死に様データベース
《戦死》 《1355年》 《3月》 《12日》 《享年不明》
那須資藤は、
下野の豪族那須氏の一族であるが、
惣領ではなく、有力な庶流ではないかとされている。
観応3年(1352)、
足利尊氏は、弟直義との対立に決着をつけたものの、
この間に、雌伏していた南朝方が息を吹き返し、
さらには、
敗れた旧直義党が、南朝方と手を組んだため、
戦争はなお収まることがなかった。
ことに、
京都をめぐる南朝方と足利方(北朝方)の争いは、激しさを増しており、
一時は、
光厳・光明・崇光三上皇と東宮直仁親王を、南朝方に拉致されるなど、
北朝は苦境に陥っている。
尊氏・義詮と南朝・旧直義党の京都争奪戦は、
苛烈をきわめたのであった。
文和3年末、
南朝方と旧直義党の軍勢が京に迫った。
尊氏とその子義詮は、
防衛に不向きな京都を去り、
それぞれ近江・播磨に移り、挟撃の態勢をとった。
翌文和4年(1355)正月、
からっぽの京都に、
旧直義党の桃井直常・斯波氏頼らが入った。
ついで、
足利直冬と山名時氏・石塔頼房らも入京。
観応3年(1352)、文和2年(1353)、そして今回と、
南朝方、実に3度目の京都占領であった。
尊氏・義詮は、東西からじりじりと包囲の輪を縮め、
対する京都側は、
東寺実相院に足利直冬、
石清水八幡宮の男山に楠木正儀、
西山に山名時氏が陣を張り、
防衛線を構築した。
2月6日、
摂津芥川・山崎・神無山辺で、
義詮軍の赤松則祐・佐々木導誉らと楠木勢が衝突。
この激戦で南朝方を破った義詮は、京都に迫り、
戦場は市街地に移っていった。
尊氏も、西坂本より東山、ついで清水坂へ陣を移し、
洛中の南朝方を背後から脅かした。
この頃、
京都ではあちこちで、小競り合いや遭遇戦が起きている。
3月12日、
新日吉に陣し、洛中への橋頭堡を確保した尊氏は、
南朝方の本陣東寺へ、京都奪回の総攻撃をしかけた。
尊氏方は数千の大軍であったが、
南朝方は東寺八幡宮に立て籠もり、激戦となった。
雌雄は容易に決せず、
所々にあがった火の手は、京都の空を煙で覆い、
未の刻の初め(午後1時頃)でも真っ暗だったという。
この激戦の中、
那須資藤は尊氏の陣中にあった。
以下、『太平記』。
この陣の寄せ手、ややもすれば懸け立てらるる体に見えければ、
将軍(尊氏)より使者を立てられて、
「那須五郎(資藤)を罷り向かうべし。」と仰せられける。
那須は、この合戦に打ち出でけるはじめ、
故郷の老母の許へ、人を下して、
「今度の合戦にもし討死仕らば、親に先立つ身となりて、
草の陰、苔の下までもお歎きあらんを、
見奉らんずることこそ、思いやるも悲しく存じ候え。」
と、申し遣わしたりければ、
老母泣く泣く委細に返事を書きて、申し送りけるは、
「いにしえより今に至るまで、
武士の家に生まるる人、名を惜しみて命を惜しまず、
皆これ妻子に名残を慕い、父母に別れを悲しむといえども、
家を思い、嘲りを恥ずるゆえに、
惜しかるべき命を捨つるものなり。
はじめ身体髪膚を我に受けて、損ない破らざりしかば、
その孝すでに顕れぬ。
今また身を立ちて、道を行うて、名を後の世に揚げるは、
これ孝の終りたるべし。
されば、今度の合戦に相構えて、
身命を軽んじて、先祖の名を失うべからず。
これは元暦のいにしえ、曩祖那須与一資高は、
屋島の合戦のとき、扇を射て名を揚げたりしときの母衣なり。」
とて、
薄紅の母衣を、錦の袋に入れてぞ送りたりける。
さらでだに戦場に臨みて、いつも命を軽んずる那須五郎が、
老母に義を勧められて、いよいよ気を励ましけるところに、
将軍より別して使いを立てられ、
「この陣の戦い難儀に及ぶ。向かいて敵を払え。」
と、余儀もなく仰せられければ、
那須、かつて一儀も申さず、畏まって領状す。
ただいま味方の大勢ども、立つ足もなくまくり立てられ、
敵みな勇み進める真ん中へ、会釈もなく懸け入りて、
兄弟二人一族郎従三十六騎、一足もひかず討死しける。
一方で、『源威集』の記述。
夜になりて帰陣すべしとて、
手勢ばかり錣(しころ)を傾けて、ならび居たりしところに、
もとの油小路より一手、後ろ塩小路より一手、
大勢寄せ来たる間、
当手ばかりにて、火を散じ、一足もひかず、
資藤・忠資叔父甥、そのほか一族家人、
討死手負い数輩なり。
敵も手強く戦う間、討死手負い同前なり。
敵本陣におさまりしかば、
七条合戦は、やぶれにけり。
資藤、息の下少しく通しければ、
《金+崔》をもおろさず、母衣懸けながら、
広戸にかい載せられて、
将軍(尊氏)の御前へ参りたりければ、
じかに数ヶ所の疵をご覧ぜられて、
今度の振る舞い神妙の由、御感ありければ、
忝くもお詞耳に入るかと覚えて、
目をはたと見開き、
血の付いたる手を合わせて、胸に置き、
恐れ入りたるていにて、うちうなずきうちうなずき、
命をおとしける。
武将(尊氏)これをご覧ぜられて、
お泪を浮かぶ。
建武三、九州御下向の時、
東国に一人の味方なかりしに、
この資藤が父資忠一人、高館に籠りて、
忠節せしことまで仰せられしぞ、忝し。
難戦への突入を「余儀もなく」命じた尊氏と、
瀕死の資藤の手をとり、涙ながらに軍功を褒する尊氏。
かたや親子の情を描きつつ、
一方では、主従の絆の話になっている。
死は、
その後の演出次第。
13日寅の刻(午前4時頃)、
多大な損害をこうむった南朝方は、
東寺から陣をひき、淀や石清水方面へ没落していった。
以降、南朝方が京都を占領することはない。
〔参考〕
『大日本史料』第6編 第19冊
江田郁夫「鎌倉・南北朝時代の那須惣領家」 (『中世東国の街道と武士団』 岩田書院 2010年)
那須資藤は、
下野の豪族那須氏の一族であるが、
惣領ではなく、有力な庶流ではないかとされている。
観応3年(1352)、
足利尊氏は、弟直義との対立に決着をつけたものの、
この間に、雌伏していた南朝方が息を吹き返し、
さらには、
敗れた旧直義党が、南朝方と手を組んだため、
戦争はなお収まることがなかった。
ことに、
京都をめぐる南朝方と足利方(北朝方)の争いは、激しさを増しており、
一時は、
光厳・光明・崇光三上皇と東宮直仁親王を、南朝方に拉致されるなど、
北朝は苦境に陥っている。
尊氏・義詮と南朝・旧直義党の京都争奪戦は、
苛烈をきわめたのであった。
文和3年末、
南朝方と旧直義党の軍勢が京に迫った。
尊氏とその子義詮は、
防衛に不向きな京都を去り、
それぞれ近江・播磨に移り、挟撃の態勢をとった。
翌文和4年(1355)正月、
からっぽの京都に、
旧直義党の桃井直常・斯波氏頼らが入った。
ついで、
足利直冬と山名時氏・石塔頼房らも入京。
観応3年(1352)、文和2年(1353)、そして今回と、
南朝方、実に3度目の京都占領であった。
尊氏・義詮は、東西からじりじりと包囲の輪を縮め、
対する京都側は、
東寺実相院に足利直冬、
石清水八幡宮の男山に楠木正儀、
西山に山名時氏が陣を張り、
防衛線を構築した。
2月6日、
摂津芥川・山崎・神無山辺で、
義詮軍の赤松則祐・佐々木導誉らと楠木勢が衝突。
この激戦で南朝方を破った義詮は、京都に迫り、
戦場は市街地に移っていった。
尊氏も、西坂本より東山、ついで清水坂へ陣を移し、
洛中の南朝方を背後から脅かした。
この頃、
京都ではあちこちで、小競り合いや遭遇戦が起きている。
3月12日、
新日吉に陣し、洛中への橋頭堡を確保した尊氏は、
南朝方の本陣東寺へ、京都奪回の総攻撃をしかけた。
尊氏方は数千の大軍であったが、
南朝方は東寺八幡宮に立て籠もり、激戦となった。
雌雄は容易に決せず、
所々にあがった火の手は、京都の空を煙で覆い、
未の刻の初め(午後1時頃)でも真っ暗だったという。
この激戦の中、
那須資藤は尊氏の陣中にあった。
以下、『太平記』。
この陣の寄せ手、ややもすれば懸け立てらるる体に見えければ、
将軍(尊氏)より使者を立てられて、
「那須五郎(資藤)を罷り向かうべし。」と仰せられける。
那須は、この合戦に打ち出でけるはじめ、
故郷の老母の許へ、人を下して、
「今度の合戦にもし討死仕らば、親に先立つ身となりて、
草の陰、苔の下までもお歎きあらんを、
見奉らんずることこそ、思いやるも悲しく存じ候え。」
と、申し遣わしたりければ、
老母泣く泣く委細に返事を書きて、申し送りけるは、
「いにしえより今に至るまで、
武士の家に生まるる人、名を惜しみて命を惜しまず、
皆これ妻子に名残を慕い、父母に別れを悲しむといえども、
家を思い、嘲りを恥ずるゆえに、
惜しかるべき命を捨つるものなり。
はじめ身体髪膚を我に受けて、損ない破らざりしかば、
その孝すでに顕れぬ。
今また身を立ちて、道を行うて、名を後の世に揚げるは、
これ孝の終りたるべし。
されば、今度の合戦に相構えて、
身命を軽んじて、先祖の名を失うべからず。
これは元暦のいにしえ、曩祖那須与一資高は、
屋島の合戦のとき、扇を射て名を揚げたりしときの母衣なり。」
とて、
薄紅の母衣を、錦の袋に入れてぞ送りたりける。
さらでだに戦場に臨みて、いつも命を軽んずる那須五郎が、
老母に義を勧められて、いよいよ気を励ましけるところに、
将軍より別して使いを立てられ、
「この陣の戦い難儀に及ぶ。向かいて敵を払え。」
と、余儀もなく仰せられければ、
那須、かつて一儀も申さず、畏まって領状す。
ただいま味方の大勢ども、立つ足もなくまくり立てられ、
敵みな勇み進める真ん中へ、会釈もなく懸け入りて、
兄弟二人一族郎従三十六騎、一足もひかず討死しける。
一方で、『源威集』の記述。
夜になりて帰陣すべしとて、
手勢ばかり錣(しころ)を傾けて、ならび居たりしところに、
もとの油小路より一手、後ろ塩小路より一手、
大勢寄せ来たる間、
当手ばかりにて、火を散じ、一足もひかず、
資藤・忠資叔父甥、そのほか一族家人、
討死手負い数輩なり。
敵も手強く戦う間、討死手負い同前なり。
敵本陣におさまりしかば、
七条合戦は、やぶれにけり。
資藤、息の下少しく通しければ、
《金+崔》をもおろさず、母衣懸けながら、
広戸にかい載せられて、
将軍(尊氏)の御前へ参りたりければ、
じかに数ヶ所の疵をご覧ぜられて、
今度の振る舞い神妙の由、御感ありければ、
忝くもお詞耳に入るかと覚えて、
目をはたと見開き、
血の付いたる手を合わせて、胸に置き、
恐れ入りたるていにて、うちうなずきうちうなずき、
命をおとしける。
武将(尊氏)これをご覧ぜられて、
お泪を浮かぶ。
建武三、九州御下向の時、
東国に一人の味方なかりしに、
この資藤が父資忠一人、高館に籠りて、
忠節せしことまで仰せられしぞ、忝し。
難戦への突入を「余儀もなく」命じた尊氏と、
瀕死の資藤の手をとり、涙ながらに軍功を褒する尊氏。
かたや親子の情を描きつつ、
一方では、主従の絆の話になっている。
死は、
その後の演出次第。
13日寅の刻(午前4時頃)、
多大な損害をこうむった南朝方は、
東寺から陣をひき、淀や石清水方面へ没落していった。
以降、南朝方が京都を占領することはない。
〔参考〕
『大日本史料』第6編 第19冊
江田郁夫「鎌倉・南北朝時代の那須惣領家」 (『中世東国の街道と武士団』 岩田書院 2010年)
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《誅殺》 《1403年》 《4月》 《25日》 《享年不明》
南朝方新田氏の一族。
相模守を称す。
神奈川県足柄下郡箱根町、
箱根彫刻の森美術館の敷地を貫く一本道の奥に、
「新田塚」と呼ばれる場所がある。
木の鳥居の内側に土まんじゅうが2つ、
その奥に江戸時代のものとおぼしき石碑が2本立っている。
この地で没した新田義則を弔うものとされている。
新田義則については、詳らかでない。
実名は、義則以外にも、義陸、義隆とも、
また、法名は行啓とも伝えられる。
系譜関係も定見はなく、
新田義貞の嫡男義宗の子とする説や、
義貞の弟脇屋義助の孫(脇屋義治の子)とするものもある。
観応3年(1352)閏2月から3月、武蔵野合戦にて、
新田義宗・義興兄弟や、その従兄弟脇屋義治らが、足利尊氏に敗れてのち、
東国の南朝方新田一族はほとんど壊滅し、
足利方に対する組織的な抵抗は、しえなくなっていた。
そして、
義宗や義興が非業の死を遂げたのち、
新田一族は、嫡流とおぼしき武蔵守某や義則を中心に、
信濃や上野、武蔵、越後に潜伏しながら、
再起のときをうかがっていた。
永徳元年(1381)、
下野の小山義政が反鎌倉府の兵を挙げると、
これにあわせて、新田一族も武蔵国内で蜂起。
だが、武蔵岩付や太田荘で、鎌倉府軍に敗退。
至徳2年(1385)3月、
義則は、上野・武蔵に密書を廻らせて、味方を募り、
蜂起のときをはかったという。
しかし、
事前に鎌倉府の察知するところとなり、
使者は捕えられてしまった。
応永3年(1396)には、
義政の子若犬丸が南陸奥で蜂起すると、
義則とその子刑部少輔も、
これを好機と、陸奥白河で挙兵した。
このとき、
上野・武蔵にひそんでいた南朝残党が、
義則のもとに集まったという。
だが、
鎌倉公方足利氏満みずから率いる鎌倉府軍を前に、
またしても敗れ去った。
確実な史料に見えることはわずかであり、
たしかなことはわからないが、
新田一族が、単独では行えないながら、
なおも、反鎌倉府闘争を続けていたことがうかがえる。
その後、義則は、
関東各所を転々としながら、
味方勢力の糾合につとめたらしい。
そうして、
義則とその子刑部少輔は、
相模箱根の木賀彦六という者を頼って、
山深い相模底倉に隠れ住んだ。
だが、
いつしかそこも、余人の知るところとなり、
応永10年(1403)4月25日、
鎌倉府方の追っ手に踏み込まれ、討ち取られた。
子の刑部少輔は、たまたま出かけており、
落ち延びたという。
『鎌倉大草紙』によれば、
駿河竹ノ下の藤田という者が、
義則のひそんでいることを聞き及び、
これを討ち取ったという。
藤田は、恩賞として箱根底倉・木賀の地を拝領し、
安藤と改名して、関東管領犬懸上杉朝宗に仕えたという。
〔参考〕
『新編埼玉県史 資料編8 中世4 記録2』 (埼玉県 1986年)
『神奈川県史編集資料集 4 鎌倉大日記』 (神奈川県企画調査部県史編集室 1972年)
沼田頼輔編『箱根に於ける南朝の将裔新田相州』 (蔦屋旅館 1923年)
→近代デジタルライブラリー
江田郁夫「東国の元中年号文書と新田一族」 (『室町幕府東国支配の研究』 高志書院 2008年)
江田郁夫「新田武蔵守某について―室町時代初頭の東国南朝勢力―」 (『栃木県立博物館研究紀要―人文―』31 2014年)
石橋一展「小山氏の乱」 (黒田基樹編『足利氏満とその時代』 戎光祥出版 2014年)
南朝方新田氏の一族。
相模守を称す。
神奈川県足柄下郡箱根町、
箱根彫刻の森美術館の敷地を貫く一本道の奥に、
「新田塚」と呼ばれる場所がある。
木の鳥居の内側に土まんじゅうが2つ、
その奥に江戸時代のものとおぼしき石碑が2本立っている。
この地で没した新田義則を弔うものとされている。
新田義則については、詳らかでない。
実名は、義則以外にも、義陸、義隆とも、
また、法名は行啓とも伝えられる。
系譜関係も定見はなく、
新田義貞の嫡男義宗の子とする説や、
義貞の弟脇屋義助の孫(脇屋義治の子)とするものもある。
観応3年(1352)閏2月から3月、武蔵野合戦にて、
新田義宗・義興兄弟や、その従兄弟脇屋義治らが、足利尊氏に敗れてのち、
東国の南朝方新田一族はほとんど壊滅し、
足利方に対する組織的な抵抗は、しえなくなっていた。
そして、
義宗や義興が非業の死を遂げたのち、
新田一族は、嫡流とおぼしき武蔵守某や義則を中心に、
信濃や上野、武蔵、越後に潜伏しながら、
再起のときをうかがっていた。
永徳元年(1381)、
下野の小山義政が反鎌倉府の兵を挙げると、
これにあわせて、新田一族も武蔵国内で蜂起。
だが、武蔵岩付や太田荘で、鎌倉府軍に敗退。
至徳2年(1385)3月、
義則は、上野・武蔵に密書を廻らせて、味方を募り、
蜂起のときをはかったという。
しかし、
事前に鎌倉府の察知するところとなり、
使者は捕えられてしまった。
応永3年(1396)には、
義政の子若犬丸が南陸奥で蜂起すると、
義則とその子刑部少輔も、
これを好機と、陸奥白河で挙兵した。
このとき、
上野・武蔵にひそんでいた南朝残党が、
義則のもとに集まったという。
だが、
鎌倉公方足利氏満みずから率いる鎌倉府軍を前に、
またしても敗れ去った。
確実な史料に見えることはわずかであり、
たしかなことはわからないが、
新田一族が、単独では行えないながら、
なおも、反鎌倉府闘争を続けていたことがうかがえる。
その後、義則は、
関東各所を転々としながら、
味方勢力の糾合につとめたらしい。
そうして、
義則とその子刑部少輔は、
相模箱根の木賀彦六という者を頼って、
山深い相模底倉に隠れ住んだ。
だが、
いつしかそこも、余人の知るところとなり、
応永10年(1403)4月25日、
鎌倉府方の追っ手に踏み込まれ、討ち取られた。
子の刑部少輔は、たまたま出かけており、
落ち延びたという。
『鎌倉大草紙』によれば、
駿河竹ノ下の藤田という者が、
義則のひそんでいることを聞き及び、
これを討ち取ったという。
藤田は、恩賞として箱根底倉・木賀の地を拝領し、
安藤と改名して、関東管領犬懸上杉朝宗に仕えたという。
〔参考〕
『新編埼玉県史 資料編8 中世4 記録2』 (埼玉県 1986年)
『神奈川県史編集資料集 4 鎌倉大日記』 (神奈川県企画調査部県史編集室 1972年)
沼田頼輔編『箱根に於ける南朝の将裔新田相州』 (蔦屋旅館 1923年)
→近代デジタルライブラリー
江田郁夫「東国の元中年号文書と新田一族」 (『室町幕府東国支配の研究』 高志書院 2008年)
江田郁夫「新田武蔵守某について―室町時代初頭の東国南朝勢力―」 (『栃木県立博物館研究紀要―人文―』31 2014年)
石橋一展「小山氏の乱」 (黒田基樹編『足利氏満とその時代』 戎光祥出版 2014年)
《事故死》 《1186年》 《5月》 《11日》 《享年25歳》
正四位下、右近衛中将。
内大臣徳大寺実定の嫡男。
文治2年(1186)5月2日、
徳大寺公守は、宇治離宮の馬場にて、射笠懸をしていたところ、
落馬した。
このとき、左脚をしたたかに打ったようで、
くるぶしの上2寸ばかりのところを骨折した。
その後、種々の治療を試みたが、
みるみるうちに衰弱していき、
11日明け方、
帰らぬ人となった。
父実定は、源頼朝と結び、
朝廷内で影響力を増している人物であったが、
嫡男公守の死後、
幼い三男公継が残されるばかりであった。
摂政九条兼実はこう記す。
「人々翔不善、遂に以て斯くの如し」(『玉葉』)
〔参考〕
『図書寮創刊 九条家本 玉葉 10』 (宮内庁書陵部 2005年)
正四位下、右近衛中将。
内大臣徳大寺実定の嫡男。
文治2年(1186)5月2日、
徳大寺公守は、宇治離宮の馬場にて、射笠懸をしていたところ、
落馬した。
このとき、左脚をしたたかに打ったようで、
くるぶしの上2寸ばかりのところを骨折した。
その後、種々の治療を試みたが、
みるみるうちに衰弱していき、
11日明け方、
帰らぬ人となった。
父実定は、源頼朝と結び、
朝廷内で影響力を増している人物であったが、
嫡男公守の死後、
幼い三男公継が残されるばかりであった。
摂政九条兼実はこう記す。
「人々翔不善、遂に以て斯くの如し」(『玉葉』)
〔参考〕
『図書寮創刊 九条家本 玉葉 10』 (宮内庁書陵部 2005年)
《誅殺》 《1469年》 《10月》 《17日》 《享年24歳》
従二位、権大納言。
前関白一条教房の子、兼良の孫。
応仁元年(1467)に始まった応仁・文明の乱は、
西国の大内政弘の上洛、足利義視の西軍合流を経て、
泥沼化の様相を呈していた。
連日の合戦で、京都は焦土と化し、
公家や僧侶たちは、戦乱を避けて、
所縁のある土地や所領へ下って行った。
前関白一条教房は、
いったん奈良に避けたのち、土佐へ、
その息一条政房も、
同じくいったん奈良へ下ったのち、
応仁2年(1468)11月には、
家領の摂津福原荘(兵庫荘とも)に下った。
兵庫福厳寺を住まいと定めたという。
荘内に所在した瀬戸内水運の要衝兵庫湊は、
当時、西軍の主力大内政弘勢の兵站基地となっており、
その家臣問田弘綱が守っていた。
この問田が、政房の安全を引き受けた。
政房も、問田らを信頼していたようである。
しかし、そこは戦乱のさなか。
西軍大内勢の兵站基地を抜かんとして、
文明元年(1469)10月16日、
東軍の山名是豊や赤松政則の軍勢が、兵庫を急襲。
守将問田弘綱と激突した。
初戦は大内方が優勢であったが、
山名・赤松勢の大軍が到着するにつれ、形勢は逆転していった。
そして、
翌17日未の刻(午後2時頃)、
兵庫を焼き払い、殲滅戦を敢行する山名勢や赤松・宇野・小寺・明石勢は、
福厳寺に乱入。
そこにいた政房を弑逆した。
18日、
大内方は、奈良方面に没落し、
守将問田も、いずこへ落ちていった。
軍記物『応仁記』や『応仁別記』は、以下のように描く。
新御所様(政房)は、本領の兵庫にいる折も、
いつものとおりのご装束にて、直衣狩衣を着し、
それは優美なるお姿であった。
どんな荒夷であっても、
このような高貴なお姿を見知っておくべきだが、
一人の武士が走ってきて、
そんなことは思いもわかず、
敵とみなして、長鑓を新御所の胸元へ突き通した。
新御所は少しも姿勢を崩すことなく、
「南無四方極楽世界阿弥陀仏」と唱えて、
そのまま朝の露と消えた。
孫の死を聞いた兼良はたいそう悲しみ、次の歌を詠んだ。
とても死ぬる命をいかで武士の家にむまれぬ事ぞくやしき
遺体は、東光寺において荼毘にふされた。
24歳とされている。
大納言局や御所侍新次郎等、身辺の者たちが出家した。
辞世の歌があったというが、今日には伝わらない。
奈良興福寺の大乗院尋尊(兼良の子)は、
兵庫の情報が入ってきた21日以降、甥政房の身を案じていたが、
11月6日になっても確報がつかめず、
やきもきした様子を、日記『大乗院寺社雑事記』に記している。
情報が入ってきたのは、
20日以上経った、11月11日以降のことであった。
18日には、入道した御所侍新次郎が尋尊のところへ来て、
政房最期のさまを語った。
12月初旬には、土佐にいる父教房のもとへも、
息子の横死が伝わっている。
尋尊は、
保元の乱の際に、流れ矢で命を落とした藤原頼長を引き合いに出し、
次のように述べている。
「摂家においては、保元御乱に、
宇治左府(藤原頼長)、流れ矢により薨じ給う。
これは両帝の御競いなり。
臣下の身、無力の事なり。
只今の儀、一向悪党の沙汰、
末代至極の事なり。
かつがつ当社(春日社)大明神の神慮如何。
但し、事の様を思案するのところ、
公家のありさま、皆もってかくの如し。
前後遅速の階級ばかりなり。
命を失うべきものなり。
歎くべし歎くべし。」 (『大乗院寺社雑事記』)
〔参考〕
『増補続史料大成(普及版) 大乗院寺社雑事記 4』 (臨川書店 2001年)
『増補続史料大成(普及版) 大乗院寺社雑事記 5』 (臨川書店 2001年)
『大日本史料 第8編之3』 (東京大学出版会 1969年)
石田晴男『応仁・文明の乱 (戦争の日本史 9)
』 (吉川弘文館 2008年)
藤井崇『大内義興―西国の「覇者」の誕生 (中世武士選書)
』 (戎光祥出版 2014年)
東京大学史料編纂所データベース
従二位、権大納言。
前関白一条教房の子、兼良の孫。
応仁元年(1467)に始まった応仁・文明の乱は、
西国の大内政弘の上洛、足利義視の西軍合流を経て、
泥沼化の様相を呈していた。
連日の合戦で、京都は焦土と化し、
公家や僧侶たちは、戦乱を避けて、
所縁のある土地や所領へ下って行った。
前関白一条教房は、
いったん奈良に避けたのち、土佐へ、
その息一条政房も、
同じくいったん奈良へ下ったのち、
応仁2年(1468)11月には、
家領の摂津福原荘(兵庫荘とも)に下った。
兵庫福厳寺を住まいと定めたという。
荘内に所在した瀬戸内水運の要衝兵庫湊は、
当時、西軍の主力大内政弘勢の兵站基地となっており、
その家臣問田弘綱が守っていた。
この問田が、政房の安全を引き受けた。
政房も、問田らを信頼していたようである。
しかし、そこは戦乱のさなか。
西軍大内勢の兵站基地を抜かんとして、
文明元年(1469)10月16日、
東軍の山名是豊や赤松政則の軍勢が、兵庫を急襲。
守将問田弘綱と激突した。
初戦は大内方が優勢であったが、
山名・赤松勢の大軍が到着するにつれ、形勢は逆転していった。
そして、
翌17日未の刻(午後2時頃)、
兵庫を焼き払い、殲滅戦を敢行する山名勢や赤松・宇野・小寺・明石勢は、
福厳寺に乱入。
そこにいた政房を弑逆した。
18日、
大内方は、奈良方面に没落し、
守将問田も、いずこへ落ちていった。
軍記物『応仁記』や『応仁別記』は、以下のように描く。
新御所様(政房)は、本領の兵庫にいる折も、
いつものとおりのご装束にて、直衣狩衣を着し、
それは優美なるお姿であった。
どんな荒夷であっても、
このような高貴なお姿を見知っておくべきだが、
一人の武士が走ってきて、
そんなことは思いもわかず、
敵とみなして、長鑓を新御所の胸元へ突き通した。
新御所は少しも姿勢を崩すことなく、
「南無四方極楽世界阿弥陀仏」と唱えて、
そのまま朝の露と消えた。
孫の死を聞いた兼良はたいそう悲しみ、次の歌を詠んだ。
とても死ぬる命をいかで武士の家にむまれぬ事ぞくやしき
遺体は、東光寺において荼毘にふされた。
24歳とされている。
大納言局や御所侍新次郎等、身辺の者たちが出家した。
辞世の歌があったというが、今日には伝わらない。
奈良興福寺の大乗院尋尊(兼良の子)は、
兵庫の情報が入ってきた21日以降、甥政房の身を案じていたが、
11月6日になっても確報がつかめず、
やきもきした様子を、日記『大乗院寺社雑事記』に記している。
情報が入ってきたのは、
20日以上経った、11月11日以降のことであった。
18日には、入道した御所侍新次郎が尋尊のところへ来て、
政房最期のさまを語った。
12月初旬には、土佐にいる父教房のもとへも、
息子の横死が伝わっている。
尋尊は、
保元の乱の際に、流れ矢で命を落とした藤原頼長を引き合いに出し、
次のように述べている。
「摂家においては、保元御乱に、
宇治左府(藤原頼長)、流れ矢により薨じ給う。
これは両帝の御競いなり。
臣下の身、無力の事なり。
只今の儀、一向悪党の沙汰、
末代至極の事なり。
かつがつ当社(春日社)大明神の神慮如何。
但し、事の様を思案するのところ、
公家のありさま、皆もってかくの如し。
前後遅速の階級ばかりなり。
命を失うべきものなり。
歎くべし歎くべし。」 (『大乗院寺社雑事記』)
〔参考〕
『増補続史料大成(普及版) 大乗院寺社雑事記 4』 (臨川書店 2001年)
『増補続史料大成(普及版) 大乗院寺社雑事記 5』 (臨川書店 2001年)
『大日本史料 第8編之3』 (東京大学出版会 1969年)
石田晴男『応仁・文明の乱 (戦争の日本史 9)
藤井崇『大内義興―西国の「覇者」の誕生 (中世武士選書)
東京大学史料編纂所データベース
《自害》 《1374年》 《11月》 《23日》 《享年不明》
鎌倉円覚寺の上副寺(ふうす、寺院の財政を掌る職)。
応安7年(1374)11月23日、
円覚寺の上副寺某は、柴を買い求めようとしたところ、
その値段をめぐって、柴売りと口論になった。
副寺に罵られたことを根に持った柴売りは、
同日夜、円覚寺に忍び入り、
上副寺寮の柴置き小屋に、松明を投げ入れた。
副寺は、罵ったことを後悔したが、すでに遅く、
火は瞬く間に、仏殿など境内各所に広がった。
塔頭大仙庵に行き、
同僚の僧たちに、ことの次第と別れを告げた副寺は、
衣鉢を帯びて、燃えさかる仏殿に入り、
礼仏三拝して、烈火の中にその身を投じたのであった。
人々はこれを聞き、みな涙したという。
世間の怒りを拡散させた以外は、
何の解決にも資することのない責任のとりかた。
この火事で、
同契庵の僧某や正続院の僧6人、続灯庵の僧13人ほか、
寺中上下の多くの人々が焼死したという。
混乱の渦中にあった義堂周信は、火事の後、
「これを戒めとして、
今後商人らと相争ってはならない。
伽藍の荒廃はさだめだが、
戒めなく人のなすことによって、
小事が大事を生むとは、まさにこのことである。」
と説いた。
一方、この混乱の中で、
円覚寺秘蔵の霊鏡が、対立する建長寺に奪われる、
という雑説もおきていたらしい。
〔参考〕
『空華日用工夫略集』 (太洋社 1939年)
『群書類従 第26輯』 (続群書類従完成会)
蔭木英雄『訓注 空華日用工夫略集―中世禅僧の生活と文学』 (思文閣出版 1982年)
山田邦明「室町時代の鎌倉」 (五味文彦編『中世を考える 都市の中世』 吉川弘文館 1992年)
鎌倉円覚寺の上副寺(ふうす、寺院の財政を掌る職)。
応安7年(1374)11月23日、
円覚寺の上副寺某は、柴を買い求めようとしたところ、
その値段をめぐって、柴売りと口論になった。
副寺に罵られたことを根に持った柴売りは、
同日夜、円覚寺に忍び入り、
上副寺寮の柴置き小屋に、松明を投げ入れた。
副寺は、罵ったことを後悔したが、すでに遅く、
火は瞬く間に、仏殿など境内各所に広がった。
塔頭大仙庵に行き、
同僚の僧たちに、ことの次第と別れを告げた副寺は、
衣鉢を帯びて、燃えさかる仏殿に入り、
礼仏三拝して、烈火の中にその身を投じたのであった。
人々はこれを聞き、みな涙したという。
世間の怒りを拡散させた以外は、
何の解決にも資することのない責任のとりかた。
この火事で、
同契庵の僧某や正続院の僧6人、続灯庵の僧13人ほか、
寺中上下の多くの人々が焼死したという。
混乱の渦中にあった義堂周信は、火事の後、
「これを戒めとして、
今後商人らと相争ってはならない。
伽藍の荒廃はさだめだが、
戒めなく人のなすことによって、
小事が大事を生むとは、まさにこのことである。」
と説いた。
一方、この混乱の中で、
円覚寺秘蔵の霊鏡が、対立する建長寺に奪われる、
という雑説もおきていたらしい。
〔参考〕
『空華日用工夫略集』 (太洋社 1939年)
『群書類従 第26輯』 (続群書類従完成会)
蔭木英雄『訓注 空華日用工夫略集―中世禅僧の生活と文学』 (思文閣出版 1982年)
山田邦明「室町時代の鎌倉」 (五味文彦編『中世を考える 都市の中世』 吉川弘文館 1992年)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
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戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
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没年 1400~1429
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没年 1430~1459
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1431 | 1432 | 1433 |
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没年 1460~1499
没日
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22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
6歳 | ||
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31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
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47歳 | 48歳 | 49歳 |
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