死に様データベース
《病死》 《1337年》 《3月》 《27日》 《享年不明》
下総神崎荘多賀郷・常陸南郡大枝郷栗俣村の領主。
14世紀前半、全国的に展開した南北朝の動乱は、
あらゆる人々を、戦乱の渦に巻き込んでいった。
その渦中の最も中心に近いところに、
戦闘を職能とする集団である武士がいたことは、
いうまでもない。
建武2年(1335)、
足利尊氏が鎌倉にて、後醍醐天皇に叛旗を翻すと、
東国武士野本朝行も、これに随った。
12月11日、
後醍醐方と衝突した伊豆愛沢原合戦で先駆けを果たし、
同日の中山合戦では、
味方劣勢ながら、若党10余騎を率いて、
結城朝祐勢とともに敵陣に駆け入り、
敵1騎を斬り倒した。
首を取ろうとしたが、
大将山名時氏に、
「首を取らずに、先へ進め」
と命じられ、
討った敵を川端へ追い落として、進んだ。
箱根・竹ノ下の戦いとしても有名な、この一連の合戦で、
足利尊氏は、後醍醐方の新田義貞を追い散らし、
京都を目指して東海道をひた走ってゆく。
12月12日、
伊豆国府合戦で、
中間平五郎を喪う。
翌建武3年(1336)正月3日、
近江伊幾寿宮合戦で、
朝行の若党岩瀬信経は、敵城に攻め入ったが、
左右の頬を射抜かれてしまった。
他の若党丸山為時・片切成義も、負傷。
正月8日、
若党岩瀬信経らは、結城朝祐の手勢とともに、
山城石清水八幡の敵を追い落とし、
木津川の橋を渡る敵に対して、
橋上の櫓を打ち破り、橋桁を踏み落とすという活躍を見せた。
ただ、若党の一人岩瀬胤経は、負傷。
正月16日、
若党岩瀬信経・光家らは、
京都法勝寺脇に、残敵を追い詰め、
纐纈の直垂を着る、身分の高そうな武士を1騎、討ち取った。
正月27日、
この日も、若党信経・光家らが、
中賀茂の西にて、敵方の鞍馬法師3人を生け捕りにする。
だが、
その後の戦闘で、信経は乗馬を射られてしまった。
正月30日、
京都法成寺西門前の戦闘で、
朝行の郎等杉本吉弘が、
敵方結城親光の家人関孫五郎を組み伏せ、
首を取った。
これらの合戦で、
尊氏方は、いったんは京都を奪うも、
後醍醐方の来援が相次いだことで、これを放棄し、
瀬戸内を西走する。
2月1日、
朝行は、足利尊氏に随って、
丹波篠村経由で、摂津兵庫に至る。
2月10日、
摂津西宮合戦では、
尊氏の弟直義の勢に属した。
2月11日、
摂津豊島河原合戦では、河原に陣を取るも、
直義がにわかに兵庫へ帰ったことで、
朝行もこれに随った。
2月12日、
窮地の足利方は、皆決戦での討死を覚悟したが、
直義は、夜陰に船に乗って出港してしまった。
それを知らず、供奉できなかった失意の朝行は、
敵が近いこともあって、
密かに京都に入り、その人波に身を隠す。
2月30日、
その京都も脱出し、本国関東を目指す。
その途次、三河などで、
野臥の襲撃に遭うことは何度もあった。
また、
後醍醐方の遠江井伊城攻めに加わったりもしたらしい。
その後は、関東の戦乱に活動場所を移す。
後醍醐方の北畠顕家の南進の際には、
一族とともに、下野小山城に籠城し、これと戦った。
11月3日、
下野横田・毛原合戦で、敵の首1つをとる。
また、郎等大淵彦九郎入道が、負傷している。
建武4年(1337)3月10日、
後醍醐方の小田治久・益戸虎法師丸が、
常陸府中に攻めてきたときには、
若党岩瀬信経が、朝行の代官として出陣。
敵1人を討った。
それからわずか17日後、
3月27日、朝行他界。
おそらくは、戦死ではなく、病死と思われる。
「合戦の静謐を待っていた折」(「熊谷家文書」)であった。
最期の数年間、戦場に身を置いて、
ときに、仲間が傷付き、死んでゆくのを見る朝行の苦悩は、
いかほどのものであったろう。
上記の軍功のほとんどが、
朝行本人のものではなく、若党の活躍ばかりなのも、
そんな思いを反映しているのかもしれない。
戦場で落命しなかった分、
まだ幸せだったと見るべきだろうか。
朝行の死後、
子の鶴寿丸が、幼少ながら若党らを率いて戦場に出た。
建武4年(1337)7月8日、
常陸関城合戦では、
鶴寿丸の代官の1人として出陣した新妻胤重や、
一族の野本高宣以下、若党4人が、討死。
また、
野本家の所領である下総神崎荘多賀郷には、
後醍醐方の千葉貞胤が乱入し、
野本家の代官と連日合戦を行った。
常陸の所領大枝郷栗俣村にも、
後醍醐方の小田治久らが攻め入って、
代官らが焼け出され、
その家族は、山林に逃げ込んだという。
「合戦静謐」(「熊谷家文書」)を待つ、
平和を待ち望む思いは、
時代を問わない。
〔参考〕
『南北朝遺文 関東編 第1巻』 (東京堂出版 2007年)
下総神崎荘多賀郷・常陸南郡大枝郷栗俣村の領主。
14世紀前半、全国的に展開した南北朝の動乱は、
あらゆる人々を、戦乱の渦に巻き込んでいった。
その渦中の最も中心に近いところに、
戦闘を職能とする集団である武士がいたことは、
いうまでもない。
建武2年(1335)、
足利尊氏が鎌倉にて、後醍醐天皇に叛旗を翻すと、
東国武士野本朝行も、これに随った。
12月11日、
後醍醐方と衝突した伊豆愛沢原合戦で先駆けを果たし、
同日の中山合戦では、
味方劣勢ながら、若党10余騎を率いて、
結城朝祐勢とともに敵陣に駆け入り、
敵1騎を斬り倒した。
首を取ろうとしたが、
大将山名時氏に、
「首を取らずに、先へ進め」
と命じられ、
討った敵を川端へ追い落として、進んだ。
箱根・竹ノ下の戦いとしても有名な、この一連の合戦で、
足利尊氏は、後醍醐方の新田義貞を追い散らし、
京都を目指して東海道をひた走ってゆく。
12月12日、
伊豆国府合戦で、
中間平五郎を喪う。
翌建武3年(1336)正月3日、
近江伊幾寿宮合戦で、
朝行の若党岩瀬信経は、敵城に攻め入ったが、
左右の頬を射抜かれてしまった。
他の若党丸山為時・片切成義も、負傷。
正月8日、
若党岩瀬信経らは、結城朝祐の手勢とともに、
山城石清水八幡の敵を追い落とし、
木津川の橋を渡る敵に対して、
橋上の櫓を打ち破り、橋桁を踏み落とすという活躍を見せた。
ただ、若党の一人岩瀬胤経は、負傷。
正月16日、
若党岩瀬信経・光家らは、
京都法勝寺脇に、残敵を追い詰め、
纐纈の直垂を着る、身分の高そうな武士を1騎、討ち取った。
正月27日、
この日も、若党信経・光家らが、
中賀茂の西にて、敵方の鞍馬法師3人を生け捕りにする。
だが、
その後の戦闘で、信経は乗馬を射られてしまった。
正月30日、
京都法成寺西門前の戦闘で、
朝行の郎等杉本吉弘が、
敵方結城親光の家人関孫五郎を組み伏せ、
首を取った。
これらの合戦で、
尊氏方は、いったんは京都を奪うも、
後醍醐方の来援が相次いだことで、これを放棄し、
瀬戸内を西走する。
2月1日、
朝行は、足利尊氏に随って、
丹波篠村経由で、摂津兵庫に至る。
2月10日、
摂津西宮合戦では、
尊氏の弟直義の勢に属した。
2月11日、
摂津豊島河原合戦では、河原に陣を取るも、
直義がにわかに兵庫へ帰ったことで、
朝行もこれに随った。
2月12日、
窮地の足利方は、皆決戦での討死を覚悟したが、
直義は、夜陰に船に乗って出港してしまった。
それを知らず、供奉できなかった失意の朝行は、
敵が近いこともあって、
密かに京都に入り、その人波に身を隠す。
2月30日、
その京都も脱出し、本国関東を目指す。
その途次、三河などで、
野臥の襲撃に遭うことは何度もあった。
また、
後醍醐方の遠江井伊城攻めに加わったりもしたらしい。
その後は、関東の戦乱に活動場所を移す。
後醍醐方の北畠顕家の南進の際には、
一族とともに、下野小山城に籠城し、これと戦った。
11月3日、
下野横田・毛原合戦で、敵の首1つをとる。
また、郎等大淵彦九郎入道が、負傷している。
建武4年(1337)3月10日、
後醍醐方の小田治久・益戸虎法師丸が、
常陸府中に攻めてきたときには、
若党岩瀬信経が、朝行の代官として出陣。
敵1人を討った。
それからわずか17日後、
3月27日、朝行他界。
おそらくは、戦死ではなく、病死と思われる。
「合戦の静謐を待っていた折」(「熊谷家文書」)であった。
最期の数年間、戦場に身を置いて、
ときに、仲間が傷付き、死んでゆくのを見る朝行の苦悩は、
いかほどのものであったろう。
上記の軍功のほとんどが、
朝行本人のものではなく、若党の活躍ばかりなのも、
そんな思いを反映しているのかもしれない。
戦場で落命しなかった分、
まだ幸せだったと見るべきだろうか。
朝行の死後、
子の鶴寿丸が、幼少ながら若党らを率いて戦場に出た。
建武4年(1337)7月8日、
常陸関城合戦では、
鶴寿丸の代官の1人として出陣した新妻胤重や、
一族の野本高宣以下、若党4人が、討死。
また、
野本家の所領である下総神崎荘多賀郷には、
後醍醐方の千葉貞胤が乱入し、
野本家の代官と連日合戦を行った。
常陸の所領大枝郷栗俣村にも、
後醍醐方の小田治久らが攻め入って、
代官らが焼け出され、
その家族は、山林に逃げ込んだという。
「合戦静謐」(「熊谷家文書」)を待つ、
平和を待ち望む思いは、
時代を問わない。
〔参考〕
『南北朝遺文 関東編 第1巻』 (東京堂出版 2007年)
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《誅殺》 《1430年》 《2月》 《17日》 《享年不明》
室町幕府政所執事伊勢貞経の家臣。
永享2年(1430)2月17日、
主人伊勢貞経の屋敷にて、
突如討たれた。
「女の事」(『満済准后日記』)が理由にあったというが、
当初の予定では、捕縛するはずであったところ、
抵抗したためか、討たれてしまった。
このとき、
同族の高橋彦左衛門も、召し捕えられている。
しかも、後々わかったことには、
高橋四郎には特に罪はなく、
完全に濡れ衣であったらしい。
主人伊勢貞経の「楚忽の沙汰」(『満済准后日記』)であり、
「不便々々(ふびんふびん)」(『満済准后日記』)というほかない。
〔参考〕
『続群書類従 補遺一 満済准后日記(下)』 (続群書類従完成会 1928)
室町幕府政所執事伊勢貞経の家臣。
永享2年(1430)2月17日、
主人伊勢貞経の屋敷にて、
突如討たれた。
「女の事」(『満済准后日記』)が理由にあったというが、
当初の予定では、捕縛するはずであったところ、
抵抗したためか、討たれてしまった。
このとき、
同族の高橋彦左衛門も、召し捕えられている。
しかも、後々わかったことには、
高橋四郎には特に罪はなく、
完全に濡れ衣であったらしい。
主人伊勢貞経の「楚忽の沙汰」(『満済准后日記』)であり、
「不便々々(ふびんふびん)」(『満済准后日記』)というほかない。
〔参考〕
『続群書類従 補遺一 満済准后日記(下)』 (続群書類従完成会 1928)
《誅殺》 《1245年》 《12月》 《7日》 《享年不明》
山城禅定寺の寄人。
寛元3年(1245)12月7日、
山城宇治の禅定寺の寄人6人が、
用あって上京した。
その途次、法性寺の辺りで、
山城木幡の住人8人と行き会い、
七条河原辺で、馬の走り競いをすることになった。
その際、禅定寺寄人方が、
跳ねて暴れる木幡住人方の馬を、牽き抑えた。
この行動が、木幡住人の怒りに触れたらしい。
寄人の尻を蹴り上げ、
首をつかんで散々に打ちつけた。
この仕打ちに、
寄人たちも野次馬も驚いたが、
衆寡敵せず、寄人たちは引き下がった。
まだ腹の虫がおさまらない木幡住人たちは、
木幡周辺で待ち伏せし、
帰路にあった寄人たちを襲撃。
乱闘の末、
深夜子の刻(8日深夜0時頃)、
寄人の美乃という名の男が、一坂にて死亡。
いま一人も、瀕死の重傷を負った。
木幡住人たちは、あろうことか、
寄人たちの金銭を奪い取って、山中へ逃亡した。
禅定寺は、憤慨して猛抗議。
本寺の宇治平等院も、摂関家に訴え出た。
犯人の身柄引き渡しを要求した禅定寺方は、
「木幡山において頸を切り懸くるべく候、」(『禅定寺文書』)
と、息巻いたが、
木幡住人の中六・藤三郎という男2人が、
検非違使庁に差し出され、禁獄、
というほかは、よくわからない。
中世人の沸点は低く、恐ろしい。
〔参考〕
古代学協会『禅定寺文書』 (吉川弘文館 1979年)
朝比奈新「摂関家領荘園の領域形成と地域」(歴史学研究会中世史部会報告レジュメ 2012年2月)
山城禅定寺の寄人。
寛元3年(1245)12月7日、
山城宇治の禅定寺の寄人6人が、
用あって上京した。
その途次、法性寺の辺りで、
山城木幡の住人8人と行き会い、
七条河原辺で、馬の走り競いをすることになった。
その際、禅定寺寄人方が、
跳ねて暴れる木幡住人方の馬を、牽き抑えた。
この行動が、木幡住人の怒りに触れたらしい。
寄人の尻を蹴り上げ、
首をつかんで散々に打ちつけた。
この仕打ちに、
寄人たちも野次馬も驚いたが、
衆寡敵せず、寄人たちは引き下がった。
まだ腹の虫がおさまらない木幡住人たちは、
木幡周辺で待ち伏せし、
帰路にあった寄人たちを襲撃。
乱闘の末、
深夜子の刻(8日深夜0時頃)、
寄人の美乃という名の男が、一坂にて死亡。
いま一人も、瀕死の重傷を負った。
木幡住人たちは、あろうことか、
寄人たちの金銭を奪い取って、山中へ逃亡した。
禅定寺は、憤慨して猛抗議。
本寺の宇治平等院も、摂関家に訴え出た。
犯人の身柄引き渡しを要求した禅定寺方は、
「木幡山において頸を切り懸くるべく候、」(『禅定寺文書』)
と、息巻いたが、
木幡住人の中六・藤三郎という男2人が、
検非違使庁に差し出され、禁獄、
というほかは、よくわからない。
中世人の沸点は低く、恐ろしい。
〔参考〕
古代学協会『禅定寺文書』 (吉川弘文館 1979年)
朝比奈新「摂関家領荘園の領域形成と地域」(歴史学研究会中世史部会報告レジュメ 2012年2月)
《戦死》 《1336年》 《8月》 《20日》 《享年不明》
鎌倉鶴岡八幡宮に仕える侍。
横地某の養子となっていた。
建武3年(1336)8月20日亥の刻(夜10時頃)、
悪党50人余が、鶴岡八幡宮の境内に乱入した。
神宝を強盗しようとしたらしい。
宿直の番をしていた小栗十郎は、
下宮まで出て防戦し、悪党を追い帰したが、
自身も重傷を負った。
運ばれたか、
それとも自力でたどりついたか、
上宮廻廊妻まで来たところで、絶命。
鶴岡八幡宮の史料には、
「無双高名」(『鶴岡社務記録』)
と、ある。
ひと月後の9月28日、
再び悪党が宝蔵に押し寄せ、
小栗十郎の養父横地らが、防戦して追い帰した。
悪党らは、手負いの仲間や仲間の死体を抱えて、
帰って行った。
列島各地で北朝と南朝が相争う、混乱した時代の、
都市鎌倉の様相が、窺い知れる。
〔参考〕
豊田武・岡田荘司校注『神道大系 神社編20 鶴岡』 (神道大系編纂会 1979)
鎌倉鶴岡八幡宮に仕える侍。
横地某の養子となっていた。
建武3年(1336)8月20日亥の刻(夜10時頃)、
悪党50人余が、鶴岡八幡宮の境内に乱入した。
神宝を強盗しようとしたらしい。
宿直の番をしていた小栗十郎は、
下宮まで出て防戦し、悪党を追い帰したが、
自身も重傷を負った。
運ばれたか、
それとも自力でたどりついたか、
上宮廻廊妻まで来たところで、絶命。
鶴岡八幡宮の史料には、
「無双高名」(『鶴岡社務記録』)
と、ある。
ひと月後の9月28日、
再び悪党が宝蔵に押し寄せ、
小栗十郎の養父横地らが、防戦して追い帰した。
悪党らは、手負いの仲間や仲間の死体を抱えて、
帰って行った。
列島各地で北朝と南朝が相争う、混乱した時代の、
都市鎌倉の様相が、窺い知れる。
〔参考〕
豊田武・岡田荘司校注『神道大系 神社編20 鶴岡』 (神道大系編纂会 1979)
《病死》 《1350年》 《3月》 《2日》 《享年不明》
法印権大僧都。
独清軒。
玄恵とも。
漢学や詩歌に通じ、
公家社会などで重用された。
また、
足利直義とも親しく、
室町幕府の基本法令『建武式目』の起草にも関与している。
足利尊氏とその庶長子直冬の間をとりもつよう、
直義に進言したのも、
玄慧であったという。
貞和5年(1349)閏6月、
直義は、対立する高師直の排除に、いったんは成功するものの、
その2ヶ月後、巻き返しにあって、
政務より引退。
京都三条坊門高倉の屋敷も、尊氏の嫡子義詮に譲って、
12月、42歳にして剃髪し、
錦小路堀川の細川顕氏亭に籠居した。
その直義の無聊を慰めたのが、
玄慧であった、と『太平記』は伝えている。
師直の許可を得て、度々直義のもとを訪れ、
様々な物語を聞かせたという。
その玄慧も、やがて老病に冒される。
直義は、薬1包を玄慧に贈り、
その包み紙に、
ながらへて問へとぞ思ふ君ならで今は伴ふ人もなき世に (『太平記』)
と、詠んだ。
玄慧は、これを読んで涙し、
君が一日の恩を感じ
我が百年の魂を招く
病を扶けて床下に坐す
書を披いて泪痕を拭ふ (『太平記』)
と、詠んだ。
平癒を祈る直義と、それに感じ入る玄慧。
なんとも、友と呼ぶにふさわしい交流である。
観応元年(1350)3月2日、円寂。
直義は深く悲しみ、
上の漢詩に紙を貼り継ぎ、経典の一句を書き入れて、
玄慧の菩提を弔った。
嘆いたのは、直義ばかりではない。
洞院公賢は、
「文道の衰微か。
天下頗る不問文王没落か。
不便々々。」(『園太暦』)
と、記し、
頓阿は、直義の弔歌を読んで、
なき跡をとはるゝまでものこりけり窓にあつめしゆきの光は (『草庵和歌集』)
と、詠み、
そのほか、多くの禅僧やときの文化人たちが、
玄慧の死を惜しんだ。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十三』 (1914)
『太平記 三 日本古典文学大系36』 (岩波書店 1962)
『国史大辞典 5 (け-こほ)』 (吉川弘文館 1985)
法印権大僧都。
独清軒。
玄恵とも。
漢学や詩歌に通じ、
公家社会などで重用された。
また、
足利直義とも親しく、
室町幕府の基本法令『建武式目』の起草にも関与している。
足利尊氏とその庶長子直冬の間をとりもつよう、
直義に進言したのも、
玄慧であったという。
貞和5年(1349)閏6月、
直義は、対立する高師直の排除に、いったんは成功するものの、
その2ヶ月後、巻き返しにあって、
政務より引退。
京都三条坊門高倉の屋敷も、尊氏の嫡子義詮に譲って、
12月、42歳にして剃髪し、
錦小路堀川の細川顕氏亭に籠居した。
その直義の無聊を慰めたのが、
玄慧であった、と『太平記』は伝えている。
師直の許可を得て、度々直義のもとを訪れ、
様々な物語を聞かせたという。
その玄慧も、やがて老病に冒される。
直義は、薬1包を玄慧に贈り、
その包み紙に、
ながらへて問へとぞ思ふ君ならで今は伴ふ人もなき世に (『太平記』)
と、詠んだ。
玄慧は、これを読んで涙し、
君が一日の恩を感じ
我が百年の魂を招く
病を扶けて床下に坐す
書を披いて泪痕を拭ふ (『太平記』)
と、詠んだ。
平癒を祈る直義と、それに感じ入る玄慧。
なんとも、友と呼ぶにふさわしい交流である。
観応元年(1350)3月2日、円寂。
直義は深く悲しみ、
上の漢詩に紙を貼り継ぎ、経典の一句を書き入れて、
玄慧の菩提を弔った。
嘆いたのは、直義ばかりではない。
洞院公賢は、
「文道の衰微か。
天下頗る不問文王没落か。
不便々々。」(『園太暦』)
と、記し、
頓阿は、直義の弔歌を読んで、
なき跡をとはるゝまでものこりけり窓にあつめしゆきの光は (『草庵和歌集』)
と、詠み、
そのほか、多くの禅僧やときの文化人たちが、
玄慧の死を惜しんだ。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十三』 (1914)
『太平記 三 日本古典文学大系36』 (岩波書店 1962)
『国史大辞典 5 (け-こほ)』 (吉川弘文館 1985)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
6歳 | ||
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
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本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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