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《自害》 《1444年》 《閏6月》 《20日》 《享年不明》


文安元年(1444)閏6月19日、
備中守護細川氏久の家臣葉室某が、
能登守護畠山義忠の家臣伊葉某に殺害されるという事件がおきた。

怒った細川側は、伊葉相応の人物の身柄の引渡しを要求。
応じない畠山側に対して、
細川家人らは、畠山家人宅に押し寄せ、
夜、京都の中御門京極辺で喧嘩に発展した。

管領畠山持国は、
騒乱の張本人伊葉本人の切腹をもって、事態を収めることとし、
細川側も納得して、退散。

翌20日、
伊葉切腹。


スピード解決。



〔参考〕
『増補史料大成 38 康富記 2』 (臨川書店 1965年)
『史料纂集 77 師郷記 3』 (続群書類従完成会 1986年)
清水克行『喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)』(講談社 2006年)
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《誅殺》 《1444年》 《閏6月》 《19日》 《享年不明》


美濃守護土岐氏の被官。
美濃守護代。

「豊島」「戸島」などとも表記される。


当時、
富島一族は、主家土岐氏と係争中で、
室町幕府に訴えるなどしていたが、
一向に解決しなかったという。
また、
主人土岐持益が精神異常をきたしていたため、
富島氏が出仕を怠っていたともいう。
根幹にはどうやら、富島氏と斎藤氏という、
土岐氏被官内部の対立があったらしい。


文安元年(1444)閏6月19日午の刻(正午0時頃)、
美濃守護土岐持益は、
自邸にて守護代の富島高景を誅殺した。
下手人は同僚の斎藤筑前入道

報復として、親類の富島八郎左衛門尉は、
土岐氏家臣の掴・石河・久富3人を、自宅に拉致して、刺し殺し、
火を放って本国美濃へ落ちていった。


7月10日、
富島一族は、近江勢を味方につけて、
美濃へ討ち入り、土岐方と合戦。
土岐勢36人、一族4人を討ち取った。


対する土岐方もだまっておらず、
8月7日、
土岐持益は軍勢を率いて美濃に下向。
美濃・近江国境付近は、富島方が封鎖していたため、
伊賀・伊勢経由で美濃に入った。
なお、持益は病気による心神耗弱の状態にあったらしい。

9月になっても争いはやまず、
6日と10日には、
富島勢が土岐方の斎藤氏の居館に攻め寄せた。


暴走する家臣と、それを制御できない主家。
ぐずぐずと応仁・文明の乱に突入していくのの一端。



〔参考〕
『増補史料大成 38 康富記 2』 (臨川書店 1965年)
『増補史料大成 39 康富記 3』 (臨川書店 1965年)
『史料纂集 77 師郷記 3』 (続群書類従完成会 1986年)
《戦死》 《1380年》 《5月》 《16日》 《享年31歳》


北関東の雄族宇都宮氏の当主。


父氏綱は、将軍足利尊氏に重用されて、
越後・上野守護を務めたが、
のち、鎌倉公方足利基氏に叛して両職を罷免され、
本領下野宇都宮に逼塞した。

だが、
この本領下野国内では、それなりの勢力を保っており、
所領を接する守護小山義政との競合は、避けえなかった。


康暦2年(1380)、
宇都宮基綱小山義政は、ついに武力衝突するに至る。
5月16日、
下野裳原にて、両軍は激突。
相当な激戦であったらしく、
小山方では、
一族の大内入道父子、
家臣の幸嶋・志筑・秦内氏ら、200余人が討死。
一方の宇都宮方では、
戦死者80余人と数の上では少なかったが、
その中には、当主基綱が含まれていた。
その他、
有力家臣の芳賀・岡本・船生氏らが討死。

この事態は、京都でも、
「以てのほかの大儀なり。」(『迎陽記』)
と受け止められた。


辛くも勝利を収めた小山義政であったが、
これを私戦と見て怒った鎌倉公方足利氏満は、
6月1日、
東国中に義政追討を命令。
ここに、17年続く小山氏の乱が始まる。



〔参考〕
杉山一弥「小山義政の乱にみる室町幕府と鎌倉府」 (『栃木県立文書館研究紀要』14 2010年)
江田郁夫編『下野宇都宮氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)』 (戎光祥出版 2011年)
当ブログでは、
たびたび、歴史資料や古典文学作品を引用しております。

引用にあたっては、
資料の放つ歴史的な雰囲気を感じていただきたいため、
原資料のままとしたいところですが、
原文のままでは、
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なかなか読みづらい。

そこで、
当ブログでは、基本的に、
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読み下し文を掲げております。
さらに、
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これら、読み下し文と現代語訳は、
作者本人の解釈によるものです。
ご了承ください。
誤りなどありましたら、
コメント等でご指摘いただければ幸いです。

また、
参考にした刊本は、参考文献とともに末尾〔参考〕欄に掲げております。
原文の気になる方は、どうぞご参照ください。

  
《病死》 《1443年》 《7月》 《21日》 《享年10歳》


第7代室町幕府将軍。


足利義勝は、
嘉吉元年(1441)6月の父義教の横死により、
管領細川持之らに擁されて、8歳で将軍となった。


嘉吉3年(1443)7月12日、
義勝、赤痢発病。
16日には、食事のできぬほどに悪化したが、
翌17日、医師和気茂成の献じた秘薬によって、やや回復。

医師茂成の見立てによれば、
腹の痢病自体は治まりつつあるが、
「邪気」がひどく、回復を妨げているという。
その「邪気」の正体というのが、
義教によって殺された人々の怨霊であり、
一色義貫や足利持氏、赤松満祐らの怨霊が、義教から7代後までとり殺す、
ということであった。

19日は、容態は比較的安定していたが、
20日、危篤に陥り、下血。
21日明け方、没。
わずか10歳。
雷が激しく鳴り、雨がひどく降る日であったという。


23日、
遺骸は足利家の菩提寺等持院に移され、
29日晩、荼毘。
称号は慶雲院、道号栄山、法名道春。


利発な性格であり、将来を嘱望されていただけに、
みな悲歎に暮れた。
烏丸資任が養育していた弟三春(のちの義政)が、
早々に後継者に定められた。


この後、将軍邸や大名家、寺社で奇怪なことが相次ぐ。
石清水八幡宮の大木が、風もないのに倒れた。
山名持豊の厩の馬がものを言った。
京極持清邸の畳の上に蔬が生えた。
常在光院に一色義貫の亡霊が現れた。
管領畠山持国の厩の馬がものを言い、烏に食いついた。
特に、将軍邸には、
身長7尺ばかり(約210cm)の女房や大入道、人食い妖怪が徘徊し、
女中も番衆も、とても暮らしておれず、
別の地に新たに御所を造営することになった。


頻発する火事や、慢性的な飢饉、悪党の跋扈等、
洛中には終末感が漂っている。



〔参考〕
『続群書類従 補遺 4 看聞御記 下』 (続群書類従完成会 1930年)
『増補史料大成 37 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
『大日本古記録 建内記 6』 (岩波書店 1974年)
『史料纂集 77 師郷記 3』 (続群書類従完成会 1986年)
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