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死に様データベース
《自害》 《1379年》 《3月》 《7日》 《享年不明》


関東管領。
山内上杉氏。


永和5年(1379)3月7日、
関東管領の職にあった上杉憲春は、
突如自害した。
鎌倉山内の自邸の持仏堂とも、
鎌倉宅間の報恩寺ともいわれている。


永和5年(1379)、鎌倉公方足利氏満は、
京都での政変に乗じて上洛し、将軍足利義満にとってかわろう、
と、野望を抱いていた。
その主人の企みを聞いた憲春は仰天し、
再三思いとどまるよう諫言したが、聞き入れられることはなかった。
鎌倉山内の自邸に戻った憲春は、妻を呼び、
「思い立つことがあるので、尼になってくれないか」と頼んだ。
妻は驚いたが、「賢者第一の人」である夫の言うことであり、
何か訳があるのだろうと、「安き御望み」と了承した。
髪を切り、法衣の仕立てをする妻を見て、
憲春は、
「すまないことを頼んでしまったが、後々わかってほしい」
と、笑みをこぼして言った。
そして、
主人氏満への諫状を認め、持仏堂に籠って切腹した。

と、
軍記物『鎌倉大草紙』では、最期の夫婦の交感を描いている。


しかし、
自殺の原因は、主人への諫死だけではなかったらしい。


東国における上杉氏の地位を築き上げた、偉大な父憲顕ののち、
その地位は憲春の兄能憲が継承し、さらに強固なものとした。
病に臥せた能憲は、
自分の跡を、次弟憲春を飛び越えて、三弟憲方に継がせようとし、
憲春の保持する上野守護職も、憲方に渡すよう言い置いて、
永和4年(1378)、世を去った。
だが、憲春は、
この兄の遺言を無視して、上野守護であり続けたばかりか、
能憲の後、関東管領にも就任し、所領も保持し続けた。
これには、公方氏満の意向も働いたかもしれないが、
能憲と弟憲方に対して、憲春も含むところがあったに違いない。
とはいえ、
上杉氏の家督は、あくまで弟憲方であり、
憲春の立場は、非常に危ういものだった。


要するに、憲春は、
諫言を聞き入れない公方氏満、
公方氏満の制止を求める室町幕府・将軍足利義満、
上杉氏の正規の家督継承者である、有能な弟憲方、等々、
様々な板挟みのジレンマ・ストレスに苛まれていたのである。
そうして「欝憤」「狂乱」(『迎陽記』)の状態に陥って、
思い余ったものだろう。

それにしても、唐突さがぬぐえない。
なにやら“自殺”という現代的な響きのほうが、
しっくりくる自死である。



〔参考〕
岩崎学「関東管領上杉憲春の自殺」 (『小田原地方史研究』16 1988)
小国浩寿「鎌倉府北関東支配の形成」 (『鎌倉府体制と東国』吉川弘文館 2001)
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