死に様データベース
《病死》 《1441年》 《5月》 《28日》 《享年26歳》
伏見宮貞成親王第一王女。
父貞成、45歳のときの、待望の第一子である。
三時智恩寺(入江殿)方丈。
嘉吉元年(1441)3月、
京都周辺で、疱瘡(天然痘)が流行。
後花園天皇や後崇光院伏見宮貞成親王の周辺でも、
感染者が相次いだ。
3月14日、性恵も感染し、
母庭田幸子の見舞いを受けた。
17日、病状が思いのほか重篤であるとして、
再び母の見舞いを受けたが、
「今日はいささかよき様なり」(『看聞日記』、以下同)
と、元気な様子を見せたらしい。
この日、
伏見宮家の仕女新大夫が、罹患のため宮亭を退出。
貞成親王の近臣庭田重賢もまだ癒えず、宮家に祗候していなかった。
性恵の実弟後花園天皇も罹っている。
21日にも、母幸子は娘性恵を見舞う。
病状は変わらず。
将軍足利義教から医師が遣わされ、
また父貞成親王も、医師和気茂成を遣わしている。
同日、後花園天皇が発疹して、大騒ぎになっている。
23日、幸子は息後花園の見舞いへ。
25日には、
性恵・後花園姉弟ともに、やや病状が落ち着いた。
27日、また幸子は娘を見舞ったが、
病状は再び悪化したようで、苦しげあったという。
一方の後花園は、次第に快方に向かっていった。
28日、性恵、小康。
こうして、性恵の病状は一進一退を繰り返す。
4月初旬、
疱瘡流行の猛威は、とどまることを知らず、
伏見宮家を襲う。
近衛局・春日局・右衛門督局・新大夫ら女中たちや、近臣西大路隆富が感染し、
貞成の次男・四女・五女も罹った。
宮亭には、竹田昌耆・小森頼豊ら医師が、
たびたび診察に訪れている。
性恵の病状はといえば、
4月3日、「いささかよき様」、
8日、「いささか本復」。
8日の快復具合は、なかなかのもので、
病床から出て、父貞成の御所を訪れるほどのものであった。
しかし、
19日、「再発か」。
「本復念願無極」の言葉には、
父貞成の落胆と切なる祈りが感じられる。
21日、病状変わらず。
23日から29日まで、快復を祈って、
陰陽師土御門有重によって泰山府君祭が行われた。
初日に早速験があったらしく、
「昨日よりいささかまたよき様の気色と云々」、
結願日にも、
「今日いささかよき御事と云々」。
30日、ほぼ変わらずながら、
「いささかよき分也」。
こう記す父貞成の日記からは、
せめて気休めでも…
という想いすらうかがえる。
5月に入っても、病状は変わらなかった。
5月12日、容態はさらに悪化。
「方丈(性恵)の御式(容態)、猶ご窮屈の様たのみなし。
祈療のほかはたのむところなし。
祈念無極。」
この「祈療」、すなわち祈祷と治療が、しきりに行われた。
父貞成は、巷の僧や陰陽師にも祈祷を命じており、
三時智恩寺からも、新伊勢社や御香宮社に、
参拝の使者が派遣された。
15日、「いささかよき様」、
18日、「おなじ御式」。
なお、一進一退。
20日頃、貞成周辺で再び感染が相次ぐ。
新大夫、貞成の四女ちよちよ、大進局、庭田重賢が罹患。
「毎事恐怖無極」。
22日夜、
性恵は重態に陥り、
三時智恩寺からは、もしもの時のことを告げられた。
触穢を避けてのことだろう、
見舞う時はこっそりと、とのことであった。
しかし、医師は、
まだ悪い脈が出ていないので、今夜は大丈夫だろう、
と言うので、父貞成も母幸子も見舞いには行かなかった。
だが、性恵は、
この夜は特に苦しげで、
暁になってようやく静まり、寝付いたという。
23日未明、
性恵は安居院に移された。
父貞成がこっそりと見舞うと、
辛そうな様子で寝ており、
「前後を知らず惘然の式」
すなわち、人事不省に陥っていた。
顔色は、邪気のせいか、
死相はなく、平生のとおりであった。
同日夜、父が再び見舞うと、
朝と同じ様子だったが、
いささか意識を取り戻したようであった。
目を見開き、父の姿を見、
やがてまた寝入ってしまった。
25日、
熱が下がり、性恵の容態は、やや快復。
この一事でも、父貞成は、
「心安く、喜悦」
と喜んでいる。
そして、28日早朝、
性恵の息は、徐々に細くなり、
やがて、絶えた。
享年26歳。
性恵危篤の報を聞いた母幸子らは、急ぎ駆けつけようとしたが、
臨終の際には間に合わなかった。
「老体の親に先立たるるの条、老少不定、今更驚かる」
「ただ悲歎のほか惘然のみ」
70歳の父にとって、
娘の死はどれほどの重さであったろうか。
6月5日、泉涌寺竹園院にて荼毘。
前日の27日には、
貞成の義母東御方が没したばかりであった。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 6』 (宮内庁書陵部 2012年)
伏見宮貞成親王第一王女。
父貞成、45歳のときの、待望の第一子である。
三時智恩寺(入江殿)方丈。
嘉吉元年(1441)3月、
京都周辺で、疱瘡(天然痘)が流行。
後花園天皇や後崇光院伏見宮貞成親王の周辺でも、
感染者が相次いだ。
3月14日、性恵も感染し、
母庭田幸子の見舞いを受けた。
17日、病状が思いのほか重篤であるとして、
再び母の見舞いを受けたが、
「今日はいささかよき様なり」(『看聞日記』、以下同)
と、元気な様子を見せたらしい。
この日、
伏見宮家の仕女新大夫が、罹患のため宮亭を退出。
貞成親王の近臣庭田重賢もまだ癒えず、宮家に祗候していなかった。
性恵の実弟後花園天皇も罹っている。
21日にも、母幸子は娘性恵を見舞う。
病状は変わらず。
将軍足利義教から医師が遣わされ、
また父貞成親王も、医師和気茂成を遣わしている。
同日、後花園天皇が発疹して、大騒ぎになっている。
23日、幸子は息後花園の見舞いへ。
25日には、
性恵・後花園姉弟ともに、やや病状が落ち着いた。
27日、また幸子は娘を見舞ったが、
病状は再び悪化したようで、苦しげあったという。
一方の後花園は、次第に快方に向かっていった。
28日、性恵、小康。
こうして、性恵の病状は一進一退を繰り返す。
4月初旬、
疱瘡流行の猛威は、とどまることを知らず、
伏見宮家を襲う。
近衛局・春日局・右衛門督局・新大夫ら女中たちや、近臣西大路隆富が感染し、
貞成の次男・四女・五女も罹った。
宮亭には、竹田昌耆・小森頼豊ら医師が、
たびたび診察に訪れている。
性恵の病状はといえば、
4月3日、「いささかよき様」、
8日、「いささか本復」。
8日の快復具合は、なかなかのもので、
病床から出て、父貞成の御所を訪れるほどのものであった。
しかし、
19日、「再発か」。
「本復念願無極」の言葉には、
父貞成の落胆と切なる祈りが感じられる。
21日、病状変わらず。
23日から29日まで、快復を祈って、
陰陽師土御門有重によって泰山府君祭が行われた。
初日に早速験があったらしく、
「昨日よりいささかまたよき様の気色と云々」、
結願日にも、
「今日いささかよき御事と云々」。
30日、ほぼ変わらずながら、
「いささかよき分也」。
こう記す父貞成の日記からは、
せめて気休めでも…
という想いすらうかがえる。
5月に入っても、病状は変わらなかった。
5月12日、容態はさらに悪化。
「方丈(性恵)の御式(容態)、猶ご窮屈の様たのみなし。
祈療のほかはたのむところなし。
祈念無極。」
この「祈療」、すなわち祈祷と治療が、しきりに行われた。
父貞成は、巷の僧や陰陽師にも祈祷を命じており、
三時智恩寺からも、新伊勢社や御香宮社に、
参拝の使者が派遣された。
15日、「いささかよき様」、
18日、「おなじ御式」。
なお、一進一退。
20日頃、貞成周辺で再び感染が相次ぐ。
新大夫、貞成の四女ちよちよ、大進局、庭田重賢が罹患。
「毎事恐怖無極」。
22日夜、
性恵は重態に陥り、
三時智恩寺からは、もしもの時のことを告げられた。
触穢を避けてのことだろう、
見舞う時はこっそりと、とのことであった。
しかし、医師は、
まだ悪い脈が出ていないので、今夜は大丈夫だろう、
と言うので、父貞成も母幸子も見舞いには行かなかった。
だが、性恵は、
この夜は特に苦しげで、
暁になってようやく静まり、寝付いたという。
23日未明、
性恵は安居院に移された。
父貞成がこっそりと見舞うと、
辛そうな様子で寝ており、
「前後を知らず惘然の式」
すなわち、人事不省に陥っていた。
顔色は、邪気のせいか、
死相はなく、平生のとおりであった。
同日夜、父が再び見舞うと、
朝と同じ様子だったが、
いささか意識を取り戻したようであった。
目を見開き、父の姿を見、
やがてまた寝入ってしまった。
25日、
熱が下がり、性恵の容態は、やや快復。
この一事でも、父貞成は、
「心安く、喜悦」
と喜んでいる。
そして、28日早朝、
性恵の息は、徐々に細くなり、
やがて、絶えた。
享年26歳。
性恵危篤の報を聞いた母幸子らは、急ぎ駆けつけようとしたが、
臨終の際には間に合わなかった。
「老体の親に先立たるるの条、老少不定、今更驚かる」
「ただ悲歎のほか惘然のみ」
70歳の父にとって、
娘の死はどれほどの重さであったろうか。
6月5日、泉涌寺竹園院にて荼毘。
前日の27日には、
貞成の義母東御方が没したばかりであった。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 6』 (宮内庁書陵部 2012年)
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《誅殺》 《1437年》 《11月》 《6日》 《享年不明》
将軍足利義教の召仕、
遁世者。
永享9年(1437)11月6日、
室町殿足利義教に祗候する女房東御方と少弁の、スキャンダルが発生した。
相国寺僧や行道らとの密通が露顕したのである。
東御方と少弁は流罪、
密通相手の相国寺僧4名は、刎首。
また、
少弁の密通相手で、これを庇おうとした佐阿弥も、
斬首された。
追っ手を逃れて、行方をくらました者もいた。
なお、この東御方は、
長慶天皇の孫であったという。
このスキャンダルに相前後して、
室町御所内の暗部が、芋づる式に明るみに出たらしい。
阿野実治の娘二条局は、髪を切られて、追い出され、
その他の関係者も片っ端から処罰されて、
切腹させられる者もいたという。
同じ頃、
義教の室正親町三条尹子の病悩も、
天狗の所行との噂も流れた。
底の見えない不祥事の数々に対する不信感と、
それへの苛烈な追及に対する恐怖が、
人ならぬ者の存在まで生んだのであろう。
スキャンダルが、
左遷でも、丸刈りでも、降板でも済まされなかったのは、
中世ゆえでもあるとも言えるが、
ときの将軍の個性にもよっている。
当時は、将軍足利義教の恐怖政治の最盛期であり、
10月にも、徳大寺公有や、楽人豊原久秋ら一党7人が、
次々と突鼻(失脚、出仕停止)されている。
まさしく、
「薄氷をふむ時節、恐怖無極、」(『看聞日記』)
の日々であった。
とある比丘尼が、
伊勢神宮参詣の帰路に、狂気を発して述べた託宣には、
「すべては悪将軍ゆえ」(『看聞日記』)
というが、
悪将軍の恐怖政治は、義教本人が弑されるまで、
まだ3年以上続く。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 6』 (宮内庁書陵部 2012年)
東京大学史料編纂所データベース
将軍足利義教の召仕、
遁世者。
永享9年(1437)11月6日、
室町殿足利義教に祗候する女房東御方と少弁の、スキャンダルが発生した。
相国寺僧や行道らとの密通が露顕したのである。
東御方と少弁は流罪、
密通相手の相国寺僧4名は、刎首。
また、
少弁の密通相手で、これを庇おうとした佐阿弥も、
斬首された。
追っ手を逃れて、行方をくらました者もいた。
なお、この東御方は、
長慶天皇の孫であったという。
このスキャンダルに相前後して、
室町御所内の暗部が、芋づる式に明るみに出たらしい。
阿野実治の娘二条局は、髪を切られて、追い出され、
その他の関係者も片っ端から処罰されて、
切腹させられる者もいたという。
同じ頃、
義教の室正親町三条尹子の病悩も、
天狗の所行との噂も流れた。
底の見えない不祥事の数々に対する不信感と、
それへの苛烈な追及に対する恐怖が、
人ならぬ者の存在まで生んだのであろう。
スキャンダルが、
左遷でも、丸刈りでも、降板でも済まされなかったのは、
中世ゆえでもあるとも言えるが、
ときの将軍の個性にもよっている。
当時は、将軍足利義教の恐怖政治の最盛期であり、
10月にも、徳大寺公有や、楽人豊原久秋ら一党7人が、
次々と突鼻(失脚、出仕停止)されている。
まさしく、
「薄氷をふむ時節、恐怖無極、」(『看聞日記』)
の日々であった。
とある比丘尼が、
伊勢神宮参詣の帰路に、狂気を発して述べた託宣には、
「すべては悪将軍ゆえ」(『看聞日記』)
というが、
悪将軍の恐怖政治は、義教本人が弑されるまで、
まだ3年以上続く。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 6』 (宮内庁書陵部 2012年)
東京大学史料編纂所データベース
《誅殺》 《1419年》 《6月》 《20日》 《享年不明》
権大納言三条公光の青侍。
京都の街中に、とある元結い売りがいた。
元結いとは、髻を結う紐のこと。
応永26年(1419)頃のこと、
三条公光に仕える青侍掃部助は、
この元結い売りに、元結いを注文した。
ところが、
待てど暮らせど、なかなかできあがってこない。
しびれをきらした掃部助は、
下女を遣わして、元結い売りの遅延を責めさせた。
しかし、というべきか、案の定、というべきか、
下女の難詰に、店の者は激昂し、口論に発展。
ついには、
店の者が、下女に殴る蹴るの暴力をふるい、
その髪を切り落として、叩き出した。
この上ない屈辱を受けた下女は、主の掃部助のもとに走り帰り、
元結い売りの所業を訴えた。
怒った掃部助は、
さらに主人の三条公光のもとへ報告しに行こうとしたところ、
その途中、一条室町で、元結い売り一行に行き遭った。
あるいは、待ち伏せであったか。
一触即発、
元結い売りは、有無を言わさず矢を放った。
対する掃部助も、太刀を抜いて散々に斬りまわり、
2、3人を斬り伏せ、
両者は差し違えて死んだ。
これで終わらないのが、中世の喧嘩である。
この騒ぎに、
掃部助の同僚たち(三条家青侍)が駆けつけた。
一方の元結い売り方には、
その主人の幕府奉公衆関口氏(今川一族)のもとから、大勢馳せ集まった。
すでに、喧嘩の当人たちは死んでいるのに、である。
両者は京都市街地で衝突、合戦に及び、
数多の死傷者を出した。
元結い売り方・関口勢が優勢だったらしい。
勝ちにのった関口勢は、
さらに、三条公光亭に攻め寄せようとしたが、
抗する三条方には、
足利一門の吉良氏が合力したため、攻められず、
にらみ合いとなった。
ここで、
ようやく事態が室町殿足利義持の耳に達し、
お裁きが下る。
義持は、先に仕掛けた元結い売り・関口方を非とし、
関口を追放。
防戦した三条公光には感状を与えて、
青侍ら功名の者たちには、褒美を与えた。
応永26年(1419)6月20日のこと。
中世人のプライドの高さと、
それを共有する集団意識を示す事件とされている。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
清水克行『喧嘩両成敗の誕生』 (講談社 2006年)
権大納言三条公光の青侍。
京都の街中に、とある元結い売りがいた。
元結いとは、髻を結う紐のこと。
応永26年(1419)頃のこと、
三条公光に仕える青侍掃部助は、
この元結い売りに、元結いを注文した。
ところが、
待てど暮らせど、なかなかできあがってこない。
しびれをきらした掃部助は、
下女を遣わして、元結い売りの遅延を責めさせた。
しかし、というべきか、案の定、というべきか、
下女の難詰に、店の者は激昂し、口論に発展。
ついには、
店の者が、下女に殴る蹴るの暴力をふるい、
その髪を切り落として、叩き出した。
この上ない屈辱を受けた下女は、主の掃部助のもとに走り帰り、
元結い売りの所業を訴えた。
怒った掃部助は、
さらに主人の三条公光のもとへ報告しに行こうとしたところ、
その途中、一条室町で、元結い売り一行に行き遭った。
あるいは、待ち伏せであったか。
一触即発、
元結い売りは、有無を言わさず矢を放った。
対する掃部助も、太刀を抜いて散々に斬りまわり、
2、3人を斬り伏せ、
両者は差し違えて死んだ。
これで終わらないのが、中世の喧嘩である。
この騒ぎに、
掃部助の同僚たち(三条家青侍)が駆けつけた。
一方の元結い売り方には、
その主人の幕府奉公衆関口氏(今川一族)のもとから、大勢馳せ集まった。
すでに、喧嘩の当人たちは死んでいるのに、である。
両者は京都市街地で衝突、合戦に及び、
数多の死傷者を出した。
元結い売り方・関口勢が優勢だったらしい。
勝ちにのった関口勢は、
さらに、三条公光亭に攻め寄せようとしたが、
抗する三条方には、
足利一門の吉良氏が合力したため、攻められず、
にらみ合いとなった。
ここで、
ようやく事態が室町殿足利義持の耳に達し、
お裁きが下る。
義持は、先に仕掛けた元結い売り・関口方を非とし、
関口を追放。
防戦した三条公光には感状を与えて、
青侍ら功名の者たちには、褒美を与えた。
応永26年(1419)6月20日のこと。
中世人のプライドの高さと、
それを共有する集団意識を示す事件とされている。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
清水克行『喧嘩両成敗の誕生』 (講談社 2006年)
《誅殺》 《1419年》 《正月》 《25日》 《享年不明》
比叡山僧。
青蓮院門徒。山門使節。
山門使節であった円明坊兼承は、
応永25年(1418)冬頃から、
室町殿足利義持の不興を買っていた。
山門使節とは、
室町幕府によって設置された比叡山衆徒統制のための組織で、
複数の有力山徒よりして成り、
幕府から比叡山に対する種々の権限を付与されていて、
「比叡山の守護」とも称されるような存在である。
翌26年(1419)正月25日朝、
兼承は、鞍馬寺へ参詣の途次、市原野において、
暴漢たちの襲撃を受けた。
襲ったのは、兼承の弟の乗蓮房兼宗。
兼宗は、義持の密命を受けていたという。
襲撃を受けた兼承の護衛の者たち20数名は皆、
散り散りに逃げ去ったが、
中間1人だけは踏みとどまり、
主人兼承とともに奮戦の末、ともに討死。
襲った兼宗側も、数名の死者を出した。
翌月、
兼宗は義持より、
その手で葬った兄兼承の旧領を与えられ、
円明坊は廃絶した。
兼宗はその後、いったん失脚するが、復活を果たし、
円明坊を再興して、房主におさまった。
彼とその息子たちが、のちに幕府と対立し、
永享の山門騒乱の中心人物として、
凄絶な死に様を迎えるのは、また別の話。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
『続群書類従 補遺 1 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
『増補史料大成 37 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
下坂守『中世寺院社会の研究』 (思文閣出版 2001年)
比叡山僧。
青蓮院門徒。山門使節。
山門使節であった円明坊兼承は、
応永25年(1418)冬頃から、
室町殿足利義持の不興を買っていた。
山門使節とは、
室町幕府によって設置された比叡山衆徒統制のための組織で、
複数の有力山徒よりして成り、
幕府から比叡山に対する種々の権限を付与されていて、
「比叡山の守護」とも称されるような存在である。
翌26年(1419)正月25日朝、
兼承は、鞍馬寺へ参詣の途次、市原野において、
暴漢たちの襲撃を受けた。
襲ったのは、兼承の弟の乗蓮房兼宗。
兼宗は、義持の密命を受けていたという。
襲撃を受けた兼承の護衛の者たち20数名は皆、
散り散りに逃げ去ったが、
中間1人だけは踏みとどまり、
主人兼承とともに奮戦の末、ともに討死。
襲った兼宗側も、数名の死者を出した。
翌月、
兼宗は義持より、
その手で葬った兄兼承の旧領を与えられ、
円明坊は廃絶した。
兼宗はその後、いったん失脚するが、復活を果たし、
円明坊を再興して、房主におさまった。
彼とその息子たちが、のちに幕府と対立し、
永享の山門騒乱の中心人物として、
凄絶な死に様を迎えるのは、また別の話。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
『続群書類従 補遺 1 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
『増補史料大成 37 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
下坂守『中世寺院社会の研究』 (思文閣出版 2001年)
《病死》 《1417年》 《2月》 《11日》 《享年47歳》
伏見宮家当主。
栄仁親王王子。
応永23年(1416)11月20日、
父栄仁親王の薨去により、
その嫡子治仁王は、伏見宮家の当主となった。
11月24日、
故栄仁親王の荼毘のさなかに、
桟敷あたりから人魂が飛んだという。
故栄仁親王の仏事がひととおり済み、
年始のムードも落ち着いた、応永24年(1417)2月7日、
治仁王のもとにひとりの医師が現れた。
見るからに異様で不気味な医師であったが、
治仁王には以前お目にかかったことがある、とのことで、
御前に呼ばれ、
治仁を診察し、薬を献じて帰っていった。
4日後の11日、
日暮れから黒雲が湧き立ち、
夜には、肝を消すほどの激しい雷雨となった。
治仁王は、退屈しのぎに弟の貞成王を呼ぶことにし、
近臣の田向長資を遣わした。
貞成が赴くと、長資は早々に退出し、
兄弟2人きりとなった。
と、
にわかに、治仁王が昏倒。
何か呻いたが、聞き取ることはできず、
意識が朦朧として、人事不省に陥った。
驚いた貞成は、慌てて近衛局を呼び、
今上臈ら女房たちが集まった。
後ろから抱え起こして、
蘇合を口に含ませようとしたが、
歯を食いしばっていたために、飲ませることができなかった。
右手足も硬直していて、
明らかに中風(卒中)の症状を呈していた。
庭田重有ら近臣たちも、ようやく集まったが、
皆うろたえるばかりであった。
医術の心得のある僧無相中訓は、
「大中風」と診察。
医師心知客も呼んだが、夜中のためか来ず。
そこで、
法安寺の僧良明房を呼び、祈祷を行わせたが、
回復せず、
喋ることもできぬまま、「悶絶の体」(『看聞日記』)であった。
寅の刻(午前4時)、ついに薨去。
47歳。
父に続くこと、わずか2ヶ月と20日ばかり。
翌12日より、荼毘のことが話し合われたが、
伏見宮家の菩提寺大光明寺は、
時宜、室町殿足利義持に憚るとして、固辞。
蔵光庵で密々に行おうとしたが、蔵光庵主も難色を示した。
「両方故障珍事也、
尊霊不運、没後の恥辱也」(『看聞日記』)
と、弟貞成は憤っている。
13日、
遺骸の剃髪の儀。
法名「松屋衍公」。
14日、
ようやく、蔵光庵で荼毘を行うことが決まり、
15日、荼毘。
17日、収骨の儀であったが、
豪雨のため、中止。
そして、この日、
懐妊していた治仁王の室今上臈が産気づき、
酉の刻(夕方6時頃)、女児を出産した。
これにより、
治仁の子は女児のみとなったため、
弟貞成王の伏見宮家相続が決まった。
しかし、
翌18日頃から、伏見宮家に不穏な空気が立ちこめる。
治仁王の頓死は、貞成王の暗殺によるものではないか、
との風聞が立ったのである。
死の4日前に現れた不気味な医師が献じたのは、毒薬であり、
貞成王・対御方(栄仁親王室)・庭田重有の差し金だった、
というのだ。
また、
死の当日の激しい雷雨は、
治仁王に雷神が取り憑いたからだ、
との噂もあった。
渦中の貞成は、
室町殿足利義持や後小松上皇に釈明し、
火消しに奔走した。
その甲斐あってか、
3月には、貞成の相続が安堵されている。
だが、
3月27日、
治仁王の遺品のなかから、
貞成王を猶子とする旨の置文が出てきたというのは、
なんだかできすぎの感がなくもない。
なお、
3月12日、
院号「葆光院」と定まり、
13日、大光明寺へ納骨。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
横井清『室町時代の一皇族の生涯』 (講談社学術文庫 2002年)
伏見宮家当主。
栄仁親王王子。
応永23年(1416)11月20日、
父栄仁親王の薨去により、
その嫡子治仁王は、伏見宮家の当主となった。
11月24日、
故栄仁親王の荼毘のさなかに、
桟敷あたりから人魂が飛んだという。
故栄仁親王の仏事がひととおり済み、
年始のムードも落ち着いた、応永24年(1417)2月7日、
治仁王のもとにひとりの医師が現れた。
見るからに異様で不気味な医師であったが、
治仁王には以前お目にかかったことがある、とのことで、
御前に呼ばれ、
治仁を診察し、薬を献じて帰っていった。
4日後の11日、
日暮れから黒雲が湧き立ち、
夜には、肝を消すほどの激しい雷雨となった。
治仁王は、退屈しのぎに弟の貞成王を呼ぶことにし、
近臣の田向長資を遣わした。
貞成が赴くと、長資は早々に退出し、
兄弟2人きりとなった。
と、
にわかに、治仁王が昏倒。
何か呻いたが、聞き取ることはできず、
意識が朦朧として、人事不省に陥った。
驚いた貞成は、慌てて近衛局を呼び、
今上臈ら女房たちが集まった。
後ろから抱え起こして、
蘇合を口に含ませようとしたが、
歯を食いしばっていたために、飲ませることができなかった。
右手足も硬直していて、
明らかに中風(卒中)の症状を呈していた。
庭田重有ら近臣たちも、ようやく集まったが、
皆うろたえるばかりであった。
医術の心得のある僧無相中訓は、
「大中風」と診察。
医師心知客も呼んだが、夜中のためか来ず。
そこで、
法安寺の僧良明房を呼び、祈祷を行わせたが、
回復せず、
喋ることもできぬまま、「悶絶の体」(『看聞日記』)であった。
寅の刻(午前4時)、ついに薨去。
47歳。
父に続くこと、わずか2ヶ月と20日ばかり。
翌12日より、荼毘のことが話し合われたが、
伏見宮家の菩提寺大光明寺は、
時宜、室町殿足利義持に憚るとして、固辞。
蔵光庵で密々に行おうとしたが、蔵光庵主も難色を示した。
「両方故障珍事也、
尊霊不運、没後の恥辱也」(『看聞日記』)
と、弟貞成は憤っている。
13日、
遺骸の剃髪の儀。
法名「松屋衍公」。
14日、
ようやく、蔵光庵で荼毘を行うことが決まり、
15日、荼毘。
17日、収骨の儀であったが、
豪雨のため、中止。
そして、この日、
懐妊していた治仁王の室今上臈が産気づき、
酉の刻(夕方6時頃)、女児を出産した。
これにより、
治仁の子は女児のみとなったため、
弟貞成王の伏見宮家相続が決まった。
しかし、
翌18日頃から、伏見宮家に不穏な空気が立ちこめる。
治仁王の頓死は、貞成王の暗殺によるものではないか、
との風聞が立ったのである。
死の4日前に現れた不気味な医師が献じたのは、毒薬であり、
貞成王・対御方(栄仁親王室)・庭田重有の差し金だった、
というのだ。
また、
死の当日の激しい雷雨は、
治仁王に雷神が取り憑いたからだ、
との噂もあった。
渦中の貞成は、
室町殿足利義持や後小松上皇に釈明し、
火消しに奔走した。
その甲斐あってか、
3月には、貞成の相続が安堵されている。
だが、
3月27日、
治仁王の遺品のなかから、
貞成王を猶子とする旨の置文が出てきたというのは、
なんだかできすぎの感がなくもない。
なお、
3月12日、
院号「葆光院」と定まり、
13日、大光明寺へ納骨。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
横井清『室町時代の一皇族の生涯』 (講談社学術文庫 2002年)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
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1351 | 1352 | 1353 |
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没年 1400~1429
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1414 | 1415 | 1416 |
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1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
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1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
6歳 | ||
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18歳 | 19歳 | |
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30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
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本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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