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死に様データベース
《誅殺》 《1419年》 《2月》 《4日》 《享年不明》


室町将軍足利義持の近臣。


富樫満成は、幼いころより義持に仕え、
近習として、義持の使者や供奉役をたびたび務めた。
応永21年(1414)には、加賀半国守護となり、
富樫家惣領である兄満春と、本国を半国ずつ治めている。


応永25年(1418)正月25日、
将軍義持の命を受けて、
謀叛の嫌疑で幽閉されていた義持の弟義嗣を討った。
同じころ、
義嗣に加担した公家日野持光・山科教高も、
配流先の加賀で誅殺された。
先述のとおり、加賀は満成の守護分国である。

同年7月、
畠山満慶・山名時煕・土岐康政(故人)ら幕閣にも、
謀叛人義嗣に加担した疑いが向けられ、
守護罷免・所領没収・出仕停止等の処分が下された。
その義持の命を取り次いだのも、満成であった。

満成は、いわば反義持派弾圧の下手人だったのである。


将軍の寵臣として、権勢を誇ったかに見えた満成であったが、
その幕引きはあっけない。

同じ応永25年(1418)11月22日、
満成は突如、
義持より「勘当」を言い渡された。
紀伊高野山に逃げ込んだが、
数日後にはそこも逐われ、流浪の身となったらしい。
所領・屋敷は没収され、
加賀半国守護職は兄満春に統合された。

巷では「勘当」の理由として、
義嗣に謀叛を勧めたのは、満成であったから、
義嗣の愛妾林歌局との密通が露見したから、
などと噂された。


翌応永26年(1419)2月4日頃、
大和吉野の山奥、天河の地に潜んでいた満成のもとに、
義持の赦免を報じる僧が現れた。
その言葉を信じて、僧とともに河内まで出たところ、
待ち構えていた国人によって討たれた。
義持より畠山満家に、満成討伐の命があったという。


この、あまりにあっけない失脚劇の背景には、
足利義嗣事件の真相を暴かれることを恐れた幕閣、
近習への権力集中を危ぶんだ義持
抬頭する庶子家を快く思わない富樫惣領家、
その他、満成の勢威に反感を抱く人々等、
様々な存在がうかがえる。

「権威傍若無人」(『看聞日記』)といわれた君側の奸の、
典型のような死である。



〔参考〕
『加能史料 室町Ⅱ』 (石川県 2002)
伊藤喜良『足利義持 (人物叢書)』 (吉川弘文館 2008)
桜井英治『日本の歴史 第12巻 室町人の精神』 (講談社 2001)
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