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死に様データベース
《自害》 《1335年》 《8月》 《19日》 《享年不明》


信濃諏訪大社の祠官。
北条得宗家の被官。


元弘3年(1333)、
新田義貞によって北条高時以下鎌倉北条氏一門が滅ぼされると、
高時の遺児時行を逃がし、匿ったのは、
信濃の諏訪氏一族であった。


後醍醐天皇の建武の新政が始まって、2年目の建武2年(1335)、
西園寺公宗による後醍醐政権の転覆計画が謀られていた。
計画は、京都にひそむ北条高時の弟時興を中心に、
時行ら各地の旧鎌倉幕府勢力を糾合しようというものであったが、
未然に漏洩して失敗。

機を逸した時行・諏訪頼重らであったが、
7月、挙兵。
信濃より上野を経て、武蔵に入り、
各地で、渋川義季・岩松経家・小山秀朝ら討伐軍を破って、
鎌倉に迫った。
鎌倉将軍府(建武政権の出先機関)の成良親王・足利直義は、
鎌倉を脱出するも、各所で時行軍の追撃を受けた。


かくして、鎌倉を占領した北条時行・諏訪頼重らであったが、
翌8月になると、
三河で直義と合流した足利尊氏に、東海道各所で敗れ、
徐々に追い詰められていく。
8月7日、三河矢作宿で、西走する直義と京都から下る尊氏が合流。
9日、遠江橋本、
12日、遠江小夜中山、
14日、駿河国府、
17日、相模箱根、
18日、相模川で、連敗を重ねたのである。
19日、片瀬・腰越で敗れた時行方は、鎌倉に引き退き、
諏訪頼重父子・安保道潭父子ら、
主だった者たちが勝長寿院に籠って自害。



 初め遠江の橋本より、
 佐夜の中山・江尻・高橋・箱根山・相模川・片瀬・腰越・十間坂、
 これら十七ヶ度の戦いに、
 平家(北条氏)二万余騎の兵ども、
 あるいは討たれあるいは疵をこうむりて、
 今僅かに三百余騎になりければ、
 諏訪三河守(頼重)をはじめとして、宗徒の大名四十三人、
 大御堂(鎌倉勝長寿院)の内に走り入りて、
 同じく皆自害して名を滅亡の跡にぞ留めける。
 其の死骸を見るに、
 皆面の皮を剥いで何れをそれとも見分けざれば、
 相模次郎時行も、定めてこの内にぞ在るらんと、
 聞く人哀れを催しけり。(『太平記』)


自己の名誉を保つためか、敵軍を欺くためか、
顔の皮を剥いだというのは、
なかなかに凄惨な状況である。


鎌倉は尊氏らに奪還された。
この争乱を、「中先代の乱」と呼ぶ。

なお、北条時行はこのとき自害せず、鎌倉を脱出。
だが、その後、単独での再起は難しく、
再び信濃方面での潜伏生活を余儀なくされた。



〔参考〕
『南北朝遺文 関東編 1』 (東京堂出版 2007年)
『日本古典文学大系 35 太平記 2』 (岩波書店 1961年)
櫻井彦『南北朝内乱と東国 (動乱の東国史)』 (吉川弘文館 2012年)
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《病死》 《1418年》 《11月》 《17日》 《享年61歳》


従一位、関白。准三后。
藤原氏長者。


一条経嗣は、二条良基の三男であったが、
一条家の当主房経が早世したため、
経嗣房経の弟、すなわち一条経通の子ということにして、
一条家を継がせたのであった。

実父二条良基にひきつづき、足利義満の信任が厚く、
その才学をもって、義満の公家社会における立場の確立に貢献した。


応永25年(1418)11月17日、没。
享年61。
「諸人仰天、哀傷是非なし。」(『康富記』)


学問に通じていたとはいえ、足利家の御用学者の感が拭えないが、
そうとうできた人物であったらしく、
死後、ずいぶんなもち上げ方をされている。

「御才智世において勝れ、誉四海に及び給う。哀々。」(『康富記』)
「有職漢才等抜群、公家の鏡たり。
 天下重臣、朝廷無人、尤も惜しむべし惜しむべし。」(『看聞日記』)


20日、雨中、東福寺にて葬送。


なお、藤原氏の氏寺興福寺では、翌18日、祭礼の後宴であったが、
経嗣死去の確報を得ていなかったため、猿楽等を催行しようとした。
だが、氏長者没直後の芸能について、田楽頭人たちが逡巡したため、
早めに切り上げている。



〔参考〕
『大日本史料 第7編之31』 (東京大学史料編纂所 2007年)
『国史大辞典 1 (あ-い)』 (吉川弘文館 1979年)
東京大学史料編纂所データベース
《誅殺》 《1431年》 《7月》 《某日》 《享年不明》


山城国伏見荘の地下人。


永享3年(1431)6月、
山城国伏見荘内で、窃盗事件が起きた。
さっそく捜索がなされ、
地下人の内本兵庫という者が、
年来盗人の疑いありとして捕えられた。

この内本兵庫には、
御所侍である善祐・助六、光台寺の僧俊意という3人の兄弟があったが、
彼らはこの兵庫という困った兄弟に、早々に見切りをつけていたようで、
善祐は1年前に義絶、
助六・俊意は、「容疑が固まったら切腹させよ」と言ったという。
ただ、伏見荘の領主伏見宮貞成親王は、
「もし無実だったらかわいそうだ」(『看聞日記』)と、
冤罪を恐れている。


当の内本兵庫は容疑を否認したが、
審判を湯起請にゆだね、有罪なら切腹も辞さないことを述べた。


湯起請とは、
起請文を記して、うそ偽りのないことを神明に誓ったのち、
熱湯に腕を入れ、その結果によってことの審判を行う、というもので、
紛争解決の手段として、中世盛んに行われた。
湯起請ののち、一定期間内に、
火傷や鼻血、病気など身体に変化があらわれた場合、
その変化を「失」といい、その方が敗訴・有罪となる。


6月4日、
伏見御香宮神社において、内本兵庫の湯起請が行われた。
結果、すぐには失は出なかったが、
3日間は経過を見るということで、兵庫は御香宮神社に召し篭められた。


翌5日、
新たに容疑者4人が拘束され、湯起請が行われることとなった。
1人は逐電、
3人が湯起請のため、御香宮神社に連れて行かれた。
1人目の結桶師は、すぐに火傷が出たため、捕縛。
後日、室町幕府侍所の獄舎に入れられた。
残り2人は失が出ず、村に返された。


6日、
内本兵庫の経過観察3日目。
まったく失が出なかったため、無罪が決定した。

放免となった兵庫は、その後伏見荘を離れ、
畿内近国を彷徨ったらしい。
7月のある日、
大和のあたりで流浪人の太刀を盗もうとして、返り討ちに殺されてしまった。

「遂に盗みを以って身を果つ。存内の事なり。」(『看聞日記』)



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006年)
清水克行『日本神判史 (中公新書)』 (中央公論新社 2010年)
《病死》 《1480年》 《正月》 《25日》 《享年55歳》


室町幕府評定衆。


嘉吉の乱~応仁・文明の乱という困難な時期に、
摂津之親は幕府の中枢にあって、8代将軍足利義政に仕えた。
吏僚の家として、
評定奉行や大嘗会総奉行など諸奉行を歴任。


文明12年(1480)正月16日朝、
日頃の疲労からか、にわかに危篤に陥り、
急死。
過労死というべきか。


実子がなく、相続が問題となったが、
養子政親が継ぐ。



〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅰ』 (石川県 1998)
東京大学史料編纂所データベース
《誅殺》 《1422年》 《某月》 《某日》 《享年不明》


冷泉家の青侍。
冷泉持和(のち持為)の継母の兄弟。


冷泉持和は、継母の比丘尼を犯し、
その懐妊を知ると、外聞を気にしてか、これを毒殺。
さらに、それから間もない応永29(1422)年、
比丘尼の兄弟の青侍を、手ずから殺害した。


翌々年の応永31年(1424)2月、
とある尼が室町幕府に訴え出たことで、
事件が公になったのである。

だが、
当の冷泉持和は、所領播磨国細河荘没収の罰のみ。
今なら極刑ものだが…。



〔参考〕
『史料纂集 兼宣公記 第2』 (八木書店 2012年)
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