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死に様データベース
《病死》 《1431年》 《8月》 《2日》 《享年34歳》


醍醐寺妙法院。大僧正。


永享2年(1430)末頃より、
妙法院賢長は、長患いをしていたらしい。


永享3年(1431)6月14日、
医師上池院胤能が、瘧気と診断し、
「200日以上も治療を受けながら、なかなか治らない。
 まずは早く瘧を落したほうがよい。」と、
栂尾高山寺にいる、瘧を落とすのが上手い僧を呼ぶことを勧めた。


17日、
賢長の病は重篤となる。
医師清阿は、
重態だが、今日、明日どうこうということではない、
と診断した。
申の終わり(夕方5時頃)には、
少し回復して、食事を摂ったという。


そして、この日の夕方、
瘧を落とすのが上手いという、栂尾高山寺の禅淳坊という律僧がやってきた。
禅淳坊によれば、
落とすには50日ほど遅かった、ということだったが、
それでもやってみよう、と加持を引き受けたのである。

禅淳坊は、患者賢長の胸に、
「是大明王無其所居、但住衆生心想之中、」と墨書し、
その上下左右に、梵字を書いて、
独鈷杵で背中を打ち、加持を行った。
これは、白芥子の加持というもので、
白ケシを土器に盛り、ザクロなども用いて行うものだという。
禅淳坊は、この日から妙法院に泊り込み、
不動護摩なども焚いた。


なお、この日、
万一に備えて、
賢長跡の相続人として、葉室長忠の9歳の孫を入室させること、
その成人までの間は、金剛手院賢快が扶助することなどが、決められた。


翌18日、
今度は、
山名時煕の被官山口国衡が呼んだ医徳庵善逗という医僧が来て、
単なる積聚(腹痛・胸痛、癇癪)であって、瘧気ではない、と診断した。
医徳庵善逗は、
「人をよくなおす人」(「郡司文書」)
「(細川満久が病死したときも、)
 医徳庵が京都にいれば、助けられただろうに。」(同)
と、評判の医師であったらしいが、
このときは、
「治療をするのが遅すぎた。
 せめてもう20日早ければ、簡単に治ったものを。」
と「放言」(『満済准后日記』)したという。


また、賢長は、
医師寿阿より処方された薬をやめ、
清阿の処方したものに切り替えた。
この18日は、やや体調もよかったらしく、
食事も少し摂ったという。
見舞った三宝院満済は、それを聞いて少し安堵している。


19日、
賢長を診断した寿阿が、
近々急変するということはないが、もはやどうしようもない、と、
匙を投げた。


21日、
またしても賢長は重態に陥るが、一命を保った。
上池院胤能が、14日の時と同じように診断し、
「昨年10月についた瘧気によるものであり、
 脾臓に伏連という虫が入り込んで、悪さをしているのである。
 知らない者は、積聚と判断するだろう。」
と、医徳庵の診断を退けた。


22日、
禅僧の医師桂園が来診。
「脾臓の積聚とも考えられる。
 はやく落としたほうが良い。」
また、建蔵という医師も来て、
「脾臓の積聚であろうが、
 今は瘧気が表に出てきている。
 ただ、危険な瘧気ではない。」
と診断。


23日、
病床の賢長は、大僧正に昇進。

この日は、帥坊という医師が来た。
14日以来、実に7人目の医師。
「瘧気ではなく、脾臓の積聚で、
 かなり活発で、危険な状態ではあるが、
 治療は、絶対に諦めてはならない。」
と励ましのようなことを言った。


27日、
槙尾西明寺の律僧俊光坊が、瘧気を落とす加持を行い、
申の初め(午後3時頃)に始めて、
酉の半刻(夕方6時頃)には、悉く落とした、ということだった。


7月2日申の初め(午後3時頃)、
またしても容態が悪化。


5日、
22日の建蔵、来診。
「特に変わりはないが、
 内熱気が散じたのは喜ばしいことだ。
 だが、この病が回復に向かうのは、なかなか難しいだろう。」


13日、
室町殿足利義教の祈祷の期間中に、
護持僧満済の身内ともいうべき僧が死ぬのは不吉ではないか、
ということが、
義教周辺の三宝院満済や中納言広橋兼郷の間で話し合われたが、
やむを得まい、気にすまい、ということになったらしい。


17日、
奈良興福寺の大乗院経覚が、
賢長の容態を心配して上洛。


そうして、
8月2日、
治療の甲斐なく、賢長入滅。
34歳。
香袈裟を着て、端座正念して入滅したという。
「老後愁歎、法流衰微、
 周章、せんかたを失いおわんぬ。」(『満済准后日記』)


8日、
賢長の初七日の仏事を執り行った醍醐寺三宝院満済は、
「夢の如し。
 老心愁歎、憐れむべし憐れむべし。」(『満済准后日記』)
と述べている。
9月17日には、
賢長の跡を継いだ賢快が、その遺骨を携えて、
高野山に参詣した。


主治医をころころ替える患者、
呪術的な治療行為、
「手遅れ」と匙を投げる医者に、
「大事ない」と気休めをいう医師、
「あきらめるな」と励ます医師。
室町期の終末医療を考えるに、興味深い。




〔参考〕
『続群書類従 補遺 2 満済准后日記 下』 (続群書類従完成会 1928年)
服部敏良『室町安土桃山時代医学史の研究』 (吉川弘文館 1971年)
吉田賢司「在京大名の都鄙間交渉」 (『室町幕府軍制の構造と展開』吉川弘文館 2010年)
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《誅殺》 《1434年》 《6月》 《8日》 《享年38歳》


従二位、前権中納言。


日野家の一流裏松家は、
義資の伯母康子が、3代将軍足利義満の正室、
同叔母栄子が、4代将軍義持の正室、
義資の妹宗子は、6代将軍義教の正室(のち離縁)、
もう一人の妹重子も、義教の側室というように、
足利将軍家とのつながりを強くしていたが、
義資自身は、将軍義教に嫌われ、
所領没収や蟄居の憂き目に遭っている。


永享6年(1434)2月、
義資の妹重子が、義教の子千也茶丸を生んだとき、
籠居中の義資のもとにも、多くの人々が参賀に訪れた。
だが、このことが、
義教の心証をいっそう悪くしたらしい。
義教は、参賀した人々のリストを作成させ、
摂関家から門跡に至るまで、60人以上を処罰している。


それから4ヶ月ほど経った、6月9日の雨の降りしきる暁時、
裏松義資邸に強盗が入った。
犯人は、吊っていた蚊帳ごと、
主人義資と、同衾の青侍(奉公衆畠山持清の甥)を斬り殺して、逃走。
小袖や鏡台などのほか、義資の首も持ち去った。
「希代の横死」(『満済准后日記』)

中納言広橋兼宣曰く、
「しかしながら天罰(まったく天罰である)」(『満済准后日記』)



奇怪な事件であったが、
その後、さらなる後味の悪さが続く。

事件から数日後、
義資殺害は、将軍義教の差し金であったとの風聞が立った。
義教は緘口令を敷くが、
6月12日、この噂を流したとして、
前参議高倉永藤が、義教の近習大河内満政によって捕えられた。
永藤は、いったんは死罪とされたが、
伏見宮貞成親王のとりなしにより、硫黄島へ流罪。
永藤の子永豊は、所領没収。
さらに、
義資とともに殺された青侍の父(畠山持清の弟)も、所領没収。
これらの所領は、
義教の側近正親町三条実雅に与えられた。

「万事言うなかれ言うなかれ、」(『薩戒記』)
もはや、何が起きているのかわからない。

暗殺に緘口令に一斉処断、
「「政治」の死」と評される所以である。



義資の子重政や、青侍数名が出家。
義資の所領などは、従兄弟の烏丸資任が相続した。


宝徳2年(1450)6月、
17年忌に際し、正二位権大納言を贈られた。
ときの将軍義政の母重子は、義資の妹であり、
のちに迎える室日野富子は、義資の孫にあたる。


〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 4』 (宮内庁書陵部 2008年)
『続群書類従 補遺 2 満済准后日記 下』 (続群書類従完成会)
『史料纂集 師郷記 4』 (続群書類従完成会 1987年)
東京大学史料編纂所データベース
桜井英治『室町人の精神 (日本の歴史)』 (講談社 2001年)
森茂暁『室町幕府崩壊 将軍義教の野望と挫折 (角川選書)』 (角川学芸出版 2011年)
《病死》 《1447年》 《4月》 《29日》 《享年44歳》


正四位下、参議、右近中将。


文安4年(1447)4月28日亥の刻(夜10時頃)、
滋野井実益は脳卒中を起こし、重態に陥った。
深夜になって、心停止。
翌29日朝、死穢に備えてか、大夫将監某の屋敷に移される。
あわてて駆けつけた中原師郷は、
寝ている人のようにいびきをあげている実益の姿を見るばかりであった。
すでに駆けつけていた正親町三条実雅は、「周章の体」。
前日、日が沈むまで雑談していた相手が、
翌朝にはこのような有り様になってしまう。
「無常転変の理」(『師郷記』)を感じずにはいられなかったという。

29日申の刻(夕方4時頃)、ついにこときれた。
44歳。


実雅は、何かにつけて実益を頼っていた。
「かの心中誠に察せらるるところ也、」(『師郷記』)
と、師郷も実雅に同情を寄せている。


「寝たる人の如くいびきのごとくなる声あるばかり也、」(『師郷記』)
典型的な脳卒中の症状。



〔参考〕
『史料纂集 師郷記 4』 (続群書類従完成会 1987年)
《自害》 《1432年》 《9月》 《某日》 《享年85歳》


室町幕府直臣。


かつて室町将軍に仕えていた中条詮秀は、
6代将軍足利義教の頃には、老齢ゆえか、
本国の三河辺りにひきこもり、
在京奉公は子の満平に任せていた。

こうしたことなどが、
どうやら将軍義教の不興を買っていたようだが、
永享3年(1432)9月、義教が富士遊覧をした折、
詮秀が一向に参仕しなかったことが、
さらに義教の心証を害したらしい。


義教帰洛の後、
詮秀も上洛しようとしたが、
その途次、義教の命により、
尾張の道場において、若党3人・中間1人とともに自害。
85歳の老境に達していた。

同行していた9歳の孫は、この祖父の自害を見て、
「我も自害せん」(『満済准后日記』)と申し出た。
詮秀は自分が腹を切った刀を、孫に与えたが、
検使の尾張守護代織田某は、
「それまでは上意ではない」として、孫の自害を押し留めた。
見るものは涙を流したという。


その後、10月13日、
詮秀の子満平も、
将軍義教の拝賀の際の過失を責められ、
三河国内の所領を没収。
義教近習の一色持信らに分け与えられた。
満平は、高野山に遁世したという。


これまた義教の恐怖政治の一端を示す事件。



〔参考〕
『続群書類従 補遺 2 満済准后日記 下』 (続群書類従完成会 1928年)
『図書寮叢刊 看聞日記 4』 (宮内庁書陵部 2008年)
《誅殺》 《1424年》 《6月》 《某日》 《享年不明》


傾城の美女。


応永31年(1424)6月、奈良の祇園祭の頃、
酔っ払った「田舎人」(『看聞日記』)が、泥酔の上の粗相をした。
傾城の美女が、それを見て笑わった。
笑われたことを根にもったこの田舎者は、
その後、傾城とその亭主の傾城らを殺害。
自らも切腹して果てた。


朋輩の悲運に憤慨した田舎者の仲間たちが、大勢奈良に押し寄せ、
防戦する奈良の住民たちと、死者が出るほどの合戦に及んだ。


田舎者の都市に対するコンプレックスと、
美女に対するコンプレックスとが生んだような、
凄惨な事件。

とも映るが、
北野社僧の例にもあるように、
他人に嘲笑されることに関して、
中世人の矜持は、思いのほかの反応を示すのである。


なお、
この件のことの真相はよくわからないが、
実際にはどうやら、
興福寺と東大寺の門徒同士の対立であったらしい。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006年)
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