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死に様データベース
《病死》 《1416年》 《11月》 《20日》 《享年66歳》


崇光天皇皇子。
伏見宮家初代。


父崇光天皇は、持明院統・北朝の正統であったが、
南北朝の動乱の過程で廃位され、
皇位は弟の後光厳天皇にわたった。
崇光上皇は、嫡男栄仁親王の立坊(立太子)を望んだが、果たされず、
後光厳天皇の系統が継ぐこととなる。

崇光上皇没後、
栄仁親王はその遺領を、
後小松天皇(後光厳の孫)に没収されるなど、
非常に苦しい立場にあった。


応永22年(1415)冬、
65歳になる栄仁親王は、脚気が再発。
翌応永23年(1416)夏頃から、
食が細くなり、めっきり憔悴してしまった。

この間、
同阿、高間といった医師たちが治療を行ったが、
快復には向かわなかった。


8月19日、
腰痛で、起きることすらままならなくなった。
医師竹田昌耆が来診し、
2日後、十四味建中湯と腰に付ける薬を調進。

25日と27日には、
大光明寺の継首座が、
医師心知客秘伝の術の、腰痛に効くという灸を、施した。
同時に、24~27日、祈祷のため大般若経が読まれている。


9月2日、
病気快復と旧領回復のため、伏見宮家の近臣や女房たちが、
当時霊験あらかたと流行していた桂地蔵に参詣。


翌10月頃から、
栄仁の終末への準備が始められていく。

10月4日、栄仁詠歌の撰集が開始される。
8日頃、腰痛再び悪化。
11月になっても、回復の兆しはなく、
12日、医師昌耆が灸を施すなど、治療が続けられた。
同日、詠歌の撰集が終了。
13日には、大光明寺への置文が作成された。


11月3日、
前月に続いて、貞成王の顔拭いの布がネズミにかじられる、
ということがあったが、
のち、貞成は、
 これが凶兆だったのかもしれない、
と回想している。


20日、
暁より下痢にかかり、危篤。
夜前、左の脈が絶える。
この頃連日、医師昌耆を呼んでいたが、
都合が悪かったのか、このときも来なかった。
未の刻(午後2時頃)、粥を食べ、平臥した。
次男貞成王が、背中から抱きかかえたが、
辛そうな様子であった。
御前に伺候した仕女の対御方は、
悲しみのあまり嗚咽を漏らしていたが、
栄仁は、それが見えているかどうかも怪しいほど、
意識が混濁としていた。

貞成に代わって、尼玄経が抱きかかえていた頃、
栄仁が「起き上がりたい」というので、起き上がらせた。
だが、
顔色が急変し、喋ることもままならず、
口を閉じることすらできなくなった。
蘇合を口に含ませたが、飲み込めず、
非常に苦しげであった。

このとき、栄仁の周囲にいたのは、
次男貞成王・仕女対御方・近臣田向長資・その姉妹の尼玄経ら。
今度は、田向長資が抱き支えた。

急ぎ呼び集められた、
嫡男治仁王・近衛局・近臣庭田重有らが、集まったところで、
水を口に含ませようとしたが、
飲み込めず、
閉眼。

66歳。


次男貞成王の記。
「其の姿之を見る。
 いよいよ哀傷肝に銘じ、悲涙眼に満つ。
 予、去んぬる応永十八年此の御所へ参り候。
 爾来以降六年の間、日夜昵近、朝暮孝を致す。
 殊更去年御病悩より御臨終に至るまで、
 看病寸暇を競い、忠孝の懇志に励むのみ。
 つらつら案ずるに、
 進退の安否前後惘然、
 只愁涙を拭うのほか他念無きものなり。」(『看聞日記』)


前日19日には、孫娘あごご(貞成の娘)が生まれたばかりであり、
また、懸案の伏見宮家領は、いまだ後小松上皇の院宣が出ておらず、
念願の旧領回復は、まだ先の話であった。

知らせを受けた室町殿足利義持は、
 荼毘は、崇光上皇のときと同じように執り行うように、
と、命じた。
とはいえ、宮家の経営が厳しい折、
そっくりそのままというわけにもいかず、
一部は省略などしなければならないのが実情であった。


生前、栄仁は、
播磨国石見郷を菩提料所として、伏見大光明寺へ寄進し、
没後のことはその年貢をもって賄うこと、
毎事簡略の儀をもってし、大光明寺に負担をかけぬようにすること、
位牌には「大通院無品親王」と書くべきこと、
を言い置いた。
これらの旨も、幕府へ届け出られ、許可が出ている。


23日寅の刻(午前4時頃)、
遺骸は輿に乗せられて、大光明寺に運ばれた。
御簾をあげてその死に顔を見た次男貞成王は、
「聊かも変色なく、
 平生の御時眠る如し。
 凡そ御終焉の儀、悪想現れず。
 御往生と謂うべきものか。」(『看聞日記』)
続けて、
「今年六十六歳、
 宝算長久と雖も、夢の如く幻の如し。
 嗚呼登極の御先途遂にもって達せられざるの条、
 生前の御遺恨此の一事に在り。
 毎事悲歎落涙のほか他事無し。」(『看聞日記』)
と記す。

長寿を得たとはいえ、
即位の夢も果たせず、
所領の回復もままならず、
思い残すことは、少なくなかったであろう。


24日、大光明寺にて荼毘。
伏見宮家親族や侍臣たちが集まり、
おごそかに執り行われた。

荼毘の最中、
桟敷のあたりから人魂が飛んだという。



初七日の翌25日、拾骨。
その後、
12月2日、二七日の仏事。
7日、三七日、
12日、四七日、
13日、遺骨は深草法華堂や椎野浄金剛院に分納された。
17日、卅五日、
21日、六七日の仏事引き上げ、
25日、尽七の儀結願、
明けて応永24年(1417)正月9日、四十九日。
折も折、
関東における上杉禅秀の乱と、
京都での、それにともなう足利義嗣逐電事件のさなかであったが、
洛外の伏見ゆえか、その影響もなく、
いずれも滞りなく行われている。


そして、伏見宮家は栄仁の嫡男治仁王が継いだが…。



〔参考文献〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
横井清『室町時代の一皇族の生涯 『看聞日記』の世界 (講談社学術文庫)』 (講談社 2002年)
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《病死》 《1416年》 《8月》 《15日》 《享年38歳》


正二位、権大納言、右近衛大将。


応永23年(1416)8月11日、
花山院忠定は、
死の床にて、右近衛大将の宣下を受けた。
清華家花山院流藤原氏の嫡流として、
家格や体面を保つための処置であろう。

15日、逝去。
38歳。


だが、
忠定には子がなく、
家を相続する者がいなかった。


そこで、適当な相続人を探すこととなり、
11月9日、
南朝の関白近衛経家の子孫で12歳になる子に、白羽の矢が当たり、
南朝に仕えた別流の花山院家出身の僧耕雲(子晋明魏、俗名花山院長親)の猶子として、
花山院家を次がせるこことなった。
彼は、伏見宮家に仕える小上臈という女房の弟だという。


応永25年(1418)2月25日、
その子は、室町殿足利義持の加冠によって元服。
持忠と名乗る。


当主が死んでも、血が絶えても、
家だけは続く。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
『続群書類従 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1928年)
『国史大辞典 3 (か)』 (吉川弘文館 1983年)
《病死》 《1416年》 《7月》 《20日》 《享年不明》


今出川公直の妻。
今出川公行の母。


応永23年(1416)7月12日、
西谷にある亡き夫今出川公直の墓所へ、
焼香へ行った南向は、
その帰邸後、痢病に罹り、
16日、重篤に陥った。
老体には堪えたらしい。

17日夜、
いよいよ臨終かとなって、末期の水をとらせようとしたところ、
わずかに息を吹き返した。
このとき、医師丹波頼直は、
早朝のためか、駆けつけることができなかった。

20日午の刻(正午0時頃)、
出家の後、逝去。


23日、東山法幢寺にて、荼毘に付される。


幼いころより今出川家で養育されていた伏見宮貞成王は、
南向を育ての母と思ってきた。
貞成が伏見宮邸に戻って以降、無沙汰となっていたが、
南向は、最後まで貞成のことを気にかけており、
これを知った貞成は、
「かたがたもって哀懃無極、」「哀傷少なからず、」(『看聞日記』)
と嘆き、悔やんでいる。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
《誅殺》 《1433年》 《2月》 《8日》 《享年不明》


永享5年(1433)2月8日、洛中の大路にて、
酔っ払ったが太刀を抜いて走り回り、人々を追い回す、
という事件が起きた。

その
花山院持忠邸の築地の内側に走り込んで、
下人1人に怪我を負わせたところ、
青侍や下部たちによって、たちまちのうちに殺害された。


自力救済世界の正当防衛法。


〔参考〕
『大日本古記録 薩戒記 5』 (岩波書店 2013年)
《戦死》 《1336年》 《11月》 《3日》 《享年不明》


下野佐野荘を本領とする国人領主。
佐野惣領家ではなく、
有力庶子家の出身だったようである。


建武2年(1335)、
鎌倉にあった足利尊氏が、
後醍醐天皇の建武政権からの決別を明らかにすると、
佐野義綱も、佐野にあって尊氏方へついた。


11月末から、
東海道にて、尊氏方と後醍醐方の戦端が開かれる。
当初は三河・遠江・駿河で、
尊氏の弟直義・高師泰が敗退するなど、
後醍醐方が優勢であったが、
12月中旬、箱根・竹ノ下の合戦で、
尊氏が新田義貞を破って以降、形勢は逆転する。


それから間もない12月19日、
義綱は、同族の阿曽沼朝綱に本領佐野荘へ乱入されたが、
佐野河原にてこれを追いかえした。

同月27日には、
足利氏一族の小俣少輔次郎に属して、
上野男山合戦に参戦。

28日、下野足利町河原合戦では、
敵2人を討ち取る。


この間の12月22日、
陸奥の北畠顕家が、大軍を率いて南下し、
鎌倉を攻撃しているから、
それにともなう戦争が、
関東各地で起きていたものと思われる。


年明けて建武3年(1336)正月9日、
上野新田城を攻め落とし、
笠懸原合戦では、敵1人を討ち取りつつ、乗馬を斬られた。

3月10日、
上野中野館でも、敵1人を討ち取り、
若党清弥九郎も、2人を討ち取った。


その後も義綱は、足利方に属して、
関東にて数々の戦功を立てた。


4月22日、上野利根川渡河戦では、
一族佐野清綱とともに、敵陣に先駆けし、
敵方阿代氏の被官五郎兵衛尉経政を討ち取る。

翌23日、上野板鼻合戦では、敵2人を討ち取りつつ、
乗馬を斬られる。

28日には、
父とともに、感状を与えられた。

29日、
下野沼和田合戦では、
旗差しの孫三郎が負傷。

6月20日、
下野古江山合戦で、
阿曽沼朝綱の被官土淵又六の肘を斬り落とす戦功。

8月9日にも、
下野天命堀籠で宿敵阿曽沼朝綱と戦い、
その家人飯土井四郎を斬った。

11月3日の宇都宮発向に際しては、
桃井直信麾下にあって、下野犬飼・栗崎合戦で先駆け、
武者1人、ほか2人を討ち取った。
だが、
敵の再襲を受け、義綱は討死。


翌月、
義綱の遺児安房一王丸は、父の戦功を室町幕府に訴え、
認められた。
「凡そ悲歎無極といえども、家名至極せしむるものや。」(「落合文書」)
元服前の幼い身とはいえ、安房一王丸にとって、
の戦死を嘆き悲しんでいる暇などなかったのである。
関東の南北朝内乱は、
義綱の死後、なお20年近く続く。


この佐野義綱の戦死は、
山内経之のように、時代の渦に巻き込まれた末の死のようにも見える。
だが、
本領佐野荘が隣接する阿曽沼郷の阿曽沼朝綱との幾度の争いというように、
近隣領主間の抗争という側面もあった。
南北朝内乱が、
上位権力(足利尊氏や後醍醐天皇など)の戦争であった半面、
実質的には、各地の領主たちの所領・境界をめぐる抗争という面も、
濃厚に有していたことを、示している。



〔参考〕
『南北朝遺文 関東編 1』 (東京堂出版 2007年)
櫻井彦『南北朝内乱と東国 (動乱の東国史)』 (吉川弘文館 2012年)
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