
賭け事は喧嘩に発展するのが、中世の常。
二人は諍いとなり、
青侍は、主家の民部大輔を殺害してしまった。
駆けつけた葉室家の家人らに、
その青侍もまた殺されてしまったという。

その後の話では、
民部大輔は負傷したのみで、死亡はしていないが、
やはり青侍の男は、殺されてしまったという。


「末代といえども、主を殺すの条、希代の所為なり。
 下剋上の世、およそ怖畏無極のときなり。」(『後愚昧記』)


なお、
民部大輔某とおぼしき「長親」は、
いつの頃かは不明だが、
「狂気遁世」(『尊卑分脈』)したとされる。



〔参考〕
『大日本古記録 後愚昧記 1』 (岩波書店 1980年)
《事故死》 《1370年》 《8月》 《15日》 《享年不明》


前関白九条経教の青侍。


応安3年(1370)の8月15日、
この日、京都は未の終刻(午後3時頃)にひどい雷雨となった。

前関白九条経教亭では、
ちょうど二階家で連歌会のさなかであったが、
そこに雷が落ちた。
九条家の青侍2名が「震死」(『後愚昧記』)
連歌会に同席していた八条季興も、体調を崩した。


その後の噂では、
当主経教が、太刀「小狐」を抜いて、雷神を打ち払った、
という。
経教は日ごろから武芸を好んでおり、
三条公忠は、
さもありなん、といった感想を日記に記している。
事実とすれば、真っ先に雷が落ちそうなもの。



〔参考〕
『大日本古記録 後愚昧記 1』 (岩波書店 1980年)
《誅殺》 《1374年》 《2月》 《11日》 《享年33歳》


修理権大夫藤原親尹の子。
後光厳上皇の側近。


後光厳上皇が崩じて二七日も過ぎない、
応安7年(1374)2月11日の暁時、
上皇の旧居仙洞柳原殿の南土門脇にて、
男の斬殺死体が見つかった。
死体の主は、備前守藤原懐国(やすくに)、33歳。
犯人は不詳。


懐国は、代々徳大寺家の家人の家に生まれたが、
自身は、主家と疎遠になっており、
むしろ、北朝の後光厳院に近仕した。
在位時には、六位蔵人として長く仕え、
退位のおりに、五位にのぼり、
その後も、上北面として院に仕えたのである。

しかし、そのうちに懐国は、
後光厳の寵愛を受けた二位局(日野宣子)と密通し、
その権威をかさに、傍若無人のふるまいをなした。
あまりの行状に、後光厳の叡慮にも違うことも起こすようになり、
しだいに御前より遠ざけられたという。

当時の公家の日記も、
「彼局(日野宣子)最愛の間、権威を募り、毎時誇張、
 ほとんど傍若無人の体なり。」(『後愚昧記』)
「朝恩を誇り、年来過分の振る舞い、諸人目を側む。
 二品局(日野宣子)しきりに引汲の間、
 いよいよ傍若無人の思いを成すと云々。」(『愚管記』)
と、懐国評は手厳しい。


とかく、敵が多い人物だったらしい。
犯人についても、その後取り沙汰されていない。
懐国によって不遇をかこった人物の犯行だったのだろう。
専横を恣にしたすえの横死に、
周囲は「因果応報」「さもありなん」といった具合だったのだろうか。

しかし、
彼を知る者は、その死を悼んでいる。
「年少より見及ぶ者なり。
 不便々々(ふびんふびん)。」(『愚管記』)
「二七日中横死の条、不便々々。
 …たとい古敵たりといえども、情類あり。
 このときもっとも斟酌すべきものか。」(『保光卿記』)
もっとも、土御門保光のほうは、
複雑な心境であったようだが…。



〔参考〕
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