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死に様データベース
《病死》 《1378年》 《4月》 《17日》 《享年46歳》


関東管領。
宅間上杉氏。

足利直義の寵臣として、草創期の室町幕府で活躍し、
南北朝期の政争の中で、非業の死をとげた、養父重能
南北朝内乱を巧みに生き抜き、
関東における上杉氏の地位を築き上げた、実父憲顕
上杉能憲は、
この2人の偉大な父の影響を、存分に受けたであろう。
憲顕の死後、関東管領の職を継ぎ、
南朝残党の蜂起や、千葉氏と香取社の争いがありながら、
幼い鎌倉公方足利氏満を支えて、巧みに東国を治めている。
と同時に、
自身も、実父憲顕から受け継いだ上杉氏の地位を、
さらに強固なものとした。


永和2年(1376)3月、能憲は病に臥した。
5月8日、重篤に陥り、
弟憲方への家督相続や所領の譲与を遺言した。
翌9日には、
見舞いに訪れた禅僧義堂周信に、
臨終にあたっての心構え等を問うたりしている。

同日、能憲は、
鎌倉公方足利氏満に、関東管領の辞職を願い出た。
氏満は受け付けなかったが、
10日、能憲が再び願い出たところ、
氏満は、
「関東管領職の任免権は、室町幕府にある。
 急ぎ幕府にうかがうから、返答が来るまで待つがいい。」
と答えた。
それを聞いた能憲の顔には、わずかに回復の色が表れ、
人々は、
関東管領の重責が、病の原因だったのだろう、
と噂した。

その後、能憲の病はいったん癒えたらしい。
翌6月に再発。
8月、
幕府からの文書が到来し、
能憲に関東管領復職が厳命された。
能憲は一度固辞したが、
義堂周信の説得もあって、復職を受け入れた。


その後も能憲の病は、再発と回復を繰り返していたのだろう。
2年後の永和4年(1378)4月、再発。
11日、再び弟憲方への家督相続の譲与状を認めている。
17日、危篤に陥り、
巳の刻(午前10時頃)、
鎌倉宅間谷の自邸にて、逝去。
46歳。
一度は死期を悟ったあと、
その2年間を、どのような気持ちで過ごしただろうか。

義堂周信は、危篤の報を受けて駆け付けたが、
臨終には間に合わなかった。
その顔は、穏やかに笑っていて、
まるで生きているかのようだったという。
棺は、宅間谷より報恩寺に移され、
翌18日、荼毘、
20日、納骨。


四十九日の法要は、次弟憲春がとりしきったが、
その他の葬儀全般は、三弟憲方がとりしきった。
憲方はまた、
実子を能憲の猶子とし、能憲旧邸を報恩寺の塔頭とするという、
能憲の遺命の遂行者でもあった。

生前、能憲は、
次弟憲春がいるにもかかわらず、
それをとびこえて、三弟憲方を家督継承者に指名している。
しかし、
憲春はそれに容易に従わず、
上杉氏の家督に付随する所領や役職を、保持し続けた。
どうやら、能憲跡の相続をめぐって
憲春・憲方兄弟の間に、対立があったらしい。


故人に指名された相続人は誰か、
相続人であることのアピールとして、葬儀をとりしきるのは誰か、
遺言を無視して、実力で保持し続けるのは誰か。
ドロドロした現代劇と、さして変わらないように思われる。



〔参考〕
『新潟県史 資料編3 中世1 文書編Ⅰ』 (新潟県 1982)
蔭木英雄『訓注空華日用工夫略集 中世禅僧の生活と文学』 (思文閣出版 1982)
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