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死に様データベース
《病死》 《1474年》 《7月》 《3日》 《享年50歳》


伏見宮家4代当主。
一品、式部卿。
父は3代当主貞成親王、
母は庭田経有の娘幸子(敷政門院)。


伏見宮貞常親王は、
後花園上皇の実弟として、
足利義政に争乱の鎮静を求める勅使をつとめたり、
義政の意を受けて、後土御門天皇の出家を留めるなど、
京都政界でも一定の役割を果たした。

応仁・文明の乱の兵火で、御所を焼かれ、
伏見や大原など洛外に居を移す。
洛中に戻ってからは、
足利義政の室町殿の片隅に寓居した。


前年に山名宗全と細川勝元が病没し、
その子政豊と政元の講和がようやくなった、
文明6年(1474)の6月、腹病を起こす。
月末には、勅使の見舞いを受けるも、一向によくならず、
7月3日、甥の後土御門天皇自身も見舞いに訪れた。


父貞成親王より琵琶の秘曲伝授を受けていた貞常は、
自身も廷臣等にこれを授けていた。
そのため、
親王の病が篤いと聞くと、
伝授を一部残している弟子が、しまいまで授けてほしいと、
見舞客にまじって、押しかけてくる。

同じ7月3日、
四辻季春来。
貞常が伝授の奥書を与えると、
季春は太刀や馬を進上して、帰って行った。
その晩、いよいよとして、
室町殿を退いて、室庭田盈子の邸に移ることになるが、
その直前になって、
口伝を残していると、今出川教季来。
これにも、貞常は奥書を与えた。

師弟の責務が、
教えを絶やさないことにあった時代の話である。


夜四つ時(10時頃)、盈子邸に移った貞常は、
姉妹の理延や雲岳聖朝、従姉妹観心(後花園天皇娘)の見舞われつつ、
丑の刻(深夜2時頃)、逝去。
享年50歳。
後大通院と追号された。

「和漢の才あり。心荘御穏便。」(『親長卿記』)の人であったという。



〔参考〕
『史料纂集 言国卿記 1』 (続群書類従完成会 1969年)
『増補史料大成 親長卿記 1』 (臨川書店 1965年)
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《事故死》 《1441年》 《12月》 《28日》 《享年不明》


禁裏御料伊勢国栗真荘の荘民で、
仕丁として内裏に伺候していた人夫。


内裏の北門内の東脇に、古来より井戸があった。
屋根のついた立派な井戸で、
涼味がすぐれているとのことで、
天皇の飲料用に供されてきた。


嘉吉元年(1441)12月28日申の刻(夕方4時頃)、
栗真荘の人夫2人が、水を汲もうとしたとき、
井筒が崩壊。
2人は、井戸の中に転落した。

1人は、途中でひっかかったらしく、
すぐに救出されたが、
もう1人は、井戸の底まで落ちていて、
救い上げることができなかった。

数十人を動員して、土を掘り石をのけての救出作業の末、
未明になって、ようやく人夫のもとに到達したが、
すでに死亡したあとであった。


内裏の内での死穢により、天下触穢。


この井戸の周辺には、埋樋があり、
水が流れず、始終停滞していた。
東洞院から御池に流れる水も、
このあたりを通っていたといい、
何かと排水の悪いところであったらしい。
御庭の者たちは、以前からその改善を願い出ていたが、
何かと先延ばしにしていたところ、
この事故が起きたのである。

お上の怠慢による死亡事故。
既視感たっぷりな一件。



〔参考〕
『大日本古記録 建内記 5』 (東京大学史料編纂所 1972年)
《事故死》 《1502年》 《3月》 《22日》 《享年38歳》


室町幕府奉公衆。
南北朝期に、信濃の小笠原氏から分かれた家で、
在京して、室町将軍家に仕え、
武家故実の相承や弓馬師範にあたった。
礼儀作法で名高い「小笠原流」の起源であるとされる。


文亀2年(1502)3月、
小笠原尚清は、
 鷹の飼育に必要な鳥の雛を取ってこい
との、将軍足利義高の命を受けた。
小笠原氏が、鷹術師範も務めていたからであろう。

命を受けた尚清は、17日頃、
管領細川政元の屋敷の庭で、
木に登って、鳥の巣から雛鳥を捕ろうとした。
ところが、
足を滑らせたか、木より落下。
このとき、枯れ木の枝で足を踏み抜き、
それがもとで、破傷風を発症。
高熱をともなう症状は、20日には重篤となり、
22日、死亡。
38歳であった。

「かの一流口伝断絶か。
 もってのほかの儀也。
 …希代の事也。」(『小槻時元記』)
とは、官人大宮時元の言。


事故からわずか4、5日。
なんとも同情を禁じ得ない。



※ 本記事の内容は、K氏の情報提供による。記して謝したい。

〔参考〕
『続史料大成 大乗院寺社雑事記 11』 (臨川書店 2001年)
東京大学史料編纂所データベース
《事故死》 《1423年》 《正月》 《5日》 《享年不明》


赤松満祐の弟。
室町殿足利義持の近習。


応永30年(1423)正月4日、
赤松則友は、
足利義持の管領畠山満家亭への渡御に供奉。
帰路のお供も、無事につとめた。

しかし、
宴の後で泥酔していた則友は、自邸に帰る途次、
大館満信亭前の辺りで、落馬。
頭を馬に踏まれ、
急所も打ったらしい。
周囲に支えられて帰亭したが、
意識を失っており、
翌5日朝、逝去。


一説によると、
則友は、
三条八幡宮の東辺りで、室町御所の裏築地を、
馬に乗ったまま、乗り越えようとしたらしい。
当日の4日に、則友は、
三条八幡宮に神馬を奉納したばかりであったにもかかわらず、
かかる厄難に遭遇したのであった。



〔参考〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004年)
コトバンク(『朝日日本歴史人物事典』)
《誅殺》 《1424年》 《3月》 《14日》 《享年不明》


室町殿足利義持の近習。


応永31年(1424)3月14日、
前管領細川満元が、赤松一族らを招いて宴を催した。
皆したたかに酔い、
室町殿足利義持の近習安東某も、
酔っ払って、ごろりとしていたところ、
いきなり、赤松義雅によって刺し殺された。
義雅は逃走。
理由は不明。


怒った安東の傍輩たちは、
赤松邸に押し寄せようとしたが、
室町殿義持に制せられ、両者の衝突は回避された。

義持は、義雅を切腹させようとしたが、
義雅はなお雲隠れしていたため、果たせず。


おさまらない安東の傍輩たちは、
赤松家に代わりの人間の切腹を要求する。
そこで、義雅の家臣裏壁(浦上)某を切腹させることとなった。

はじめ、裏壁父子2人の切腹が検討された。
だが、
安東1人の死に対して、父子2人の切腹では釣り合わない、ということで、
1人にしぼることとなり、
散々もめたあげく、息子の方を切腹させることになった。
この息子、まだ元服前であったようだが、
切腹の様は「大強の者」(『常楽記』)のようであり、
人々の涙を誘ったという。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006年)
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
『群書類従 第29輯 雑部』 (続群書類従完成会 1959年)
清水克行『喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)』 (講談社 2006年)
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